ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

全て繋がっている

最近は意識が内に向かっている。

ある人に言われた。

「自分の世界に入っている」
「シャットダウンしている」
「恋愛とか興味なさそう。1人が好きそう。」
「好きな人がいても自分からいかなさそう」
「異性とあんまり話さなそう」

それが結構ずどーんと来たのはなんでだろう。

イムリーで最近、友人やカフェの店員さんとそういう話をしたから。
ちょっと整理。


何を感じたか
・相手が別に友人とかじゃなかったため、なんであなたにそんなこと言われなきゃいけないのと思った。
・昔から同じようなことを言われてきたので、もう聞き飽きた。
・そんな自分をいい加減受け入れたつもりだったけど、まだ受け入れられてなくてそんな自分が好きではないから無性に腹が立った。
・自分は変わってきている気がしていたのに、結局昔から何も変わっていないんだなというがっかり感。
・どれも事実だけど、恋愛に興味がないというよりわからない。そういう存在は欲しいし、1人が好きだけど分かちあえる相手が欲しい。それは分かって貰えないんだな。そう見られているんだな。でも誰かに分かってほしい。
・人との距離感難しい。あまりそういう話をしたい間柄ではなかった。一気に後ずさる感じ。でもそれは核心を突かれて怖いから?
・私はちょっと依存体質かもしれないから気を付けないと。興味を持った「もの・こと・ひと・場所」に対して一気に近づきたいと思ってしまう傾向がある。それで、他の事がおろそかになったり、牽制されたりする。そして勝手に傷付く→シャットダウンという悪循環。
・この歳になると、結婚の話題が出る。みんな恋愛ネタ好きだなと思う。でもいまだに私は結婚の概念はわからなくて、恋愛感情もはっきりわからなくて、今まで好きだと思ってきた人は本当にそうなのかも今となると分からない。ただの勘違いだったのではないかとも思う。
・口をそろえて「子供が欲しいなら早いうちが良いよ。」とみんな言うけれども、「といわれましても…」という感じ。今の時点で子供が欲しいとは思っていないので、あぁ、もっと歳をとって後悔するのかなぁ。なんてぼんやり思う。


あれ、おかしいな?と思う。
私、以前自分を受け入れたつもりだった。生きやすくなってきたなぁと感じていた気がしていたのは間違いだったのかな。
元に戻っていない?
『自分を活かしてあげたい』
『自分なりの人との繋がり方をしていく』
なんてこと言ってたのに、なんで劣等感を感じているの。なんで閉じこもっているの。
人も言う「そのままでいいと思うけどね。」
私も自分がそれが好きならそのままでいいと思う。けど受け入れられていないのであれば苦しい。
自分は無理して変わる必要はないし、本質は変わらないと思っているけど、それが人と繋がることの邪魔になるのならどうにか術を手に入れなければならないとも思う。
人と繋がりたいと思っているから。
いや、もう一度身近なところから今までと違うことをしていかなければいけないと、今日の店員さんとの雑談で思った。




今回の『サクちゃんと蘭ちゃんのそもそも交換日記』にこのようなことがある。

cakes.mu

“自分で「やりたいからやる」と決めて行動するとき、必要なのは責任ではなく、覚悟なのだと知りました。そこに飛び込む勇気と、飛び込んだ後も心と行動を近づけていくには、「断固として変わらない覚悟」ではなくて、「決め続けて変わり続ける覚悟」が必要なのだと思います”

「やりたいこと」を構成する4つの要素を、サクちゃんはこのように分けていました。
・自分がよろこぶこと(単純な欲)
・もともと持っている性格や性質
・できること
・時間やお金の使い方

私はというと

・自分がよろこぶこと(単純な欲)
自分にない新しい何かとの出会い、ひとや場所やものの物語をきくこと

・もともと持っている性格や性質
1人が好き。物事や人に対して真剣に深く向き合う。黙って真面目に取り組む。思慮深い。

・できること
お菓子やパン製造・人の話をきく

・時間やお金の使い方
体力がないので長時間働けない。睡眠しっかり必要。予定を詰め込みすぎるのは苦手。自分のペースで過ごしたい。
お金は生活が無理なくできる程度あればいい。

