ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

2024.3.26

どうしても自分では抱えきれない、八方塞がりになるのは人に吐き出させてもらう。

いつも同じようなことを言って、私のことで時間を取るなんて申し訳ないとも思っている。

時間のなさ、大切さを分かっているからこそ。

いつも、ごめんねごめんね、って思いながらも吐き出してしまう。

そしてすっきりして、こんなことばっかり言ってただめだ、がんばろっ!

って戻ってくる。

私は本当にただただ吐き出したいだけなんだと思った。

ただただ受け止めてほしいだけなんだと。

 

きいてくれたんだから、時間を割いてくれたんだから存分に甘えよう。

そして、次会ったときは感謝の気持ちで接しよう。

感謝の気持ちはできるだけ伝えたい。でも言葉だけじゃ伝わらないもどかしさ。

 

私は話を聞いてほしいのに、自分の話なんて申し訳ないとか、筋道立てて話せないから変に思われるとか、オチもないからつまんないとか、勝手に思ってどんどん胸に詰まっていく。

胸が痛いのどが痛くなる。

 

自分が想像する「ちゃんと」にはなれない。

 

 

ある人が言った。

「対面ですること、教わる情報の太さは全然違う。」

その言葉をきいて、私の今までがなるほど!っとリンクした。

人と接してすることに、緊張感や相性はもちろんあるけど、それ以上に自分の中に入ってくるものが違う。

技術云々よりも、どんな風にその人が、その物事と向き合っているのか、ネットや文字では分からない、五感を通じての学びが必ずある。

その熱量が自分にも入ってくる。

それが何よりも人とすることのいい面なのでは。

私も、家で自分でストレッチをするのとピラティスの教室に行ってするのとでは、感覚が違う。

YouTubeをみて、ボイトレするのと、教室に行ってするのと。

1人で弾き語り練習するのと、誰かと合わせるのと。

人によっては合わないなという人もいるけど、それは仕方ない。

学びって「人」にあるなと改めて感じた。

だから、誰と一緒にいるか、環境ってすごく大事だ。

選択して動かなきゃ。

変化は怖いけど、新しいことに踏み出す、変化することは幸せなこと。

 

 

 

もう1つ…

気付かないところで、誰かの何かはその人が置いていくことによって誰かに少なからず影響しているというのを実感したことがある。

あるお客様がミントを受付に持ってきた。

「ご自由にお食べください。」という文言を鉢に書いて。

お客様みんな、お会計のときの手持ち無沙汰に話のネタにする。

食べる人もいれば敬遠する人もいるが、どちらも影響を与えている。

ある人は持って帰って、水に差して根を生やして鉢に植えたとも。

(あぁ、こうやって広がっていくんだな)

って感じた。

ひとりで大事に抱えているよりもずっといいことがあるし、ずっと人に何かを渡している。

本当に大事なものは、むやみやたらにばらまかなくとも、ある程度の物なら、共有した方がずっとっずっといいんだなと思った。

自分がこんなことしても意味ないとか、何にもなってないとか思うことばかりだけど、そんなことないんだな。って。

見返りを求めないまでの境地にまではまだまだいけなくとも、良いものだからシェアしたい!みんなにも伝えたい!それが誰かの何かになればいいなというささやかな見返りをもって、行動していくことは、なかなかいいことだなと思った。

 

疲れた話。

意外と大丈夫だったを繰り返す。

それが自信を作るっていうけど、

大丈夫だったというより、やっぱりしんどかったの方が多い。

なんでだろう?

