ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

交換日記 ~勝手にお返事④~

サクちゃんは、自分はどうしてやりたいことがないのかを考えたときに、周りの目に付く人にどうしてその仕事をしているのかを聞いていったとある。

そこで、

「外からの要素が大きくて、それを「自分のものだ」と思い込んで掴むことができるかどうかなのかもしれないな、と思うようになりました。」

と。

その思い込んで掴むことができるのも、とくにサクちゃんがいう「素直さ」

自分を調子に乗らせるには素直に他人の言葉を受けとることも大事なんだな。

私はいつからか、自分よりできる人はたくさんいる。同じことをしても意味がない。と思うようになった。 

 今では、近くにいる人の肯定的な言葉が、自信がない私を知っていてそう言葉をかけてくれているんだな。あるいは、その人にとって都合の良い人間だから傍に置ておくための方便なんて思うようになってしまった。

なので逆に、自分を全く知らない初対面の人に、「こんなことできるんですね!凄い!」「あなたはこういうことが強みなんですね。」と言われた方が素直に喜べる私は相当こじらせている。

 


そんな私だけど、なんだかんだ自分大好き人間なのだと思う。

「自分がどんな人間なのか知りたい、理解したい」

いつも、もう1人の自分が自分を見てる。


最近思うのが、「自分は子供心を忘れていない」ということ。

黙っていれば、凄く大人しそうできっちりしてて取っつきにくいイメージを醸し出していると思う。

けど、本当は喋るの好きだし、結構怠け者だし、甘えたい。よく笑うし、楽しい冗談も好きだし、バカなことをするのも好き。ちょっと卑屈で批判っぽいけれども。


それが、出せる場や人を大事にしなきゃなぁと思う。

だけどきっと、それは選らばなきゃいけない。場も人も。じゃない生きにくい。

そのバランスがまだちょっととれてないなぁと自分で分かる。

どこでも、本当の自分でいたくて、でもそれじゃダメだとわかってて、でも納得できなくて…

あっ、ここはこんなに自分を出したらダメだった。とあとで気付いて自己嫌悪することが最近多い。


昔そうして「最近調子に乗ってる」って言われた過去がまだ私の中に残っているんだな。それに囚われているんだ、まだ。

「変な人」って思われたくないんだ。

でも「変な人」上等なはず。

それなら、分かってくれる、さらけ出せる場だと思っていたところが実は違ったんだというショックの方が大きい。

近付いて、遠ざけられるショックが大きいから調節してる。(時、既に遅しかもだけど。)


ある人に、「良くも悪くも子供っぽいんでしょうね」

と言われた。肝心なところでは子供っぽくなれないし、悪くもは余計だなと思ったけど聞き流しておいた。



「ふわっとしてる」というのも昔から今日まで何度も言われてきた。

昔はそれが特に嫌じゃなかった。

けど最近は、それって軸がない、明確な何かがないってこと。もっもきっちりしなさいの遠回しなのかなぁと落ち込む。

いや、でも軸はあるんだよなぁ。

自分自身の責任の軸。自分のなかのルールみたいな軸はかなりはっきりとしていると思うし、よく人に言われる。

『楽観的に陽気にみえて芯は強い』

じゃぁ何にたいしてふわっとしているのか。そこがいまいち私のなかで繋がらない。

「自分以外の物事」に対して?

「自分のものに出来ていない物事」に対して?

ただ、自分のなかでは明確だけど言葉にできないそれがそう見せるだけなのか。

陽気なのは予防線?なんなんだろ。

芯というものをふわっとしたなにかが覆っているのだろうか。それでバランスを取れた気になっているのか。

あるいは、自分の中心に触れることを恐れてアンテナを狭めているのか。



みなさんは、本当の自分はこれだ!と胸を張って言えますか?

そしてその自分をさらけ出せる場や人ってどれくらいもっていますか?