これで、どこにベクトルを置くか。どうバランスをとるか。覚悟を決めてどこに飛び込むか。
できることに正直「自信」が足りないなと思う。

そして、交換日記はこう続く

「自信」とは「自分の感覚を信じること」なんじゃないかなと思ったんです
自分が何を感じているのかをちゃんとキャッチし、それを信じること。
そこには、他者の評価も、比較も、時代や情勢の変化も存在しません。
「自信」とは、ただ自分の感覚に耳を澄ませ、ただ信じること。

まずは自分の感覚を信じること。それを行動にうつすこと。
すぐに行動にうつせなかったとしても、「自分はこれが好きでこれが嫌い」ってことを信じられていたらそれでいい。「信じる」ということ自体、行動だから。
文字通り、「自分を信じる」プロセスの中に、「自信」があるのだろうなと思います。

あぁ、そうか。
私はどうも自分の感覚を信じられない。それが全てに繋がる自信の無さなのかと。
何がしたいのか分からないのは、自分の感覚を感じられてないから。
レーニングをしていても、このトレーニングの身体の感覚はこれで正解なのか分からない。
理論的に間違っていたとしても、自分がこの感覚で正解と思うことも大切だと思う。
感覚は人には伝えられないから、自分が探して感じて信じる他ないのだから。
だから、人を好きになることも分からないのだろうな。
自分の感覚を信じることができないから。
自分の感覚に耳を澄ませ「感じる」そしてそれを「信じる」という行動から始めなければと思う。
そしてようやく物理的な行動に移せるのではないのか。
そこからもういちど始めてみよう。


「361°の位置 今何が見みえている?
挫折と悩みと悲しみ さよならの上」
「ほら始まりに戻ってきた 今何を抱いている
誰かの顔とか浮かんで まだ続いているとわかって」

SUPER BEAVER /361°

本にも人間の変化を説明するのに、「360°ぽんっと抜けたところ(上記の歌詞で言う361°)。始まりに戻ってきたようだが「~し切る」状態。シンプルに見えるが極まった状態。
それでいて螺旋状に上昇していく。」というのが適切ではないか。とあったのを思い出す。

皆、「詩人」だなと思う。何をしているかが違うだけで、本質を突いている。

私もぐるぐる回っていつも元に戻ってきているだけのように見えるけど、上昇しつつもあってほしい。

必要なもの

晴れた日なんかは海岸でゆっくりするのが良い。
この季節は夕方からが良い感じ。


やっぱり家じゃないどこかの居場所を求める。


席数を減らしてでも存続するカフェたちはそれを物語っている気がする。

買って帰って家で食べるのとは何が違うのだろう。
何で家ではそれが満たせないのだろう。
1人になりたい。考え事をしたい。そんなときもどっかお店に入ろう。と思ってしまう。
私の住んでいるところや職場周辺にはそんなお店があまりないので、雨の日にどこかでゆっくりして帰りたいと思ったときにここって場所がなくて残念に思う。
大体いつもMUJIカフェにお世話になる。スタバはちょっと違う。

家に帰ると『生活』が待っているから多分気が休まらないのかな。
ある人が「本当は寂しいって思ってるんじゃない?」と言っていた。
寂しさと気が散乱するのはイコールなのかなとピンと来なかったけど、『満たされていない→落ち着かない』ってことなのかな。
単純に家は地べた生活で座っていて態勢を整えにくく体がしんどいって言うのもある。
机、椅子をおくとかって少し環境を整えたら変わってきたりもするのかな。


それでもやっぱり家には無いものがカフェや喫茶店にはあって、逆に家で作り出すのは不可能なのでは?と思う。
つくるとなると完全なる個室を用意して、そこだけは生活を用いない理想的な空間をつくり、必要なときに出入りするのが一番の得策かもなぁ。
周囲の人、声、会話、音楽、調理音、食器を下げる音など全てがあってこその空間だからやっぱり無理か。

