ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

行動欲の方

毎朝、毎晩、朝起きてからと、夜寝る前、必ずトイレに行く。

それはもう当たり前すぎて、「~しなきゃ」の先にある。

こんな風に色んなことが習慣化できればいいのになぁと思う。

 

わたしたちの毎日は、こんな習慣化されたものと、思いつきによる行動で成り立っていると思う。

思いつきといいつつも、個の発想や行動パターンは大体同じだろうけど。

それは何十年も繰り返してきたことだから、想い癖や行動は変えるのって本当に難しい。

既になんなく使いこなしているものを、新たなものを取り入れて、読み込んでかみ砕いて、自分のものにしていくのは相当な時間と忍耐力が必要に思う。

それでも、止まっていることもしんどいし、変化を望む。

 

 

私のいまの行動欲の方のしたいこと

 

・ピアノ、弾き語りをレベルアップさせる

今まで、1つの曲を完璧というまで落とし込んでこなかったから、この曲だけは自信をもって一曲弾き語りできるくらいまでにしたい。

歌うことは楽しいよ。機器から出る音に合わせて歌うより、生身の人間が出した音に合わせて歌う方が何倍も気持ちがいいよ。

 

・筋トレを毎日自分でもする

3月からヨガを辞めてジムに通い始めた。

といっても、パーソナルトレーナーについてもらって、週3で1回1時間というメニュー。

目標は俄然、楽な体を手に入れる。疲れにくい体を手に入れる。

筋肉ムキムキになりたい訳ではない。(そもそも相当努力しないとムキムキになんてなれない。)

トレーナーに頼るだけではなく、自分でも取り組みたい。

 

・人の体について

前から興味はあったけど、パーソナルを色んな人に受けていたら、心と体や気の考え方、人間の体の不思議について話してくれる人もいて、呼吸や、気とかその辺にもますます知りたいと思ってきた。

というより、自分と仲良くなりたい。正しい視点で親のような目で、今、こうなんだねってわかったらいいよなぁと思う。

人間の体に絶対なんてなくて、(所詮自然のものだから)でもそれを少しでも理解していこうとするって面白いなぁと思う。

 

・コーヒーの美味しい入れ方を研究する

とりあえず自分が持っている器具でどうやったら自分好みに淹れられるか。

なんか、今、いまいち。

本やコーヒーショップの人に聞いて試行錯誤していこう。

 

・日記を毎日つける

何年か前までは自分で1日事に出来事と思ったことを日記に書いていた。

けど、感情や反省に向き合いすぎてしんどくなってやめてしまった。書くと、そこに刻まれてしまって、何度も思い出してしまうから。

今こうしてブログにばーっと書いたり、手帳になにか書きたいときにばーっと書いている。大体のことは忘れる。それでも忘れられないことが私の根本的な悩み。

それはもう分かっている。

今なら日々思っていること、感じたことを小出ししていってもライトに書けるかもしれないとなんだか思ったので、様子を見て始めようと思う。

 

・人との関わり方、観察眼、を養う。哲学的なことを掘り下げて知っていく

これも元々興味があるというか、自分が昔から生きにくいのはこの辺を考えていくこと自分に落とし込んでいくことが大切だと自然とやってきたことだと思う。

理論的にではなく、体験的にやっていきたい。

 

・人と出会う

こんな時に、本当に難しいことだけど。

私は直接会うことを大事にしている人間。だからこうなった時に、人に会うことが許されないことが結構ダメージだった。全く会うなってことじゃないけど、会ったら悪いことをしているような気分になるのがとても嫌だ。

媒体であまり人と繋がっていない私は、1人の世界にいるみたい。

この辺を自分にとってプラスになるような変化を起こさなきゃ。

 

あぁ、良かった。自分がしたいこと、まだまだあるじゃん。

全部一気にやるとするのは無理だけど、色んなことに振り回されずにやれたらと思う。

世界は夢組と叶え組でできている / 桜林直子

以前「サクちゃんと蘭ちゃんのそもそも交換日記」をここで紹介した。

そのサクちゃんこと桜林直子さん著作されている本。

 

最初を読んでの自分の記録。

 

題名にある、「夢組」と「叶え組」

 

本書で「夢組」とは…

好きなことややりたいことがはっきり見えていて、それに夢中になることができる人たち。

これなら時間を忘れていくらでもしたいというような内側からどうしようもなくわいて溢れる行動の欲の持ち主。やりたいことをやりながら、お金や時間の問題がでてきたらその都度工夫をしながらする。

 

「叶え組」とは…

やりたいことがない。夢中になれることがない。

「お金と時間をつくりたい」「人が笑顔になれる居場所をつくりたい」などという状態の欲の持ち主。そこから逆算してするべきことを決める。

 

ということで、「仕事でもパートナーでも役割が違うだけだからチームで組み合わせるといいよ。」とある。

 

私はどっちだろう。

小さい頃は「夢組」だったのかもしれない。

だけど、今は「叶え組」?「夢組」になりたかった「叶え組」?