なーんてことを考えてしまった。

バランスって本当に難しいなぁ。と思う。何かにつけてバランス、バランス…

じゃぁ、誰がここがちょうど良い位置ですよと決めるのだろうか。

隣人が引っ越した

ある朝、隣の部屋から大きな音が響く。

隣人がDIYをしているのかと思っていた。

出かけるからと、その部屋の前を通ると業者が入っていた。

 

あ、空き室になったんだ。

 

数日前までは普通に隣人が帰ってきた音を聞いていたりしていた。

いつの間に?ってなんだか空虚感に襲われた。

引っ越してきた時に一度挨拶にきてくれただけで親しくしていたわけでもなく、正直言えば全く、全く関係のないことなのに。

 

なんでこんな気持ちになるんだろう…

 

1つは、一種の仲間意識?

私は安い6部屋しかない賃貸に住んでいる。

だから、交流はなくとも住民の顔はどの部屋の人も分かる。

つまり、一つの家として捉えていたのかもしれない。そこに薄い壁で区切られた部屋に人1人ずついるだけ。

あ、今どこの部屋の人出ていったな、帰ってきたな。気持ち悪いけどそんなことを感じていてそれでちょっとだけ人の存在を感じていたのかもしれない。

 

 

1つは、置いて行かれた感、私だけ止まっている感。

今までも、上の学年の卒業式だったり、家族が引っ越したり、人が退職したりするときに同じことを感じている。

私よりあとに越してきて、去っていったから尚更なんだと思う。

あの人は新しい環境や生活に向かったんだな。次に進んでいるんだな。じゃぁ、私は?このままでいいの?ここで止まっていていいの?私も動かなきゃいけないんじゃないの?と感化される。

そんな気持ちとは逆で、大きな動きは特に起こさなくて、ジレンマが生まれる。

私はどうしたいのか。どこに向かいたいのか。何がしたいのか。すこしの焦り。

 

 

1つは、当たり前だと思っていた日常はあっけなく消えるという感覚。

これも、毎朝駅のホームや電車の中には同じ時間に大体同じメンバーがいて、ある日突然いつもいた人が居なかった。

みたいなことでよく体験している。話したことも何にも知らないけれど、毎朝繰り返し顔を見ているだけで勝手に親近感を抱いている。

そういう時と同じ感覚を抱く。

 

ということなんだろうな。

 

「平凡で、ありふれていて、変哲もない14の窓の一つ一つの向こうにある日々は、誰にとっても、おそらくその部屋をでてゆくまでの暮らしであるにすぎないだろう。

部屋を借りているのだが、ほんとうは部屋を借りているのではない。部屋を借りる仕方で、借りているのは自分の人生だ。長距離の寝台列車のような、途中の暮らしだ。

とりあえずの時間。

とりあえず1日が終わる。とりあえず朝になる。とりあえず雨の日がある。」

(長田 弘)

 

カーテンがなくなったがらんどうの部屋を見上げる。

変化

部屋からは広い、広い空が見える。

外に目を向けるたび、雲に覆われていたり、青空だったり。

コロコロ変わるなぁ。という朝だった。

なんだか私みたい。

 

6月に入った。

皆さん、どんな変化がありましたか?

ここ数か月、そしてこれからも、私たちは自分から望んだわけじゃなく、自分から働きかけたわけじゃない変化で混沌とした日々を送っているのではないでしょうか。

自分ではどうしようもなくて、私は止まっていて、世間がせわしなく動いている様子。色んな人がどんどん先に行ってしまう。それをみて、なに?何が起こっているの?みんなどこへ行くの?と置いていかないでと少し思うけど、私は動かないのではなく暫く動けない。フリーズだ。