ハードルが高すぎるのか、挑戦していることが自分にあっていないのか。

 

まぁ、挑戦というよりその場に行こうとして行ったことだけは褒めてあげよう。

その度胸は凄い。

 

ふぇ。

喉がきゅーきゅーして、体半分でしか呼吸してない感じ。

全体的に体が上に上がっている感じ。

鎖骨の真ん中の少し下が痛い。

たったの3時間そこにいただけなのに、凄いからだが凝っていた。

特に肩や胸あたり。頭も痛い。

力が入ってたんだなぁ。

やっぱり、知らない人の集まりに入るの本当に苦手なんだなぁ。

これって私にはできないことなのかなぁ。

これって少しはましになることあるなのかなぁ。

 

苦手に感じているから更にぎこちなるんだけど。

その瞬間に苦手意識が重なってさらにできなくさせている。

 

疲れた。

 

2024.3.18

私が冒険物語りがあまり好きじゃない理由が分かった気がする。

 

香川のホテルにてテレビを付けたらワンピースが放送されていた。

ワンピースも昔からやってるよなぁ。

番組ついてたこともあったけど、のめり込んで見たことがないんだよなぁ。

とのんびり眺めていた。

 

ふと、浮かんできた。

これは冒険の物語であり、行くとこ行くとこで出会う人が変わる。

主人公とその仲間たちが移動して、色んな人物がでてきて、その出会いによって成長だったり物事が解決する感じがある。

 

生活が見えないから、生活には根付いてないから

夢中になれないのかもしれない。

主人公たちの志というか、強い意志は見えるのだけど、この人たちがどういう生活をして、どういうものが好きなのか、が全く。

それはいつも一緒の服や言動からなんとなくの性格を読み取るしかできない。

だからなのだと思う。

 

逆に人の生活に根付いた物語。

わかりやすく言うと、サザエさんやまる子ちゃんは好きなのだ。

家(帰る場所)があり、生活圏内から外れず、登場人物が大体同じ。

その中の日常や暮らしの中での人との関係性や出来事から物語ができている。

 

そこにいる人あるもの存在自体がそのものを表しているにも関わらず、私は「この目の前の人は誰なんだろう。私は今なにをみて、誰といるんだろう。」という感覚に陥る。

今を感じることが苦手なのだろうか。

 

それが性質だからといって、自分の生活、生き方を偏らせてしまえば良いと決めれるほど容易い問題ではないと感じる。

 

背景を知ると同時に、今を感じることは等しく大事だと思うから。

 

どうなりたいか。どっちでありたいか。決められない。

 

だけどこれだけは分かる。

 

触れているものが自分にとっての当たり前になるから、なりたいものや好きなもの心地良いものに囲まれていることはやっぱり大事なのだと思う。

 

作品や音楽や人。全てそう。

 

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ヒグチアイのライブ、高松オリーブホールに行った。

今回は弾き語り。

 

前の日の夕方にバスに乗って、一泊して次の日の夕方からライブ。

こういうちょっとした遠出も久々だった。

 

 

あー良い!!

移動するって大事。

ライブだけを楽しみにして1日を過ごすってなんて素敵なんだろうか。

 

私は、ずっとどこかに行きたかったのかも。

いつもの生活の外側に。

 

香川県には、昔tacicaのライブで来た。

『群青』っていう曲があるんだけど、駅の向こう側の海の方がその曲似合うなって感じたのを思い出した。

 

高松駅周辺は困ることがないくらいの街だなぁと感じる。

商店街のアーケードがずっと伸びてて楽しい。

 

駅前でマルシェみたいなのをしていて、回ってみた。

売り子の方々が気さくに話してくれて嬉しかったし、楽しかった。

ついついたくさん買ってしまった。

 

 

朝ご飯はカフェで珈琲とエッグベネディクトを食べた。

店員さんが優しく素敵だった。

 

骨付鳥も食べた。

最初行って、名前を書き、電話して再び行くというスタイル。

そこの店員さんもみんな、はきはきして良かった。

おやどりを食べたのだけど、結構噛みごたえがある。

矯正中ということもあり、歯にかなり挟まってしまって、最後爪楊枝で取る作業がなかなか大変だった。笑

 

 

珈琲が飲める小さな書店にいった。

気になる本がたくさんあった。

最近の自分の興味は、仕事や生活、どうやったら苦しまずしてお金を稼げるか、言葉や話すことや伝えること。それらなんだということがわかった。

一冊、

『聞くこと、話すこと。』

という本を買った。

ここでも店員さんが話し掛けてくれた。

 