よくわからない。本当の私はどっちなのだろう。

過去を辿ってみる。

この変のことは多分前にも書いたと思うけど、きっと大切なこと。

 

小さい頃から、人は「大きくなったらなにになりたい?」と聞かれる。

私は、女の子ならお花屋さんなのかなぁと、一般論で答えていたように思う。別にしっくりは来てなかったし、花が特別好きでもなかったけど、ちゃんとした答えを言わなきゃいけない、書かなきゃいけない、空白は許されない。答えられないのはよくないこと。そう思っていた。小さい時には言える選択肢も少ない。知らないことばかりだから。

小学校6年生の卒業文集での「将来の夢」の欄。

その時点で少し責任を感じた。ちゃんとしたことを書かなきゃいけないんじゃないかという、私の真面目さがあった。

書いたらそれに向かわなきゃいけない。だって小学6年生ってもう色んなことを知ってある程度の判断はできる。子供だけど、何を言っても許されるほどの子供の期間はもう過ぎたと思っていた。

そこに私が書いたのは「パティシエ」だった。

お菓子作りは、姉や母とよくしていた。お菓子を作ることは好きだった。というより、レシピを見て作ったことが無いものを形にするのは、単純に、知らないものと出会ったらわくわくする私にとって(これは最近自覚したこと)それはそれはわくわくした。

食べることは好きだったし、なにしろ作ったものを食べることができるという特典がついてくる。

なにより、作ったものを家族や友達が褒めてくれたり、器用だねと言ってくれるのが嬉しかったし、その頃は単純だったので、「あ、私って器用なんだ。」「私の得意なことってこれなんだ」なんて感じていた。

だから今の自分で書けるとしたら、周りもそういってくれることだし、これかな。というので書いたように思う。

周りは、ピアニストとか理学療法士とかバスケット選手とかって書いてるのに私だけ書けないなんて…というプライドもあったのかもしれない。

それを書いてしまったからには、嘘をついてはならないといけない。というよくわからない責任感が生まれた。

多分、それを見た祖母に凄く喜ばれたと思う。祖母はよく私のことを自慢のように親戚やご近所に話をしていた。それがどう思われていたかはよくわからないけど。

「お菓子作りをいつもしていて、将来の夢はパティシエって書いとるんよ。」

と電話で嬉しそうに話していたのを覚えている。

それをきくたび、圧がかかっているようなきがした。期待されていて、それに応えなきゃいけないんだという。

私は小さい頃、割と運動はできた。球技や水泳以外。小学生の時、陸上大会で1位を何種目かで取った。県大会で何位かになった。

それも祖母は親戚などに自慢していた。

だけど別に私は走ることが特別好きなわけじゃなくて、走れたというか、両親がそういう体に生んでくれたからそういう能力が備わっていただけで、別にそれ自体が特別好きではなかった。誰かと遊ぶ鬼ごっことかは楽しかったけど、50m走とか、シャトルランとか、マラソンとかしんどかった。それも、大体学年で1、2位を争う位置に居たので、変にプレッシャーだった。負けたくない、1位を取ったら取り続けなきゃいけない。そんな感覚だった。しんどかった。

好きではなくできただけ。それが、備わっている才能と言うのかもしれない。

それを努力で伸ばしてやるべきなのかもしれない。

でも、だれかの期待に応えるためや、そんなプレッシャーを感じるのはしんどかった。

走りたくてたまらないわけじゃなかった。人と遊ぶためのツールだっただけ。

中学では運動部には入らなかった。

祖母はそんな私に、オリンピックとかを見ながら言っていた。「もし陸上続けとったら、こんな風になっとったかも。おしいことをしたね」と。

何度か言われたことがある。それはしんどかった。いつも苦笑いをしていた。

私の選択は間違っていたのか、期待を裏切って悲しませてしまったのか、私は努力やしんどさから逃げたダメなやつなのか。そういう想いが積もっていったようにおもう。

 

私は、家族から「我慢強い」「芯が通っている」って言われてきた。

けど、本当にそうなのかな?と感じる。

そういわれるからそうならなきゃって頑張ってたのもあるのかもしれない。

だって、ここまで、どう見たって、メンタル弱いし、自分に甘いじゃん。プレッシャーは背負えない。逃げてばっかだ。

何をするにしても、勝ち抜けるような人はそんな芯の強さがあるのだろう。

でも別に私はトップになりたい訳じゃない。一流、二流、三流…あなたはどこで生きる?なんて言う人もいるけど、私、そんなことに興味がない。 

 

中学は吹奏楽部で、部活が土日もほとんどあり学校生活で忙しかった。

部活は真剣にしたし、柄にもなく、生徒会にも入った。

ほんと、今思うとあの頃は果敢だったし、自分に厳しかったと思う。

生徒会は本当に苦痛だった。人前で喋るのが好きでもない、人を仕切るのが得意でもない。むしろ苦手。生徒会メンバーもあまり仲良くない。というか、1人1人とは喋れるけど、メンバー全員でいるときは居心地悪く、早く抜け出したかった。先生とも打ち解けるようなタイプではなかった。

なのに、何故立候補したか。

周りの人が、部長、副部長、委員長…次々なっていくのを見て、私も負けてられない。なにかやらなきゃって思ったから。ただそれだけ。

負けず嫌いもいいとこだ。

 

中学生活では、勉強、部活、生徒会、友達関係に必死だった。音楽に興味が強くなったのはそのころで、ギターを買って練習をした。お菓子作りはというと、あまりしていなくて、バレンタインや友達の誕生日に作るくらい。だけど、その時は張り切って作っていた。

 