そもそも、周りの変化には気付いているけど、受け入れ準備が整うまでは見ないふりをしているのかも。影響されやすいから、自分を守るために。

さすがにそろそろ無視できないな、ちょっと様子をみてみようとなる。

そこでようやく、動いていく周りを突っ立って眺めてこんなことになっていたのか。と気付く。そこで初めて自分が介入すべきか、ある程度距離をとるか判断をする。

と私はいつも遅れをとり、かつ足並みはそろえられない。

何事にも距離をはかって生きているんだなぁ。自分を守るために。

最先端に舵を取って進んでいこうとする人は凄いなぁと思う。私はどうやらやっぱり未知の世界に予測なしで動いていくというのが苦手らしい。

ある程度予測したり、周りの結果をみて自分だったらどうかな・・と考えて動いてしまうみたい。

先見の明といえば聞こえはいいのだが、そんな良いものではない。それが本当にそうなるのかは誰にも分からない訳で、それが足止めになることも多い。

 

予測していなかった流れてしまった時間の上に立っている今。

皆さん、どんな変化がありましたか?何を感じていますか?

1人1人全く違う変化なんだろうなぁ。と思う。

私は私のそれがあり、それだけでいっぱいいっぱい。到底一言では片付けられなくて話すにはたくさんの時間を要する。

少しだけ、いろんな人のそれを聞いてみたいなぁと思った話。

交換日記 ~勝手にお返事③~

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大分、間が空いたけど「サクちゃん蘭ちゃんのそもそも交換日記」への勝手にお返事編。

 

まず最初に書いておきたいことがあって、コロナの波が私の身近に来た頃に感じていたこと。

「はっきりとした原因が分かっているならそんなに慌てなくてもいいじゃないか。」

ということだったように思う。

目に見えないものだけど、原因はわかりやすく物質として存在している。

これほどに分かりやすいものなんてないのではないか。

それならいずれ対処法は分かる。順応していける。

そんな気がしていた。

 

 

それについて、『サクちゃん蘭ちゃんのそもそも交換日記』にうまく言語化されていた。

 

 

 時々そういうのをなぜか全部壊したくなるんです。
愚直に身につけてきたもの、切実に欲しがっているもの、全部全部、本当はいらないのかもしれないって思うことがあります。 

 

コロナウイルスの一件で、ひとつ気づいたことがあります。
それは、わたしの本当の不安はここにはないということでした。

 

なぜかと言うと、不安の理由がわかっているからだと思います。
感染するのもさせるのもこわい、医療崩壊がこわい、経済状況や人間関係の変化がこわい。どれも、とても怖いです。
でも、理由や原因がわかっている不安は、わたしにとっては本当の不安ではない。
それよりもっと怖いのは、なぜ自分がこんなに不安がっているのか、理由や原因がわからない不安です。わたしの中には、子供の頃からそんな不安が存在しています。

 

 (蘭ちゃん)

api.cakes.mu

 

 

 「把握癖がある」というふうに思っていて、「把握したい」という気持ちがつよくて、把握さえできると、それが自分にとってどんなに不利でも、状況は変わらなくても、ひとまず安心します。 

 

「こうするべきだ」というルールや「こういうものだよね」という考えを「なんでかな?」「ほんとにそうなのかな?」と疑うことで、他人の視野をそのまま自分に取り入れずに、一旦崩してから自分に見えたものだけを信じていたのだと思います。(「ほんとにそれで委員会」を自称しています)

 

わたしの場合は「わかりたい」という気持ちで考え続けて、その先でわかったら、いとも簡単にポイと捨てます。たどり着いたものを見て「へえ、これか〜」とわかったら、それで満足します。同じように複雑に考える過程は同じでも、わたしは「手に入れたい」と思っていないかもしれない。

それが理由かどうかはわからないけれど、わたしは「唯ぼんやりとした不安」を感じることはほとんどありません。

 (サクちゃん)

 

api.cakes.mu

 

サクちゃんの日記を読んで、思ったことがあります。
このふたりはよく似ている、と思っていたけれど、実は大きな違いがあるんだなということです。
「唯ぼんやりした不安」を持っていることは一緒。でも、サクちゃんは「諦めがいい」、わたしは「諦めが悪い」。サクちゃんは不安と共存しているけれど、わたしは不安と格闘している。これは大きな違いだな、と思いました。
さっき、わたしは連休までの状況を「旗色が悪い試合」というふうにたとえましたが、そんなふうに人生を闘いか何かだと思っているのかもしれないですね。
勝つか負けるか。それは他人に対してはなく、自分に対してです。
だから終わりがなくって、常に緊張していて、時々降りたくなったりして。