私の中で高松は、優しいあたたかいまち認定されました。

 

 

お金さえあればどこにでもいける。

人と話さなくたって。

だけど、どこかで人を求めているものだ。

 

 

ライブも良かった。

別に泣ける曲じゃなくとも泣いてしまったのは、今ここにいることがひどく嬉しかったからだ。

そして、ヒグチアイという人間を享受できていることが嬉しかったから。

ピアノと声が心地よかったから。

やっぱ凄いよ。弾き語りは。 

高松はヒグチアイが生まれた所。

お祖母ちゃんが見に来てたらしい。

だからか知らないけど、いつもより朗らかな顔してた気がする。

 

『誰かの何かを祈ることは自分をさしおいてということである。でもそれが終わった時に、その応援していたことが自分のプラスになる』

『幸せになろうね』

と言った。

わたしは最近自分のことばかりだったなぁと思った。

それが悪いわけじゃないし、そういうフェーズにいるのかもだけど、忘れていたなぁ。、

 

はぁ。

必要な時間だった。

 

これは、昨日のこと。

自分へのメッセージ

筋肉は裏切らない

 

というけど、本当だなと思う。

やった分だけついてくる。

 

筋トレをしているわけじゃない。

けど、私が感じるのは顔や口内の筋肉。

マニアックって思われるかもだけど。。

歌が上手くなりたいと、ボイトレや情報収集をし、口の開き方、下顎や上顎の使い方、口内の使い方、舌の使い方……

まだまだ私が気づいていない部分はあるけれど、そのへんを日々こうかな?こうかな?

と試した結果、

口周りの筋肉、笑顔の時の筋肉の使い方、口を閉じている時の状態、声を出す時の力の方向…

そういうのが変わる段階がわかるようになった。

もちろん、これは多分違う という変な癖がついたときもあって、いらない筋肉使って顔が痛いしあらたな癖付けするのに苦労をするときもある。

だけど、必ず時間と共に変わっていく。

それが明らかにわかる。

 

だから、努力や意識してれば必ず変わる。

1日ではもちろん変わらないし、こんなこと意味があるのかと悄気げてしまうこともあるけど…

 

変わるからね!!!

その気持ちがあって続けていれば絶対に!!

あなたはちゃんとつくっているよ。

 

 

と、頭があまりにも良くないことで支配されてやってらんないので、良いことを書いてみた。

 

自分から自分へのメッセージだ。

無駄なエネルギー 2024.3.16

え、しんどい。

 

新たに始めた所がしんどい。

 

同じ業種の掛け持ちってそんなにだめなのだろうか。

しかもたかがアルバイト。

今どきさ、競合ってね。

同じ業界なら業界を一緒に盛り上げたらいいのに。

 

それか、最初に言わなかったのが駄目だったかな?

3つ掛け持ちしてるの言わなかったのがだめだったかな?

でも、面接もしてないし、それって私だけが悪いのかな?

 

それをこの間話してからなんか対応が違う気がする。

 

まぁいいとして。

察して文化とか分からんし。

察して動くのと気遣って動くのと違いがよくわからん。

なんか、職場によって、言わずにやった方が美徳なところと、言ってやった方が美徳なところと、両方あって、わけわからん。

どこでも自分を貫いていたら、その場ではやりにくい。

職場によって適応して自分を偽ってたら本当にしんどい。

ということはやっぱりそこは合ってない場所なのかな。

サヨナラしたほうがいいかな。

精神衛生上全くよくない。

 

なんかこの、喉が詰まるような、息が詰まる感じ、常に人の気配を察して自分がどうするか動く感じ、昔に戻った気分だ。

真ん中のお姉ちゃんと一緒にいるときとか結構こんな感じだったんだよ

自分がどう動いたら良いかわからなくなって、何も言えなくなって、無表情になる。

感情をなくすのだ。

多分それは人から見たら飄々としている、クールに見られて、余計なんじゃこいつになるのかも。

 

でも、自分はそんな人を前になにかできることがあるのか。

自分の意見を主張したらもっと喧嘩になるくない?