中学3年生で進路を考えるとき。

やっぱりどうやって決めたらいいか分からなかった。普段から成績はよくしていたし、内申点もよかった。けど、それがその先を決める何かの役には立たなかった。別に、良い高校に入りたいから勉強していたわけじゃなかった。やっぱり、そこも期待に応えるためだった。中学1年生の学年末の通知表で酷い評価を貰った私は、中学2年生からは改心しようと決心。努力が実り良い通知表を貰った私は、クラスの皆から凄いといわれ、両親はそんなに気にするタイプじゃなかったのが、やはり祖母だ。祖母に褒められ、お決まりの親戚に自慢。一度取ったら、下がるわけにはいかない。と、中学3年までその位置をキープし続けただけなのだ。

期待やレッテルを維持するためだった。だから、こうなりたいから勉強するわけではないし、勉強がすきなわけじゃなかった。テストの為に頑張って、忘れる。興味があるから勉強していたわけじゃない。進学校に行きたいわけじゃない。今みたいな状況が続くのは嫌だとも思っていた。

そこで、再び、私はしたいこと(お菓子や料理)があるのになんで高校に行かなきゃならないんだ。と思った。のか現状を変えたくて思い込んだのかわしらないけど、高校へ行くということに疑問をもった。

私の中で、高校に行かずに働くという考えも頭をよぎったくらい。

それは、滅多に口出ししない両親が止めた。高校卒業資格は持っていた方がいい。と。

それで私はしぶしぶ調理科のある高校に決めた。私の中学からは前例のない受験先で、家からも通えない。そんなところを受験して合格した。

また祖母は喜んだ。そして自慢した。

私も素直に嬉しかったし、人と違うことをして成功したことに満足感を得ていたのかもしれない。

 

高校生活は楽しかった。

新たな土地で、新たな住まい、新たな人。

知らない料理を教えてもらえる。それをたまに帰った実家で作るとみんな褒めてくれる。美味しいと食べてくれる。

切磋琢磨するクラスメイト。

高校でも私は成績はクラスで1位2位を争う所を3年間キープした。

料理が好きで、好きで、実技の点は良いし、楽しそうに実習をするけど、座学はダメというクラスメイトがいた。

そっちの方がいい。と今になって思う。好きなものは好きで、嫌いなものは嫌い。自分に正直だ。

私はいつのまにか、楽しいがプレッシャーや期待に変わり、全部完璧にしなきゃと重くて苦しくて、耐えがたいものになる。

料理は好きだったし、できないことをできるようになる努力はする。例えば、オムレツが綺麗にできるように。とか、桂剥きが薄く長くできるようにシャトー切りが綺麗にできるように…

けど、私は、その先がない。用意されたものをそこのレベルに達するまでの努力はできるけど、新たな発想がない。

周りより上手くなりたいという負けず嫌いは発揮できても、そこが到達点で、それがなんだというのだろう。

高校3年生の時、進路を決める。ここでもよく分からなかった。

私はどこに向かうべきなのか。周りは就職が多かった。レストランや学校給食やパン屋やホテル…どれもしっくりこなかった。

専門学校か就職の2択だった。調理は3年間したけど、製菓はしていないから、このまま就職だと考えると怖くなったのだと思う。

高校はかなり校則があった。前髪の長さ、スカートの長さ、眉毛、身だしなみ。5分前行動。挨拶。

社会は厳しい。遅刻は厳禁。服装身だしなみはちゃんとしろ。高校生ができることなんてたかが知れてる、お金をもらって学ばさせていただいていると思え。

正しいことばかりなのだけど、随分脅かされていたようにも思う。

結局専門学校を選んだ。

このあたりからだ。なんだか今までのようにはいかないと思ったのは。

専門学校に入っても成績はキープするのだけどそれでなにになる。と思っていた。

厳しいと評判のフランス人の先生にも目をかけられていた。

だけど「夢中になる」とは違っていた。

やっぱりできる自分、真面目な自分を演じていたように思う。

やりたくてやっているはずなんだけど、期待に応えるために真剣なふりをしている。

期待に応えなければならない。そっちの方を重視してしまい、張り詰めていた。

それなら、夕方から夜中まで飲食店で働いて、授業中は寝ているような人の方がよっぽど健全なように思う。まぁ、何のために大金払って専門学校にきているんだとも思ってはいたけど。

就職を考えるときにもまた分からなかった。

就職しても、今でもまだ分からない。

今私のしたいことは、

「私がもらったように温かさを受け取れる居場所をつくること」

「人に何かを渡すこと」

これは状態の欲。

行動の欲は、あまり思い浮かばない。

カフェ製造を3年し、パン屋に務めて3年目になる。

正直なところ、作っていて楽しいがあまりない。作っていても誰の顔も浮かばない。

状態の欲を叶えるために、逆算して私ができることさえ思い浮かばない。

自分に自信がない。これが得意と言えることがない。私は、諦めて諦めてきた。上には上がいる。到底及ばない。プレッシャーがかかるのが耐えきれない。

いつもなにか違う。でもなにが正解か分からない。

いつも誰かの期待や周りの反応を気にしていた?かといって期待に応えられてもいない。そもそもその考えが間違いだ。

自分にとって幸せとはなんだろうか。

過去は過去なのできちんと向き合うのってわりとできる。

だけど現状と向き合うのはかなり難しい。

 

ここまで書いてきて、自分で感じた私の特徴。

 

昔から、人の言動を勝手にプレッシャーや期待と重く受け取りすぎるところがある。

そっちに焦点がいってしまい、自分を苦しめたり、抑制したりする。

幼少期からの祖母の発言の影響はかなり大きなものだと思う。

 

負けず嫌い、生真面目。

人の目、人のエネルギーによって突き動かされることも多い。自発的にはなかなか動けない。

あの人が頑張っているから私も頑張らなきゃ。とたまにこれもあの人は頑張ってるのに私はまだまだだ…となるときもある。

 