(蘭ちゃん) 

api.cakes.mu

 

 

当たり前で分かり切ったことだけど改めて、蘭ちゃんとサクちゃんは違う人間なんだなぁと思う。

 

私の話に戻してみる。

私にとっての不安。
元々存在している、私が人生の名目を探しさまよっている根本的な不安や悩み。

それが別枠の(しかも世界的に大規模な)不安が覆いかぶさってしまい、世界ごと大きな埋め尽くされた。
可視化された不安、誰もが一斉に同じような不安を与えられた。
それは、自分にとって外敵が増えるということを薄々感じていた。
人はストレスを感じると余裕がなくなり、他者のことまで気や頭が回らなくなる。

それを全人類同じタイミングで抱えるということになった。

その中でも、(重さなんて計るなんて本当はできないけど)状況や立場的にかなりきつい、まぁまぁやれる、それぞれあるけど、ほぼみんな自分のことで精一杯になった。

 

と自分の不安要素が、元々自分が持っているもの+コロナの件+外敵 になったのだ。

外敵という面から改めて、人からもらっているものは大きいのだと感じる。

 

「唯ぼんやりとした不安」

と書いてあるが、私もどちらかというと「唯ぼんやりとした不安」はないように思う。

サクちゃんのように、把握癖が強く、(なんでこんなに苦しいのか)(なにがこんなにしんどいのか)というのを考える癖があり、自分はこんな場面が苦手なんだなぁ。こういう時に息苦しいんだなぁとだいたいの理由は分かっている。

ただこれは私にとって、コロナのように物質としては存在する『目に見えないけど見える原因』ではなくて、物質的に存在しない『言語化こそできるけど見えない原因』なのだ。

私は、これかぁと満足するわけじゃなく、不安が不安を呼ぶというか、枝木のように、じゃぁ、なんでそれが苦手なんだろうと深堀してく。

そして諦められない。

「じゃぁどうしたらいいんだろう」

自分が楽であるためにはどうしたらいいんだろうと。

それについてははっきりとしたお決まりの対処法とか、原因が分かるからといってこうしたら治まるとかがない。

白黒はっきりつけたい性格のわたしは、それが嫌になる。

壊したくなる。すべて投げ出して違う世界に行きたくなる。

同じ意味ではないと思うけど、蘭ちゃんの

「時々そういうのをなぜか全部壊したくなるんです。
愚直に身につけてきたもの、切実に欲しがっているもの、全部全部、本当はいらないのかもしれないって思うことがあります。 」

という言葉がよく分かる。

 

 

そして私はどっちなのだろうか。

自分を受け入れて諦めて「じゃぁどうしようか」

なのか

自分と格闘してる「じゃぁどうしようか」

なのか

 

と考えたとき、割と受け入れて諦められるようになった。

幼少期のころは、原因を抱えたまま我慢する、頑張る、耐え抜くしかないものだと思っていた。それしか知らなかった。
けど今は、それって本当にそうなのかな?と思うようになっているのも確か。

苦しいことを持ち続けることは本当に大切?克服できない、どうしても苦しいままなら他のやり方があるんじゃない?と。

でも、自分はこうなんだね。と受け入れた諦めるではなくて、自分なんて所詮こうなんだという諦めにも思える。

それはまだ、そんな自分を変えたくて奮闘しているということなのかな。

「変えたくて」じゃなくてもしかして「変わらなければ」という外敵もあるように感じる。

そうなると、私はまだまだ自分のことを過不足なく把握してあげなきゃいけないと感じた。

人の言動や社会の状況にいちいち惑わされないよう。

 

