どうしても自分では抱えきれない、八方塞がりになるのは人に吐き出させてもらう。
いつも同じようなことを言って、私のことで時間を取るなんて申し訳ないとも思っている。
時間のなさ、大切さを分かっているからこそ。
いつも、ごめんねごめんね、って思いながらも吐き出してしまう。
そしてすっきりして、こんなことばっかり言ってただめだ、がんばろっ!
って戻ってくる。
私は本当にただただ吐き出したいだけなんだと思った。
ただただ受け止めてほしいだけなんだと。
きいてくれたんだから、時間を割いてくれたんだから存分に甘えよう。
そして、次会ったときは感謝の気持ちで接しよう。
感謝の気持ちはできるだけ伝えたい。でも言葉だけじゃ伝わらないもどかしさ。
私は話を聞いてほしいのに、自分の話なんて申し訳ないとか、筋道立てて話せないから変に思われるとか、オチもないからつまんないとか、勝手に思ってどんどん胸に詰まっていく。
胸が痛いのどが痛くなる。
自分が想像する「ちゃんと」にはなれない。
ある人が言った。
「対面ですること、教わる情報の太さは全然違う。」
その言葉をきいて、私の今までがなるほど!っとリンクした。
人と接してすることに、緊張感や相性はもちろんあるけど、それ以上に自分の中に入ってくるものが違う。
技術云々よりも、どんな風にその人が、その物事と向き合っているのか、ネットや文字では分からない、五感を通じての学びが必ずある。
その熱量が自分にも入ってくる。
それが何よりも人とすることのいい面なのでは。
私も、家で自分でストレッチをするのとピラティスの教室に行ってするのとでは、感覚が違う。
YouTubeをみて、ボイトレするのと、教室に行ってするのと。
1人で弾き語り練習するのと、誰かと合わせるのと。
人によっては合わないなという人もいるけど、それは仕方ない。
学びって「人」にあるなと改めて感じた。
だから、誰と一緒にいるか、環境ってすごく大事だ。
選択して動かなきゃ。
変化は怖いけど、新しいことに踏み出す、変化することは幸せなこと。
もう1つ…
気付かないところで、誰かの何かはその人が置いていくことによって誰かに少なからず影響しているというのを実感したことがある。
あるお客様がミントを受付に持ってきた。
「ご自由にお食べください。」という文言を鉢に書いて。
お客様みんな、お会計のときの手持ち無沙汰に話のネタにする。
食べる人もいれば敬遠する人もいるが、どちらも影響を与えている。
ある人は持って帰って、水に差して根を生やして鉢に植えたとも。
(あぁ、こうやって広がっていくんだな)
って感じた。
ひとりで大事に抱えているよりもずっといいことがあるし、ずっと人に何かを渡している。
本当に大事なものは、むやみやたらにばらまかなくとも、ある程度の物なら、共有した方がずっとっずっといいんだなと思った。
自分がこんなことしても意味ないとか、何にもなってないとか思うことばかりだけど、そんなことないんだな。って。
見返りを求めないまでの境地にまではまだまだいけなくとも、良いものだからシェアしたい!みんなにも伝えたい!それが誰かの何かになればいいなというささやかな見返りをもって、行動していくことは、なかなかいいことだなと思った。