状態の欲はかなりある。というより、今まで心が落ち着かなかったから、張り詰めた状態でいたから解放されたいと思っているのかもしれない。

上記に書いた状態の欲に追加で

「体や呼吸が気持ちいい空間で過ごす(働く)」

「時間や心に余裕がある空間で過ごす(働く)」

「人と影響しながら過ごす(働く)」

があればいいと思う。

働く時間も自分の時間なのでありのままの自分でいられたらそれはどんなに良いことだろうかと思う。

とにかく、自分の心地よさ、精神的な心地よさを優先したいだけなのかもしれない。

とはいえ、「働く」とは、きっちりしないといけない。それはどんな仕事もだろう。

ふわっとなんかしていたら、お客さんに失礼だ。

その辺のメリハリのつけかた、切り替え方がまだわかっていない。

 

 

こうしてみると、私は「叶え組」なのかもしれない。

幼少期は「夢型」だったようにも思える。

なのでちょっとやっかいでややこしい「叶え組」

 私の状態の欲に多少は寄り添ってくれる夢組じゃないとタッグは組めないと思う。

違和感が出てきてしまうと思う。

それも大事にしたい。でもそれを伝えるより作業に没頭したいという人がいたならば、私がそれを気に入ることができて、それからその想いが感じられるなら、それを伝えることは割と得意なようにも思う。

私、営業の為に嘘を付くことや思ってもないことを言うことができないから。

本当に思ったことは大事にできるし想いを強く込めることができると思う。

それが経済的にとか、社会的にやっていくのは、効率的ではないというのが一般的であろうと、そういうものを大事にしたい。

だけどたまにそれを忘れてしまう自分にうんざりする。それをたまに忘れてしまうのは、時間と量を重視しなければいけない環境のせいだと思う自分にもうんざりする。

忘れてしまうのはなんでなんだろう。忘れるってことは本当は 違うのかなと自分を疑ってもしまう。


ここに自信を持つということや、なんで忘れてしまうのかの原因を探ることが私にとって大切な気がする。

 

現状、私は仕事であまりこうしたい!やこれがしたい!でやってることはあまりない。

経営者のこういう方針でいきたい。に、それならこうすることが良いだろうな。お店に入って目に付くものはなんだろう。私がお客さんだったらどうされたいか。という考えで動いていると思う。

だから、やりたいようにやってと言われたら、動けないと思う。私が入る領域じゃないとも思っている。経営者は私じゃないから。

指針がないというか、「経営者」と「私」ベースがまったく別のものだと思う。

途中で経営者と私を混ぜるのは無理だと思っていて、これは感情的にも。

こっちならこっちで最初から割りっていかないとやっていけないという感覚。

 

 

私にとって幸せとはなんだろう。

私の中に誰からの発言にも揺らがない何かを見つけることはできるだろうか。

 

どんな状況にあっても、自分の在り方や自分の人生が根本的な悩みの種だなぁと思う。

何も影響しない、(仕事だったらやめられたら困るからとかの感情も入るかもしれないから)嘘を付かない客観的な人の視点も聞けたらいいのになぁと思う。

 

 

2日ぶりの綺麗な晴天

坂の下から見上げても、坂の上から見下ろしても青だった

 

このまちは、急な坂が多い

海と空を見下ろしたり見上げたりできるんだ

やっぱり好きだなぁと思う

このまちが作る風景が

私の部屋から見える風景が

輝く西日が差す頃の、家々がつくりだす影と光が

ここへ来て3年目

ここじゃなきゃダメなのかな

似たような景色なら探せばあるのかな

自然があるからこその景色だ

だけど人間が作った景色でもある

 

 

日々、色んな事を考えてしまう。

この状況でも…いや、「だからこそ」やっぱり私は仕事と生活のことについて考えてしまう。

この状況にも疲労はあるんだけど、私、多分この状況によって変わった自分の環境から引き出される内省で疲労している。

仕事=生活? 仕事≠生活? 仕事=好きなこと? 仕事≠好きなこと?

仕事=人? 仕事≠人?   仕事=お金? 仕事≠お金?

仕事=???

これは私の人生で一生かけて取り組む課題だな。

どれも=でも≠でもない感じ。

思えば、初めて就職するとなった時から、え?無理じゃない?って思って就職活動が全く進まなかった。

お店について、そこの商品について、そこの人について1度や2度行ったくらいでわからないし、そこで働きたいだなんて正直思わない。何も知らない学生がそんな格付けみたいなことするものじゃないって言われた。(覚えがある。)

そうかもしれないけど、でも、それが凄い自分に嘘をついてるみたいで嫌で動けなかったんだ。

それが今となっては、こういうことだったんだってなんとなく分かってきた。

私の中で、「働く」というのは、その「場」というか一定の「時間」の自分の「居場所」になるわけで、それなら本当に心動かされる「もの」「人」「こと」じゃないとだめなんだ。それを1番に守らないとダメなんだ。そんな気がする。全部揃うなんてことはあり得ないと思うけど。

それが私の場合、とりあえずやってみれば好きになるとかじゃない気がしている。今までもそうだった。好きになるんじゃなくて、好きなものはもう私の中にあるような感じ。多分、好きなものや人やことは、接したらすぐに心は分かってるんだと思う。