「世界は夢組と叶え組でできている」著:桜林 直子

「自分の能力や性格、できることを過不足なく把握できていると得をするよ。

他人からどうこう言われても自分はこうだと言えるから。

自分のことを一番よく分かっているのは自分だから。」

というようなことが書いてあった。

 

さっきも書いたけど、

私は、このコロナの件で、人の言動や環境や社会の状況に心がいちいちかき乱されて左右されるのは本当に、ほんっっっとうにうんざりだと思った。

そして、まだまだその核が私には無いのだとも分かった。

じゃあ、その核をみつけるため、自分の能力や性格、できることを過不足なく把握しようとノートに書いていこうと思った。

唯、1つ問題があった。

「過不足」なく把握することはとてつもなく難しい。

どうしても「不足」する「不足させて」しまう。

それは、人と比べて自分を卑下することがしっかりと身に付いてしまっているからなんだと思う。

これは自分は持ってるなと浮かんでも、どうしても、本当にそうかな?自分よりできる人はたくさんいて、持っているうちに入らない。

あるいは、ある一定の基準(そんなの目に見えないしそもそもないんだろうけど)があるように感じていてそれを超えないと持っているとは言ってはいけない気がしていて浮かんでさえこないように思う。

完璧主義?変にプライドが高いだけ?

 

ここから改善していかなければ到底、核を見つけることは難しいと思う。

「じゃぁ、どうしたらいい?」

とそこで行き詰まっている。

 

ー・ー・ー

 

まちは少しずつ動き出したけど、それでまた外的変化に左右されてしまうという不安が私を襲っているように思います。

そんなに不安に思うことはないはずなのに。どうしてもそこに弱いのです。

人として

人を見て、みんな素直でいい子だし、笑顔で人と接することができて、人のことをよく見て気遣える。

どうして私にはできいないんだろう。

私って人を不快にさせてるのかも。

思い込みかもしれないし、本当かもしれない。

 

「どうして」

それは、昔っから今までそういう態度で過ごしてきて、それを周りも受け入れてきたからだ。

「どうして」

と過去を遡っても変えようがないから考えるだけ無駄なのだろうか。

「どうしたら」

を考えるためには、原因を探るため、過去を見つめることは必要なのだろうか。

 

昔から人に話しかけるのが苦手だった。
特に年上の人には変な緊張感があって、話しかける内容を頭の中で準備して心で唱えて、声に出すタイミングを見計らう。

自分から話しかけられる人と、自分から話しかけるのが怖い人との2極化だった。

それは、家族にでもそうだった。

父、祖母、祖父、真ん中の姉 自分からほとんど話しかけられなかった。

なんでだろう。実際、話して怖い訳じゃないし、怒っているわけじゃない。

同じ部屋にいるだけで息が詰まるというか、胸になにかつっかえているような。そわそわ落ち着かない。自然体の自分ではいられない。2人きりというのが物凄く緊張する。

普段は気軽に話し掛けられる人でさえ、相手がなんだか機嫌が悪そうだったり、泣いていたり、集中していたり、疲れているように見えた時も同じような感覚になり、話かけられなくなる。

それはもう、保育所、小学校、中学校、高校、専門学校、社会に出てから…ずっとずっと二極化だった。

そりゃぁまぁ、誰にでもあるものなのかもしれないけど、ちょっと重症すぎだなぁと思う。

どうしてなんだろうか。

何を話せばいいかわからない。何と声をかければいいかわからない。

どうせ、この人はこう思ってるんだろうな。どうせわたしなんて。私ががんばったところで。という思い込みやひねくれ?