なんてことを考える。
今、私に必要なものってなんだろう。
何となく分かるけど、環境の変化、抑圧、牽制が入ってきている気がする。
気にしなきゃ良いだけなんだけど。
色んなことが起こっているけど、必要なものを吸収するためにどうしていったら良いのだろう。

雨が撃ち付ける窓のそばで

いつものベッドの上で眠れなかったので、本を読んでみたり、深呼吸をしてみたり、音楽を流してみたり。

場所を変えようと、地べたにマットを敷いて、毛布を掛けてジャズピアノを小さい音にして掛けて仰向けになった。

そうしたら2時間くらいは眠れた。

目が覚めてしまったのは、夢によって感情が呼び起こされたから。

 

激しい哀しみが生まれた夢だった。

夢による感情は内側からじわじわと湧き出てくるが、あまりに激しい。不思議だなぁと思う。

声を上げて泣いてしまう。足で宙や布団を蹴飛ばしてしまう。

日常生活でこんなに激しい感情は湧いてこない。

と、泣きわめきながら自分を客観視している自分。

 

これにはなんの意味があるのだろう。と、

最近は忙しい。仕事が。でも、この忙しさは上の人が忙しくなり、仕事がこちらに回ってきている忙しさである。お客さんが増えたことによる忙しさではない。内部事情によるもの。

身体の負担は大きいし、なんといっても私はキャパが少ないので、仕事の日は、あとは他に何もすることができなくなる。

大体、お惣菜を買って帰る。家での家事もおろそかになり部屋が散らかってくる。そしてとにかく寝る。寝てもなんだか疲れがとれないまま仕事へ向かう。

別に、嫌というわけではなく、私は皆の仕事量のバランスが取れ上手く回るように立ち回ることができればいい。周りの人が自分の仕事に集中できるように。というスタンスで毎日を過ごしており、そんなに精神的に参っている気はしていなかった。

だけど、休みの日になると、眠れなくなる。やりたいことができる時間も心もまる1日ある。心置きなく、誰の動きを考えることなく、自分のしたいことだけをできる。どちらかというと興奮状態にあって眠れない。そのため、パフォーマンスは低下して、したいのに眠くてできない、身体が楽じゃない。という悪循環。結局1日なにしてたんだろう。となる。明らかに効率が悪い。

キャパが狭い私は、こんな状況で友達や家族へのLineも放置気味。

かといって、親しい人ではないけど人と接することは結構あって、それで感じることが色々ある。

 

前提にある今の生活。

 

 

そして夢を自分なりに分析。

内容はざっくりと、

「部屋の襖を開けると、小学生の同級生が真剣に書道を先生に習っている。その書道の先生は今の職場の上司。部屋を開けた瞬間に先生とは目が一瞬合った感じがした。私は、聞きたいことがあり、声を掛けたいが、かけられない。ようやく出た声も小さくて届いていない。(もしくは聞こえないふりをされている。)ますます怖気づいて声が出なくなる。何度も呼ぶがこっちをみてはもらえない。そして近くにいた人間(今の職場のひとだった)が見兼ねて、先生を呼んでくれる。そしてようやく先生がわたしを向く。読んでくれた人間が、先生にこういった。「様子をみて察してくださいよ」咄嗟に私は「そういうのはいい。」と言った。先生は「そういうのはいいんだって。」と言った」

という所で完全に意識が戻り、ふつふつと哀しみが湧き出てきた。

そもそも夢って、現状の自分の声、無意識もしくは気付かないようにしている部分の何かしらの訴えだと思っているところがあるので私からのサインはなんなんだろうと考える。

たくさんみつけた。

 

・扉を開けた瞬間にあっとなったのは、その場の真剣な空気。

自分には入り込めないような気迫、自分にはない熱量。

 

・人が話している所や、その人たちの作り上げている空気を割って入るのは苦手。

自分が苦手な部分。胸の辺りがもやもやする。

 

・自分の存在に気付いているはずで声も聞こえているはずなのにこっちを見てもらえない。

ただ、意地悪をされているような悲しさ。こっちを見るに値しない自分のふがいなさ.