私が気付けてるか。見て見ぬふりをしているのかも。

恋愛のアドバイス?とかでよく言われるけど、「付き合ってみたら好きになるかもしれない。」が多分私にはない。

何事も、「嫌いではないけど、特別好きでもない」「しろって言われたらするけど、自分からすすんでするほどではない」止まり。

ああ、やっぱり。目的や目標も大事だけど、それ以上に、そんなものなくてもなんでか知らないけどやりたいこと、良くわからないけど惹かれるものや人の方を大切にしたいんだな。

そう考えると、私も、ちゃんと選んできたんだなって思えてきた。自分の感覚を頼りに自分のペースでゆっくりだけど決めてきたんだと思う。もしくはそういう縁だけ残してきた。自分が自分を導いてきたのかもしれない。無意識ながらにも。

だからこれからも、しんどいけど、もやもやしながらゆっくりゆっくり自分と向き合って、目を背けるときもあるけど、そうやって決めていけるのかもしれない。

今のわたし

https://www.instagram.com/p/B-s1t2fjDmf/

ike on Instagram: “2020.4.7 #桜 #春 #お散歩 #木 #自然 #光 #ひなた#花 #空”

 

桜を眺めて歩く
あ、長田弘さんの詩がよみたい
そう思った
今までも自然のなかを歩くとそう思うことがあった

あれは、いつだっただろうか
私が専門学校に入学する前に姉と嵐山に桜を見に行った
あの時心底感動したのを覚えている

あの日以来の感動の桜をもう何年もみていない
あれは私の心が見せたものだったのだろうか

年々桜の見頃が良く分からなくなってきている
これはもうちょっと先が見頃だなぁ
と思っていたら、あれ、もう葉っぱが出てきてる!
いや、でも先はまだつぼみがついてる
でももうちらちらと舞っている
明らかにこれは全盛期は過ぎたな…
おかしいな、見頃はいつだったの?
とここ数年、桜の見頃に対してなんだかもやもやした気持ちで終わっている
その年の気候による違いもあるんだろう
まぁ、でも、木によって、場所によって、日のあたり具合によって、始まりも終わりも全然違って、全部が一斉に咲き乱れることなんてあり得ないね
ようやく本質が見えてきたのだろうか

並木よりも一本ぽつんとだけれどもどっしりと立っている木の方が、花の密度が濃いなぁと思う
桜は遠くからみると「ぽんぽん」してるなぁと思う。
昔から思う。そこがかわいい。
近くで見るのは咲き始めより、散り際の中心が赤く染まってるのがかわいい。
好みの話。
咲き乱れる花の下にいくとちょっとだけ気持ち悪く思うときもある。
花の中心がなんだか私に襲ってきそうな感じがしてしまって。

さて、ここにきて、この世の中の状態にちょっと疲れてきてしまってる自分に気付いた。
最初こそはちよっと遠くの世界の話で気にしすぎたら疲れちゃうから情報もあんまり取らなくていいやと思っていた。
けどやっぱりそうはいかないみたい。ここまできたら、日々の変化を知るために情報を自分から見ていかなきゃいけない。
でそれってやっぱり疲労しちゃうね。
自分から望む変化じゃなくて適応、順応していかなきゃならないのはやっぱりしんどいね。

私はこういう現実的な、堅実的な、経済的な話が昔から苦手だ。
なんだろう。命を守りたいのに経済も守らなければならない。みたいな。
世の中の仕組みをきちんと分かっていない、まだまだお子様な私は、両方なんて無理だよ。お金のことはあとで良くない?助け合えば生きていけるだなんて思っている。
でもそんなの、生活にそれほど影響を受けてないし、仕事もあるし、いざというときは両親に頼ることができるし、抱えているものが少ない、という私だから言えるのだろう。
立場が違えば、環境が違えば全く違うんだろう。
あと現実逃避。日頃からこの社会という枠組みに違和感を感じるというかなんだか自分が合ってない気がしてならない延長線。

仕事はというと、こういう時私がしている仕事は多分なくてもあっても困らない存在なのかな。
食事は家で作ればできる。ちょっとの工夫で楽しむことができる。
別に素材や原料を作っているわけでもなく、必要不可欠ではない。
リモートワークに切り替えることはできない。
テイクアウトやお弁当に対応しているところが増えたけど、だからといって何がどうなるのか。
ちょっとでもお金が入るようにしなければやっていけない。
ちょっとでもほっとした時間を届けたい、今自分にできることを。
色んな立場で色んな考えで人々が選んでいるのが良くわかる。

普段人との繋がりをどういう風にしているかも大事になってくるなぁと思う。
あの人大丈夫かな?いつもいくあのお店はどうなってるのかな。と思わず浮かんでくるような。自分にはあまり影響はないから助けになることはないかという余力。
俳優さんやミュージシャンや芸術家。大なり小なり普段から人と人と与えて受け取ってをしている人々は、できることをできる方法ですることで影響力があるし、かっこいいなぁと思う。
私はというと、今はないけど仕事をしばらく営業停止しますとなったら、個人として私としてなにができるんだと考えてしまう。
フリーでしている人やある程度の有名店は、レシピを公開しているところもあるけど、おそらく私は仕事でしていることに関して人にできることってない。
私が仕事としていることは、私の為にも人の為にもなってないのだろうか。だとすれば、本当にわたしのしていることってなんなんだろう。
かといって、他にできることもない。
私にできることって、自分の生活をより丁寧にすることと、思い浮かぶ人の心配をすることぐらい。なんもないなって。役に立たないなって。元気が有り余っていれば人にそれを渡せるかもしれないけど生憎そんな精神力も持ち合わせていない。
いつもより丁寧にご飯を作って、ゆっくり散歩をする。自然に元気をもらう。眠たくなったら眠る。歌いたくなったら歌う。

