ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

「わたしはあなたでできているよ」

「 毎年届くりんご
食べきれないほどの野菜お米
昔好きだった お菓子ジュース
真似して書いたあなたの文字
心配かけてごめん
読みきれないほどの涙溢れ
信じてほしい 信じてほしい
私はあなたでできているよ」

私の好きなヒグチアイさんの わたしのしあわせのこの部分、すごく脳裏に情景が浮かび情緒を揺さぶる 。

「毎年届くりんご食べきれないほどの野菜お米」
故郷を思わせるりんごの姿。 それを見て 景色や、畑仕事をしているあなたの姿が思い浮かんでいる様子。 今年もできたからわたしに届けてやろうというあなたの想い。こんなに食べきれないよという嬉し困り顔のわたしが想像つく。

「昔好きだったお菓子ジュース」
なんとも切ない思いがこみ上げてくる。 共に過ごした時間の日々だけで、私 の情報が止まっている。ということが想像できる。昔、好きだったと過去形なのは、今はもう何年も違う場所での生活で、今の私の好みは把握できていない。 別々の 世界で生きていると分かる。わたしからは、今はもう食べないんだよ。でもそれをわざわざ言うほどでもないし、言うこともすこし躊躇してしまう様子がうかがえる。


「 真似して書いたあなたの文字」
子供の頃の私が想像できる。 昔と変わらない今のあなたの字を懐かしく慈しむ姿。

「心配かけてごめん」
あなたと一緒に過ごせない自分の後悔や心配。

「信じてほしい信じてほしい私はあなたでできているよ」
あなたの想いは十分に伝わっているよ。私は変わってないよ。 あなたがあって今の私があるんだよ。 という想いが想像できる。

「 私はあなたでできているよ」
もう一度、凄い表現だなぁと思う。
普段は、目まぐるしい日々で意識の元にはないけれど、こうしてふと、私の気持ちの部分で戻る場所、大事なものを再確認している。
2人の関係性がとても良いものだったと想像できる。



胸が揺れ動く。
というか、これは実はところどころ私が感じていることなのかもしれない。


youtu.be

バズったところで

「バスる」

インターネット 上で 口コミ などを 通じて 一躍 話題 となるさま、 各種 メディア や一 般 消費者 の 話題 を 席巻 するさまを指す語である。 

 

 

一時、かなり出回っていたワード。

 

 

私は「食」に携わる仕事をしている。

食べてくれる人がいなければ成立しない商売。

粛々と日々同じルーティーンの作業をしつつ、その中で、環境での変化、感覚、よりよく追及して、よりよいものを生み出していく。

包装、品出し、見せ方、ポップ、値札、接客…様々なところに想いがあって人の手に渡る。

そこで背景や実際のモノを気に入ってくれた方が買い手となり、リピートにもつながる。

 

 

最近はインフルエンサーがお店や商品をYouTubeで紹介をして突然、注目を浴び、大量注文が押し寄せることがある。

 

今や、お店の意図するものではなくて、買い手や外側の動きによってお店が動いていく。思いがけない波。かき乱される。

このご時世にありがたいことなのか。売れるときに売る。チャンスは逃してはいけない。

 

でも、その取って付けたような顧客で残るのはどれくらいいるのだろうか。

そのインフルエンサーには自ら発信したモノに対して愛があるのか。

長年愛用しているとか、ずっと通っているお店、気に入ったから今後使いたいもの。というように

買い手も、知るきっかけ、好きになるというきっかけになるなら素敵なことだけど。

影響力がある人は、形だけで人を動かすことができる。その形を身に付けているということは凄いとは思う。

 

でも私は、やっぱりその辺にはさほど興味がなく、気に入っているから足を運んでくれる人、遠くからネットを通じてでも何度も購入してくれる方が嬉しい。

心のある発信が嬉しい。

 

とりあえず私は、いいモノ、背景、空間を作るため目の前のできることに粛々と取り組んでいくしかないなと思う。

 

 

コミュニケーションの放棄。

コンビニで2通りの店員さんがいる。

 

1つは「スプーンはご入用ですか?」と確認してくる店員さん。

1つは何も聞かずスプーンとたまにお絞りも差し出してくれる店員さん。

 