 

・人の声は一発で届き、自分の自信のなさからくる声の小ささ

人の力を借りなければこんなことができない。簡単なことなのになんでできないんだろう。

 

・更には同情されて察してあげてなんてことを言われる。

自分の力不足なのにそんなことを言われるのは恥ずかしいという気持ち

 

・先生の「そういうのはいいんだって」

切り離されたというか、受け入れてもらえない、認められてないという気持ち。

 

 

根本にあるのは、「誰かに見てもらいたい」のかもしれない。

我ながら子供みたいだなぁって思う。見てもらったらそれはそれで多分鬱陶しく感じるのに。

今、みんな表面的なやりとりしかできていない気がしている。

 

もし、私も頑張っているのに…って思っているならそんなもの恥ずべきことだと思う。

何のために頑張っているの?褒められるためではないでしょう?

手にかけてもらえないのは、それに値する人間じゃないから。力不足、熱意不足だから。と思っている。そして、さまざまな面で周りの人と比べては劣等感を抱いているのかも。割と人と話すことも多く、情報も取り入れているから。

そして、今の仕事の仕方じゃきっと限界がくる。身内の為に仕事をしているから。人に届くように仕事をしたいのに、どうもそういかないジレンマ。どっちが本当の私?

自分がしていることがどうもうまくいっていないというか、スルーされている、素通り、あるけどない、誰にも何も届いていない気がして虚しいのかも。誰かから助言というか、人から見た自分をしりたいのかも。

 

「自分の生きがいは他人を巻き込まずに自分自身で得る」

 

この言葉に出会って、そうあれたらと思うけど、まだまだ。

 

多分、これを書くのも、私はここにいるよっていう小さな叫び。

勝手にお返事 ~交換日記⑤~

毎週火曜日更新の「サクちゃん蘭ちゃんのそもそも交換日記」

 

 

cakes.mu

 

 


今回は蘭ちゃんの回。
サクちゃんが出演した「セブンルール」という番組に因んで蘭ちゃんのセブンルールが書かれている。
そのうちの4つぐらいは仕事に関してのものだった。

 

私のセブンルールはなんだろう。

 

①物を増やさない。身に着けたり使用していて心地よくないものは即捨てる。

 ・部屋がごちゃごちゃして意識が分散してしまい、落ち着かない。

 ・移住するときは物が少ない方がいいから。

 ・勿体ないからといって使って嫌な気持ちを積んでいかないように。

 

②靴は紐を解いて踵を合わせて結んで履く、汚れたらその日のうちに拭き取る

 ・単純に健康面でこの方が歩きやすい。靴をちゃんと履いている感じがする。

 ・スニーカーが好きで、大事にしたい。

 

③体がどんな調子か、どう反応しているか耳を傾ける(強張り、呼吸、しんどさ)

 ・この体の声をきくことが、居心地の良さや気持ちに気付くことに繋がる気がする。

 ・直感的な判断の目安にもなる気がする。

 ・まずは身体を良い状態に保つことを何よりも優先。(プラスでなくてもせめて0に戻しておく。マイナスのままにはしておかない)

 

④毎晩ストレッチや深呼吸をして体を緩める

 ・③と繋がるけど、体の不調をできるだけ自分で取り除いていきたい。

 ・自分の身体は自分がつくると思っている

 

⑤予定を詰め込みすぎない

 ・③④あたりと繋がるけど、詰め込みすぎていたら、体がしんどくなるので。

 ・予定が連日続いたら、何もしない日や思い付きで行動する日をつくる。1人でただただひたすら歩いたり、静かな自然に身を置く時間を作る。
 ・歩いている時が一番リフレッシュしたり、体が軽い。頭の中も整理できる。

 

⑥行きたい場所、見ていたい人、会いたい人、興味を持ったものに対しては先延ばしせずに行動。できるだけ直に触れる機会を持つ。

 ・新しい発見や出会いが好き。人が好き。

 ・自分で見たり直接感じ取ったものを信じる。

 ・自分が心から良いと思ったひとやものとの直接的な繋がりを大事にする。 

 