私の中にある不安やしんどさ。
周りの人がしんどそう。
生活が何かで制御される感覚。
こういうときに直面する私のなにもなさ。
人と会って話したいけど、それは今はあまりすべきではない、するのはよくないという葛藤。

のように弱いつながりが少しの期間断たれようとしていること。

いつも物理的な面より精神的な面にくる。
現状、ありがたいことに生活にほぼ変化はないので、あまり気に病むこともなくいつも通りに生活していけばいいだけなのだけれども。
どうも弱い。
過信は良くないし、こんなこと言うのは不謹慎だけど、今まで通りいくと私は何事もなく収束した時間に居られる。
こういうときだから、私が普段だったら受け取らない人知らない人たちの言葉とか映像が入ってくるようになった。
身近の小さなコーヒーショップが某バンドと繋がりがあってその人の言及によって通販の発注が増えたこと。そういう応援の仕方もあるな。と思った。

星野源さんの「うちで踊ろう」は最高だなぁと思ったこと。星野源さんやっぱり素敵な人だなぁと。

おばたのお兄さんのインスタのかまじい、最高だなぁと思った。お笑いとか、テレビとか何がおかしいのかと思っていた時期があって長らく離れているけど、こういうのにも救いはあるなぁ…というか私の好きな笑い。一気に好きになったよ(単純)

星野源さんのうちで踊ろうにハモりも入れてた。普通に綺麗なハモりだった。

「まーきの」しか言わない人かと思ってたから新たな発見!

 

 

 

 

 

 

 

いや、はい。疲れているので、色々書いて整理したかったのだけども、整理できなかった。

通常運転で、いろいろ感じながら、過ごしています。

シビアに考えていかなきゃいけない部分がたくさんあるとは思うけど、ただただ人と笑い合いたいなぁと思う日々です。

ささやかな

熱したフライパンに少しの油

そこに卵を割り入れる

ジュワッ パチパチパチ

入れた瞬間の音の歯切れのいいこと

黄身は半熟がいい

お湯の湧く音 コーヒーの引く音 薫り  トースターの時間を刻む音

朝はたくさんの刺激で溢れている

程よく色のついた食パンの上に ハムとチーズと胡椒と卵

机の上に一杯の珈琲と

いろいろがぎゅっと詰まったそれにかぶりつく

ひとりの人間の ささやかな1日の始め方

交換日記 ~勝手にお返事②~

昨夜何時間もかかってこちらの交換日記の考えを書いた。

これは、今後も勝手に参加させていただいている感覚で続けたいなぁと思ったので、勝手にお返事とサブタイトルをつけてみた。笑

 

 

cakes.mu 東京でクッキー屋をしている桜林直子さんと京都で小説家として文章を書く土門蘭さんの交換日記。 

cakes.mu

 

今回はその③

「自由とは、壁に囲まれた個人の領域のようなもの 」

を題目に書かれた、蘭ちゃんからサクちゃんへのお返事について。

 

2回目「友達は両思いからはじまる」のサクちゃんから蘭ちゃんへのお返事はタイムリーでは見たんだけど、今は有料記事になっていて読めないので飛ばしました…(購読はしていないので)

これもなるほどなぁと読んだ記憶はあるのだけれどもしっかりとは覚えてない。

でも、この題目は今回私が書くこととリンクしているのかもしれない。

 

さて、今回はサクちゃんから

「蘭ちゃんは誰かに会ったとき、その人の何を見ていますか?人間関係の苦労や悩みはどんなところに生まれますか?」 

 と問いかけられた質問に対して書き進められる。

 これに答えるために、まずは自分にとって何がいちばん大事なのか考えた。

わたしにとっていちばん大事なものは”自由”
自由”というのは「自分の考えや欲求を否定されず、自分の行動を阻害されない」ということ。お互いの「自由」を尊重し合う。
おそらくこれが、わたしが人間関係でもっとも大事にしているもの。

 


逆に言えば、「お互いの『自由』を尊重し合う」ことができなくなったときが、人間関係において苦労や悩みを感じるとき

 

とあり、過去に友達が彼女以外と遊んだことに対して「私の一番は蘭ちゃんなんだから蘭ちゃんも自分を優先してよ」と怒って喧嘩したこと。

それは 人や場面こそ変わりすれ、友達、仕事、恋愛、家族間で再現されてきた。

ともある。

最初の問い「誰かに会ったとき、その人の何を見ていますか?」に戻ると…

「ひとりでいられる人かどうか」

「自由」とはある意味で、壁に囲まれた個人の領域

そういう壁を持っている人を見ると安心するのかもしれない

それは、ノックすることがあると思うけれどよろしくね。わたしの壁も必要であればいつでもノックしてよっていうこと。 

 

ーーーーーーー

 

 

まず、「自分にとって一番大事なものは何か」なぁ…と考えた。

浮かんでは消え、浮かんでは消え、1つに絞れない。

そこで、「人間関係の苦労や悩みはどんなところに生まれるか」=自分が人との関わりの中で嫌だと感じることと置き換えて先に考えてみた。

 

真っ先に浮かんだのは、「人が私を変えようとする。」ことだと思った。

詳しく言うと、生活や思考、私の中にある私というものを、勝手にこっちの方がいいよ。とこっちの方が正しいよ。と変えようと働きかけること。それをあからさまに感じる発言や態度のことかな。