 

じゃぁ、どうしたら。

と度々本を見たり人に影響されて感化され、頑張ってはみるものの、時間が経てばどうももとに戻っていって、またダメだった。ってなる。どんどん自信がなくなる。

自信がなくなると、ますます話すことが怖くなって、ますます思い込みが激しくなってしまう。すると、ますます話さなくなって、単独で突き進んでしまう。

それがわかっているのに。

何度も何度も繰り返す。ずーっと同じ場所を周回しているだけな気がする。

どうやっても抜け出せない。

 

扉が開いて、閉じて。

それを自分でも冷静に、開いてるな。あれ?この前まで開いてたのに閉じてきた。しかも何重にも重なってる。と分かるのだけれども、自分の意志でコントロールできなくて、でも、誘導してるのは明らかに自分で止められない。

 

 

オンラインヨガ

昨日、古典ヨガをYouTubeで無料配信されるということで、実際に受けてみた。

Twitterでフォローしているのだけれども、あがってくる動画とかも人間ってこんな動きできるんだ…!みたいなのがたくさん。

柔らかくてしなやかで、自由がある。けど軸はある。うん。体が上手く使える人ってこれができる人なんだよね。きっと。

普段は、ダンサーや役者さんのパーソナルトレーナーとして活躍されているそう。

@koutopo さん

 

 

 

実際のレッスンは、21時から始まり終わったのは22時40分ぐらい。

最初と最後に、話や質問タイムがあったので、実際に動いたのは1時間くらいなのかな。

聞きながら、見ながら実際に動きをしていく。

 

ヨガは、3月までしていてやめてからはしてなかった。

久々にして、少し離れただけで忘れていたことがたくさんあったなぁと思った。

呼吸とか、リラックスすることとか、程よい心地良さをみつけるところ、自分の体の声を聴くこと。

身体が緊張していたこと。

しかも、前やっていたのは大きいところだったから精神的なゆとりをというより、大人数で機械的な感じだったので、その辺の違いもかなり大きい。

自室で誰もいないリラックスできる環境というのもいいのかもしれない。

 

 

最初のお話のところで、何故こういうことをしようと思ったのか(今回が初回)とか、ヨガについてを少し話された。

そこで、これって全てに関係するなぁ。今、私が見つけたいものだなぁ。と思ったのが、

「頑張りすぎない、怠けすぎない。ちょうどいい中間。それを自分で見つけていく。」

という言葉。

ヨガのポーズを取るときの心得みたいなことで言われたのだけど。

 

私は昨年あたりから、呼吸が浅く、体を固まらせてしている仕事が、とてもしんどくなった。なんといっても体が物理的にしんどい。凝る、張る、痛い、重い、鈍い、体が動かなければ、気持ちもしんどい、ミスも出てきた。

だから、緩めよう。頑張りすぎない。と年が明けてから心に決めた。

少し体や気持ちに余裕ができた。

けど、ひたすら緩めっぱなしだったから、またミスが出てきた。

引き締め直さなきゃ。というところ。

でも、前のところには戻りたくはない。丁度いいところ。

頑張りすぎない。けど緩めすぎない。ここぞというときは頑張る。ここぞというときは緩める。どっちも大切。どっちも必要。

そのバランスが凄く難しいなぁと思う。仕事だけじゃなくて生活全てにおいて。人間関係においても。やるべきことやりたいことも。挑戦することも、留まることも。変化すること、守ること…

私、このバランスの調節を昨年から今まで練習していて、そしてこれからもし続けていくんだろうなぁ。と思った。失敗の意味が昨日の言葉で見つけられたような気がした。

 

身体が楽になりたいと、トレーニングを始めたんだけど、そこもバランスを大切にしたいなぁ。

「自由な体を手に入れる」

柔らかくしなやかに動く。でも止めるべきところ締めるべきところは締まっている。

そういう風になりたい。

身体の調子は1人1人ちがうし、なりたい像も違う。

わたしは、ただがむしゃらに追い込んで追い込んで頑張るんじゃなくて、バランスを保ちたい。頑張るところはがんばるけど、無理をしない。

それが、どこまでならそうなのか、手を抜かず頑張りすぎてない位置がまだ分かっていない。

 

昨日の配信で、ヨガも生活に取り入れていきたい。というか強さとしなやかさを持ち合わせたい私には大切な存在だと思った。

力の抜き方、呼吸の深さ、体と向き合う、今の自分を過不足なく知ること。

 