⑦本、カフェ、新たなものに取り組むためのお金は惜しまない。

 ・カフェは私の好きな場で大切な時間。

 ・本や新たなものに取り組むためは、自己投資。買って満足してしまい、ろくに使わない物や読まない本もあって、「それほど興味なかったのか」とか「それ以上にしたいことが今あるんだ」とか「今の私には使いこなせない」とかそれもまた新たな発見で面白いので無駄遣いとは思わない。

 

 

というような感じ。似たり寄ったりだったり、具体的じゃなかったりする。

しかも全部うまくやれてるかと言えばあやしいし、前提でどれも頑張りすぎないが私にはある気がする。

そして、現状は仕事と生活がくっきり分かれているんだとも分かる。

私のルールとは、全体的に自分が心地よく生きていくためものだった。

 

蘭ちゃんはいくつかのルールが「キャパシティが狭い私への対策」と書いていた。

私もそれに当てはまり、キャパシティが狭い。(ということにようやくここ数年で気付いた。)それに気づかせてくれたのは今の職場の上司かもしれない。

人から見ると、広範囲で色んなことを器用にこなすタイプらしいけど、それがある一定のところ(自分のキャパ)を超えると、全部が雑になってくる。それは外から見て分かること。

そうなんだと認識してから内側を探ってみると、確かにキャパ以上のものをタスクがあるときは、頭が整理されていなくて、あっちいったりこっちいったりして全部に手を付けているけど進んでいない感じがして不快。

元々は何事にも「量より質」でいたいタイプなのに、量を求められると質まで行き届かなくて、大事にしている部分を大事にできなくて不快。

気持ちばかりが焦ってしまい、その気持ちとは裏腹に実際の物事の進み具合が遅く、ますます気持ちばかりが焦ってくる。

そしてそれは身体にもあらわれて、過緊張、浅い呼吸。ますますパフォーマンスは下がる。

ということに気付いた。

それからは「抱えすぎない=(がんばりすぎない)」と自分で調節するようにして、そのような状態になりつつある時に気付けるようになってきたので、気付いたときは、ちょっと待ってこのまましても大丈夫?と問いかけるようにしている。

 

自分のキャパを知るというのは大切なんだとつくづく思い知らされた。

それは人とは絶対に違うということも言い聞かせている。

すると人のキャパも大切にできる。

できないことを責めない。できることは素直に凄いと思うし感謝する。誰もが日によって体調が違うことも理解して、自分が余裕があれば人の助けを買って出る。ようになった。

 

それを踏まえると、生活の中で自分のしたいことが生まれたとき、今の生活にそれを足すだけではよくないなとようやく分かった。どんどん息を詰まらせてしまうから。

何かを足すなら何かを引かなきゃ。あれもこれは無理。

時間には限りがあり、その中で身体の良い状態を保ったままできることは限られているから。優先順位をつけて、その時その時に順位の高いものからこつこつしていくしか方法はないなぁと思っている。

 

 

今回の交換日記を読んで自分のルールを改めて考えると、大事にしているもの、自分がどう在りたいと思っているのかわかるなぁと思う。

多分これは更新されていくものなので、その都度確認するのも良いと思った。

 

皆さんはどうでしょうか?7つじゃなくとも、自分ルール確認したことありますか?

 

交換日記 ~勝手にお返事④~

サクちゃんは、自分はどうしてやりたいことがないのかを考えたときに、周りの目に付く人にどうしてその仕事をしているのかを聞いていったとある。

そこで、

「外からの要素が大きくて、それを「自分のものだ」と思い込んで掴むことができるかどうかなのかもしれないな、と思うようになりました。」

と。

その思い込んで掴むことができるのも、とくにサクちゃんがいう「素直さ」

自分を調子に乗らせるには素直に他人の言葉を受けとることも大事なんだな。

私はいつからか、自分よりできる人はたくさんいる。同じことをしても意味がない。と思うようになった。 

 今では、近くにいる人の肯定的な言葉が、自信がない私を知っていてそう言葉をかけてくれているんだな。あるいは、その人にとって都合の良い人間だから傍に置ておくための方便なんて思うようになってしまった。