自分の思想、考えが絶対的。こうであるべき、あなたもこうなりなさい。あなたはこうあるべき、と押し付けられること。

そういう時は窮屈で苦しくて仕方がない。

それは、私はこうだと思うけど、あなたはこうだと思うんだね。それはそれでいいと思う。もし変化を望むなら力になるし、じっくり待つし見守っているよ。

というスタンスとは全く違うこと。

どちらも自分の意見は主張しているけど、前者が人がいない。人をひとりの人とみなしていない。後者は自分を持った上で、人をひとりの人として(他者は自分とは全く別のものであるということ前提の上で)尊重している。

私は後者な人間だ。それはある種の諦めでもある。

人と分かりあうことは到底無理。どんなに頑張っても人は変えられない。むしろそれを望むこと自体よくない。望みや想いは気付かぬうちに態度に出て、言葉にでて、表情に出て、雰囲気にでて関係をぎくしゃくさせてしまう。と知ったから。その上で。

 

と考えると、大事なものは「尊重」かな。

それは「自由」ともいえるかもしれないし「適度な距離」ともいえるかもしれない。

「尊重」の中に「自由」や「適度な距離」やがあるのかもしれないし、「自由」の中に「尊重」や「適度な距離」があるのかもしれない。「適度な距離」の中には「ずかずか入り込んでこない礼儀」や「同じくらいの開き具合」があるのかもしれない。

それぞれが意味の中に入っていたり、独立したりしている。

 

だから、あぁ、言葉って人がそれぞれ意味を持たせているから、共通な認識は本当に難しいと思った。

土門さんが書いた「自由」と私のいう「自由」は似ているようで全く同じではない。

それは掘り下げても掘り下げても未知の領域だとおもう。

文中にも「人間がちがえば”自由”も異なります。」とある。

「自由」という言葉には無限の意味がある。他の言葉にだって。

人の数だけ、ひとりの人の中にさえ幾つもある。

だから私は、その人が言う言葉の意味をつい聞きたくなるんだ。同じ言葉を使っても認識は全く違うから。

 

そう考えていくと、

「誰かに会った時その人の何を見ていますか」

の今の私の答えが見えた気がした。

でもやっぱり1つに絞れなかった。

 

1つは

「発する言葉に込めるその人の純度」

 

1つは

「”人はひとり”という前提の意識があるか」

 

かな。

 

なんだか難しいけど、

前者は、その人が発する言葉、綴る言葉に、その人そのものを感じることができるか。

どれだけ言葉に自分の意味を持っているか、物語をもたせているか。

無意識的にその人はどんなスタンスで生きているということがわかる。

それを感じられる人はどんな環境や場面や人でも隠さずありのままの自分でということで、自分を尊重しているなぁと思う。それは私はこんな人ですけど、あなたはどう受け取りますか?という相手にも自由や尊重を与えているということなのかな。

 

後者も言えばおなじで、自分をひとりとして大事にすることができ、他者も全く別のひとりと尊重すること。少し寂しいと思いがちだけど、これは自分に対しても他者に対してもありのままが1番という状態なんだと思う。

明るいひとりという認識がその人の中にあるかを見ている気がする。

 

最終的にきちんとした「ひとり」と「ひとり」で接したいに行きつくので、この2つはそういう関係がこの人となら築けそうという判断材料になるのかな。

 

 

またまた書きすぎてよくわからなくなってきちゃった。

改めて自分の言葉を話すって難しいなぁと思う。

皆さん言語化がうまくて、誰かが読んで、あぁ、自分の感情ってこういうことだったのかも!と伝えられてて羨ましい。

私ももっと言葉を使えるようになりたい。

交換日記 ~勝手にお返事①~

凄く読んでいて面白いものがある。

cakes.mu



東京でクッキー屋をしている桜林直子さんと京都で小説家として文章を書く土門蘭さんの交換日記。
元々、土門蘭さんのTwitterをフォローしていて流れてきたので見てみたら、すごく惹かれるやり取りで、こういう話ができるっていいなぁと思いながら、私はどうだろうと考えながら読んでいる。
交換日記。小学生の頃、凄く流行った。個人的に好きだった。話せばいいのに、毎日学校で会う子とそれをする。手紙だってそう。
なんでなんだろう。
昔から、自分のことを言葉にして文字に書くということが大事なことだった。
今よりもずっとずっと口にできないことが多かった。
言葉の中に人を探していた。
のかな…

とても興味深いこの交換日記を勝手に私だったら…と整理してみたくてこの記事を書いている。




まず、第一回の土門蘭さんこと蘭ちゃんから桜林直子ことサクちゃんへ向けて。

「そもそも、友達になるってどういうことなんだろう」

という題目で書かれてる。


この交換日記はサクちゃんが蘭ちゃんの日記の内容をみて、サクちゃんからお誘いして始まったそう。
それまでは1度しか会ったことがなかったそう。
それについて蘭ちゃんは、

「このお誘いは”友達になろう”ということに近いと思う。どうしてサクちゃんはそう思ってくれたんだろう。どうして私は快諾できたんだろう。友達になるってどういうことだろう。」