伝え方が悪いのかな。

そもそもそんな人と仲を縮める必要があるのか。

 

もう、辞めたほうがよくないか。

こんなことに頭を使っている時間は私には無くない?

もったいなくない?

どうする?

 

 最近もらった言葉。

 

『できないことは置いていく』

BUMP OF CHICKENの「同じドアをくぐれたら」が思い浮かんだ。

 

ライブ

坂口有望のライブ「Library」

ゲストはヒグチアイ

 

ヒグチアイは、やっぱり弾き語りこそ良さが発揮されるのではないか。

 

いくつ声を持っているんだと思う。

どのライブでも表現力に圧巻。

 

はぁ。良いため息が出る。

 

色んな気持ちを思い出した。

なんにも知らないけど憧れであって、よくわからないけど私の一つの答えみたいな存在。

向かっていきたい在り方、みたいな。

 

ヒグチアイの出るツーマンに行くと、対照的みたいな音楽が鳴る。

それでもお互いリスペクトして居る感じがわかる。

そう見えているのは表面的な部分で、ひとりの中に、対照的な部分は存在するんだろうな。

それぞれの決まったスタイル、陰と陽があるからこそ、それぞれの良さがわかる。

そして引き立つ。

 

だとしたら、無理に違うなにかになろうとする必要は無いのかもしれない。

私の持っているものが誰かにはなくて

誰かの持っているものが私にはない

それを、羨ましがるのじゃなくて、単純に、凄い!でも私にはこれがある。と思えるようになりたい。

 

やっぱり、弾き語りは一対一の対峙だからいいな。

程よい距離感で人を感じられて良い。

こういうのが好きだし落ち着く場所。

 

日記 2024.3.2

最近の私。

「わたしなんて」

症候群(?)がまた表れている。

その何が厄介かというと、それは表には出さないから、外の自分と中の自分が乖離しているところ。

割とそとでは気丈に振る舞っている(と思う)から、その反動で疲れがどっと。

人と話すのは1日4時間くらいでタイムオーバーかな。

それ以上続けば、早く会話切り上げたいし、人の話聞いている余裕がない。

 

「わたしなんて」

の自分への影響を考える。

 

1、私なんてなんにもできない、わたしなんかがしても無駄。なんの役に立たない。影響もない。

→完全に目に力が宿らないのが自分でもわかる。諦めた目で物事や人を見てしまっている。

 

2、私の話なんてつまらない。

→話すことへ自信がなくなる、自分の話をすぐ切り上げてしまう。

自信がないから、喋り方や声のトーンも暗い方へいってしまう。

好きなこと、ものの話なのに、「聞いて!聞いて!」「いいでしょ!いいでしょ!」ではなくて、「どうせいったって分からない」「どうせ言ったって(暗いとか、どこがいいのかわからない)と否定される」という思いで話してしまう。

から、好きな物さえも自信をもって語れないんだなぁ。

と最近、「どうしてこの人の好きを語る熱量はこんなにも強いし、伝わってくるのだろうか」と思う人を考察して気付いた。

好きを語る人の目はきらきらしているしエネルギーは人をひきつける。

 

とにかく自分のことを人に話すことに自信がない。

どうしたらそれは出来るようになるのかな。

この人なら聞いてくれると思える人を増やすことかな。

話せる人から話していくことかな。

 

 

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前向きな人が周りに多いので、私もがんばろうと思える。

力強い言葉をくれる人、どうもありがとう。

その言葉の効力はいつまでも続かないけど、確かに1つずつ積もっている。

 

 

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ずっと行こう行こうと思っていたオーダーメイドの枕の高さ調節&除菌にいけた。

ランチは楽しかったし美味しかった。久々にああいう料理を食べた。

コースで約4時間いたかも??笑

前の職場にも顔を出した。

あの頃の様には話せないけど、仕方ない。

みんな別々でそれぞれの歩みを続けている。

私は私の。