なので逆に、自分を全く知らない初対面の人に、「こんなことできるんですね!凄い!」「あなたはこういうことが強みなんですね。」と言われた方が素直に喜べる私は相当こじらせている。

 


そんな私だけど、なんだかんだ自分大好き人間なのだと思う。

「自分がどんな人間なのか知りたい、理解したい」

いつも、もう1人の自分が自分を見てる。


最近思うのが、「自分は子供心を忘れていない」ということ。

黙っていれば、凄く大人しそうできっちりしてて取っつきにくいイメージを醸し出していると思う。

けど、本当は喋るの好きだし、結構怠け者だし、甘えたい。よく笑うし、楽しい冗談も好きだし、バカなことをするのも好き。ちょっと卑屈で批判っぽいけれども。


それが、出せる場や人を大事にしなきゃなぁと思う。

だけどきっと、それは選らばなきゃいけない。場も人も。じゃない生きにくい。

そのバランスがまだちょっととれてないなぁと自分で分かる。

どこでも、本当の自分でいたくて、でもそれじゃダメだとわかってて、でも納得できなくて…

あっ、ここはこんなに自分を出したらダメだった。とあとで気付いて自己嫌悪することが最近多い。


昔そうして「最近調子に乗ってる」って言われた過去がまだ私の中に残っているんだな。それに囚われているんだ、まだ。

「変な人」って思われたくないんだ。

でも「変な人」上等なはず。

それなら、分かってくれる、さらけ出せる場だと思っていたところが実は違ったんだというショックの方が大きい。

近付いて、遠ざけられるショックが大きいから調節してる。(時、既に遅しかもだけど。)


ある人に、「良くも悪くも子供っぽいんでしょうね」

と言われた。肝心なところでは子供っぽくなれないし、悪くもは余計だなと思ったけど聞き流しておいた。



「ふわっとしてる」というのも昔から今日まで何度も言われてきた。

昔はそれが特に嫌じゃなかった。

けど最近は、それって軸がない、明確な何かがないってこと。もっもきっちりしなさいの遠回しなのかなぁと落ち込む。

いや、でも軸はあるんだよなぁ。

自分自身の責任の軸。自分のなかのルールみたいな軸はかなりはっきりとしていると思うし、よく人に言われる。

『楽観的に陽気にみえて芯は強い』

じゃぁ何にたいしてふわっとしているのか。そこがいまいち私のなかで繋がらない。

「自分以外の物事」に対して?

「自分のものに出来ていない物事」に対して?

ただ、自分のなかでは明確だけど言葉にできないそれがそう見せるだけなのか。

陽気なのは予防線?なんなんだろ。

芯というものをふわっとしたなにかが覆っているのだろうか。それでバランスを取れた気になっているのか。

あるいは、自分の中心に触れることを恐れてアンテナを狭めているのか。



みなさんは、本当の自分はこれだ!と胸を張って言えますか?

そしてその自分をさらけ出せる場や人ってどれくらいもっていますか?



なーんてことを考えてしまった。

バランスって本当に難しいなぁ。と思う。何かにつけてバランス、バランス…

じゃぁ、誰がここがちょうど良い位置ですよと決めるのだろうか。

隣人が引っ越した

ある朝、隣の部屋から大きな音が響く。

隣人がDIYをしているのかと思っていた。

出かけるからと、その部屋の前を通ると業者が入っていた。

 

あ、空き室になったんだ。

 

数日前までは普通に隣人が帰ってきた音を聞いていたりしていた。

いつの間に?ってなんだか空虚感に襲われた。

引っ越してきた時に一度挨拶にきてくれただけで親しくしていたわけでもなく、正直言えば全く、全く関係のないことなのに。

 

なんでこんな気持ちになるんだろう…

 

1つは、一種の仲間意識?