と書いている。



自分なりの答えが書き進められる。


「昔から本当のことを話せる友達がいなくて苦痛だった。高校の時に、友達”になる”のではな友達を”つくる”をしてみようと決心。
 クラスの中から真剣に誰にするかを考えた。決めたのは発する言葉が好きだった女の子。食事に誘い、友達になってほしいと告げた。
 その子とは今でも友達。まるでデートに申し込んで恋人を作るかのよう。だけど恋人は注意深く相手を選び丁寧に事を進めながらつくるのに、友達はそうじゃないってなんだかおかしいかもとと思った。それからずっとそんな感じに友達をつくってきた。」

「どうやら私は言葉に惚れるところがある。サクちゃんの言葉はきちんと「ひとり」な言葉。私が人間関係全般に求めることなのかもしれない。「ひとり」と「ひとり」で向き合い、お互いから見える世界について語り合うこと。」

と私が引っかかった部分をざっくりと。



私はそこから考える。

私も、小さい頃は本当のことを話せる友達がいなかった。というか、話してはいけないと思っていた。私が考えていることは変なことというか陰の部分で、人には陽を見せなきゃいけないと思っていた。人とやっていくのはそういうものだと思っていた。
そして私の場合は土門さんとは逆で、友達は”作る”ものだと思っていて、友達に自然に”なる”ことに憧れていた。それって、私は小、中、高、専門と友達を作るというのは、ただ単にクラスや学年単位での立ち位置とかを考えたり、とりあえず1人になるのは避けたいという思いから焦って意図的に”作る”ということをしていたりしたからだと思う。
クラスの中を見渡して、いわゆる、取り仕切る子たちと仲良くなりたいと思った。カースト制度ではないけれどやっぱりそういうのはあった。
私はその頃は本当のことを分かっていなかった。自分の立場とか状況ばかりを気にしていた。
だから、一緒にいたグループや、一緒にいる子には本当のことが話せなかった。
途中でうすうす気づき始めた。私、無理してここにいる、全然気が休まらない、人の顔ばかりうかがってる、嫌われないように、と。
中2くらいから、無理しないで付き合える本当の友達が欲しいと思った。地位とかそんなのどうでもいい。むしろひっそり生きていきたい。
でも、そんなこと言ってもやっぱり、私は1人になりたくないとか、立ち位置、雰囲気で判断して声をかけて友達を作っていた。
いつも一緒にいる子にはやっぱり本当のことを話せる相手ではなかった。
私が一緒にいた子たちは、ただのお飾りだったのかな。自分ってそんなに酷い人間だったのかな。
今は1人が当たり前。良い意味で”ひとり”が大前提の生活だけど、その頃は1人は強がりで、怖くて仕方なかったんだと思う。
本当の自分を出したら嫌われる、暗いと思われると本当の自分を隠してたのかもしれない。嫌われたくないの裏返しでもあったのかも。ある程度の距離の子になら、変に思われてもいつも一緒にいるわけではないから学校生活に影響はない。とも思っていたのかな。

いつも一緒にいた子達とは縁は離れていき、今も残っている大事な友達は、ちょっと離れたその頃本当の気持ちを伝えていた子達だと気付いた。
逆に、いつも一緒に行動してた子達は1番疎遠になっている気がする。
今も続いている子達は会いたいといってくれて、そういう私の変な話も聞いてくれるし自分の想いも伝えてくれる。
その子達は私の言葉を待ってくれるし安心して託せる。「お互いから見える世界について語り合うこと」ができる。
あぁ、そうか。私は今もやっぱり人付き合いは乏しいけど、そういう友達作りしかできなかった学生生活を終え、社会人になってから繋がりたいと思うのは、「お互いから見える世界について語り合うこと」ができる人。
「大体のことにお互いから見える世界について語り合うことができる人。ひとりとひとりと向き合える人、自分がある人。年齢とか立場関係なく私をひとりときちんと見て接してくれる人。」
私はそれが人間関係全般に求めることなのかもしれない。
こうして土門さんの言葉を借りてようやく言語化された気がする。
言語化できなくともどこかの時点で気付けてそんな風になってたんだなとも思う。その境界はどこだったんだろうな。
「ひとり」と「ひとり」の話は、以前ここに書いた「普通が良いという病」という本にある、0人称で話すのは自分がいないといない言うことで、1人称で話すのは自分があるということ。と同じだなぁと思った。

いつも友達を計算して作っていた私は、惹かれ合うように友達になりたいと思っていた。
土門さんとは当てはめる言葉は逆だけど、多分言っていることは同じような気がする。



誰にでもはなすようなネタとしてあるような話をするより、その人の世界に触れる話ができた時が嬉しい。
ここまで生きてきて、誰とでもある一定の距離まで近づこうと思うには、ネタとか話題としての話が必要なのも分かる。でもそれはそこ止まり。それ以上はいけない。
縁がある人というか惹かれるのはそんな用意しているような定型文というか定型話(?)を使う人じゃなくて、自分の言葉を使う人だなと私も思う。
話題としてその場を埋めるために話しているか、人として向き合って話しているかは大体分かる。そして一方がそうなれば一方もそうならざるを得ない。
この人になら話してもいいかも。私の言葉が伝わる気がする。と感じるときがある。
私はなにをみているのかな。やっぱり「ことば」なのかな。話し方とか、話す調子とか、めせん、速度とかもあるけれども。
私は、そんな「ひとりな言葉」を持っているのかな。わかんないや。昔よりは今の方がずっと持ち合わせている気もするけど。


本当は今更新されている3回分をまとめて書こうとしたのだけども、1回分だけでこんなに書いてしまったのでこの辺で。
もし興味がある方は、交換日記、読んでみてください。