フィットネス、トレーニング、ヨガ、ティラピス、ボディワーク…

人生に大切なことも学んでる。

悪魔でも私は。

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毎日毎日、色んな人のそれぞれの考えがネットでも現実でも入ってくる。

みんな、どこかに誰かに吐き出したいんだと思う。

でも結構デリケートな問題。

なんだろう。「政治・宗教の話は禁句」みたいなそんな類のものな気がする。

コロナについては、1人1人が関わっていて、1人1人の判断で。

それぞれ、何がよくて何がだめか、どこまでなら良いか。自分は何を良しとするか。

「個」による考えが大きい。どれだけ偉い人がどうこう言おうが、何か取り決めがあったとしても、隅々までは行き届かない。

大人の判断とか、理性とか本能とか、我慢・抑圧とか爆発とか。

そんなのが1人の中でごちゃごちゃになっていると思う。

そして、何を大事にするかによっても行動は違う。

そんなのが、1人ずつあるから。多少、足並みを揃えた風ではあっても全部ちょっとずつずれてる。

 

割とみんな自分の考えを吐き出す。

そういう話の時は口調に荒れがあり毒がある。

無意識なのかもしれないけど、人を批判している。

あぁ、みんな疲れてるんだなぁ。と思う。

表では普通にみえる。ちょっとでもポジティブに、おうち時間を楽しくみたいにしてるけど、結局はやせ我慢にみえる。

 

私は行動についてのはっきりとした正解がいまいちわからないから、私という人間の立場からすると周りの人を見ての怒りや批判はない。

精神的にも健全であるためにみんなそれぞれ生活しているように思う。

 

私が参っているのは、自分の考えを安易に話せなくなったこと。

人から何か吐き出されても、自分の考えはぐっと胸に塊としてとどまっている。

常にそうなってしまった。触れてはいけないものみたいに。

それを含めてわたしだから、そこが話せないと普通の会話も難しい。

何かはなすとぼろが出ちゃうかもしれないから。

人の話は、「そうですよね。」「難しいですよね。」「どうしたらいいかわかんないですよね。」ってうんうんきくけど、私にもその人と同じではない考えや思想がある。大事なものだって多分違う。

大抵の人は、そうだよね?そうでしょう?あなたも私も同意見であること前提に話をしてくるのもきついのかも。

でも逆に「どうしたらいいと思う?」と聞かれても答えられない。抱えているものが違うってことはわかるけど、なにがどう違うかは分からないから。私はどうしようと何も言わないからその先はご自分で。としか言えないから。

散歩ならマスクをしてない人、ジョギングでもマスクをしている人、飲食店で自粛して休業しているお店、デリバリーやテイクアウトを増量して営業しているお店、アルコールを持ち歩く人、手を洗えばいいという人、子供の複数人で遊ぶのを見守る人、遠ざかる人…それぞれがそれぞれの立場や考えで行動してるんだから同じわけがない。

私としては、政治や宗教の話はタブーとされているのが、もっと身近に日常的なものになって、その上「私の信仰しているのはこれですよ」と聞くまでもなく行動や身に付けている物で考えが明らかに目に見えるようになった感じがする。

それで見ず知らずの人に変に仲間意識を持ったり、その逆で敵対意識をもったり。

人の考えによる種類分けが誰の意志もなくされているなぁと。

よっぽどのことをしていない限りは、それはダメでそれは良いとは言えないし、言うつもりはない。

それで、なんだと言われると…うん。話ができないなぁ。参ったなぁ。苦しいなぁ。というところ。

それが近い人であればあるほど、話ができなくてしんどいなぁというところ。

今のもやもや、心のつっかえ、言葉が出てこない、無駄に言葉を選ぶのは、そういうことだ。

 

 

私も通販とかデリバリーを利用してストレス発散(?)をしてみるけど、ここには足りないものがあるし。


現実逃避じゃないけれど、そういうものが存在しない時間ちょっとでも作れたらなぁと思う。