私は安い6部屋しかない賃貸に住んでいる。

だから、交流はなくとも住民の顔はどの部屋の人も分かる。

つまり、一つの家として捉えていたのかもしれない。そこに薄い壁で区切られた部屋に人1人ずついるだけ。

あ、今どこの部屋の人出ていったな、帰ってきたな。気持ち悪いけどそんなことを感じていてそれでちょっとだけ人の存在を感じていたのかもしれない。

 

 

1つは、置いて行かれた感、私だけ止まっている感。

今までも、上の学年の卒業式だったり、家族が引っ越したり、人が退職したりするときに同じことを感じている。

私よりあとに越してきて、去っていったから尚更なんだと思う。

あの人は新しい環境や生活に向かったんだな。次に進んでいるんだな。じゃぁ、私は?このままでいいの?ここで止まっていていいの?私も動かなきゃいけないんじゃないの?と感化される。

そんな気持ちとは逆で、大きな動きは特に起こさなくて、ジレンマが生まれる。

私はどうしたいのか。どこに向かいたいのか。何がしたいのか。すこしの焦り。

 

 

1つは、当たり前だと思っていた日常はあっけなく消えるという感覚。

これも、毎朝駅のホームや電車の中には同じ時間に大体同じメンバーがいて、ある日突然いつもいた人が居なかった。

みたいなことでよく体験している。話したことも何にも知らないけれど、毎朝繰り返し顔を見ているだけで勝手に親近感を抱いている。

そういう時と同じ感覚を抱く。

 

ということなんだろうな。

 

「平凡で、ありふれていて、変哲もない14の窓の一つ一つの向こうにある日々は、誰にとっても、おそらくその部屋をでてゆくまでの暮らしであるにすぎないだろう。

部屋を借りているのだが、ほんとうは部屋を借りているのではない。部屋を借りる仕方で、借りているのは自分の人生だ。長距離の寝台列車のような、途中の暮らしだ。

とりあえずの時間。

とりあえず1日が終わる。とりあえず朝になる。とりあえず雨の日がある。」

(長田 弘)

 

カーテンがなくなったがらんどうの部屋を見上げる。

変化

部屋からは広い、広い空が見える。

外に目を向けるたび、雲に覆われていたり、青空だったり。

コロコロ変わるなぁ。という朝だった。

なんだか私みたい。

 

6月に入った。

皆さん、どんな変化がありましたか?

ここ数か月、そしてこれからも、私たちは自分から望んだわけじゃなく、自分から働きかけたわけじゃない変化で混沌とした日々を送っているのではないでしょうか。

自分ではどうしようもなくて、私は止まっていて、世間がせわしなく動いている様子。色んな人がどんどん先に行ってしまう。それをみて、なに?何が起こっているの?みんなどこへ行くの?と置いていかないでと少し思うけど、私は動かないのではなく暫く動けない。フリーズだ。

そもそも、周りの変化には気付いているけど、受け入れ準備が整うまでは見ないふりをしているのかも。影響されやすいから、自分を守るために。

さすがにそろそろ無視できないな、ちょっと様子をみてみようとなる。

そこでようやく、動いていく周りを突っ立って眺めてこんなことになっていたのか。と気付く。そこで初めて自分が介入すべきか、ある程度距離をとるか判断をする。

と私はいつも遅れをとり、かつ足並みはそろえられない。

何事にも距離をはかって生きているんだなぁ。自分を守るために。

最先端に舵を取って進んでいこうとする人は凄いなぁと思う。私はどうやらやっぱり未知の世界に予測なしで動いていくというのが苦手らしい。

ある程度予測したり、周りの結果をみて自分だったらどうかな・・と考えて動いてしまうみたい。

先見の明といえば聞こえはいいのだが、そんな良いものではない。それが本当にそうなるのかは誰にも分からない訳で、それが足止めになることも多い。

 

予測していなかった流れてしまった時間の上に立っている今。

皆さん、どんな変化がありましたか?何を感じていますか?

1人1人全く違う変化なんだろうなぁ。と思う。

私は私のそれがあり、それだけでいっぱいいっぱい。到底一言では片付けられなくて話すにはたくさんの時間を要する。

少しだけ、いろんな人のそれを聞いてみたいなぁと思った話。