これは、どちらがいいのだろう。

わたしは、前者が親切だと思う。

後者は、親切心はみえるが、コミュニケーションを放棄しているとも見える。

もしかしたらお客はスプーンは要らないかもしれない。

そのとき、「スプーンいらないです」といえば言いのだが、差し出されるなら貰っておこうという人が多いかもしれない。

これもまたコミュニケーションの放棄だと思う。悪循環。

元々コミュニケーションに長けているひとは、言えるのだとは思うけど。

 

ということを最近よく考える。

 

それは普段の生活でも言える。

いちいち言うのは面倒だ。とか、察してよ。とか。あるけれども。

人のことは分からない。

仕事上、大体の流れがあって、この人が今これをしているから私はこれをして、次はあれをして、というのを頭で考えてする。しなければならない。

次はこれを使うからこれを準備しておこう。きっとこれは次あの人が使うから出しておこう。

そのときに、全部全部無言でするのは、意思疎通ができているともいえるかもしれないけど、少し違うなと思う。

阿吽の呼吸ともいうけれども、もしかして、その人、それはいらなかったかもしれない。別のことをしようと思っていたけど、それを出してくれているから、先にそっちをしようとペースを乱しているのかもしれない。

お互い言わないと、分からない。スムーズなようで精神上に滞りが生まれる。

いちいち、「次これしますか?」「これだしときますね」というのは、慣れない新人みたいで鬱陶しいかもしれないけど、そうやりとりが手軽にできるのも大事だ。

 

 

元々、察してよ。言わなくても分かるでしょという私だった。

今は反省。分かるわけない。

コミュニケーションは放棄してはならない。

一人暮らしのすすめ

以前、数人と話している時のこと。
実家暮らしの子に対して、「一人暮らしは一回はした方がいいよね」と話題になった。
咄嗟に「うん」と言った。その時は深く考えておらず、心の中で、 一通りこことは自分でするようになるし、一人は気楽で生活スタイルも自分の思うようにできるし、人はどうせ一人だし。 とか思っていたけれども…
今日ふと自分の中で納得がいくものが浮かんできた。

それは、
『一人暮らしは 自分の価値観を 自分の意思で作りやすい』
ということ。

私は早いうちから家を出たので、成人してから も実家にいるということが、どれだけ家族との関わりがあって、どれだけ生活サイクルが合うのかがよくわからない。
もうお互いに干渉しないものなのだろうか。家庭によっても違うとは思う。
そうだとしても昔からずっと その家の価値観 に囲まれているということは少し危ないと思う。

生まれてから家族の価値観や生活様式で育ってきた私たちは、外での人との関わりによって初めて自分の今までとは違う価値観に触れることができる 。
外で触れたものを家に持ち帰って「あっこれって違うなぁ」と気付くことができる。
どっちがどうなんだろうと考えることができる。

はずなのだけれども、小さい頃からずっと取り囲まれてきたということは、その家での生活様式、思考、立ち振舞い、流れ、が染み付いていることがほとんど。
更には、当たり前になっていて客観的に見ることができず、既に自分と一体化していたりする。
なので人の価値観に触れても、(なんでこうじゃないんだろう。)(なんでこうできないんだろう。)と違うことが当たり前じゃなくて、一緒じゃないことに不信感や苛立ちを感じてしまう。

せっかく違う価値観に触れたのに、家に帰るとまたがんじがらめ。
それを塗り替える、取り入れる又は私はやっぱり違うという判断をするということ自体に気付かない気がする。

というのも、私は今やっと幼い頃の価値観や刷り込みが薄れてきたように感じるから。
それは個人差があって、私だからようやくかもしれない。 長かった。しかもまだ確実ではない。
そんな私が外で触れたものを家に持ち帰り、いつもの価値観で過ごすとかなり戸惑ったのではないかと予想する。
どっちが正しい訳でもないけど、家でのことが当たり前だったのでもしかしてほかの方法があるのかも?ということにさえ気付けなかったかもしれない。

外で触れたものを家で1人ゆっくりと、何の邪魔も入らない自分だけの空間や空っぽな心で、それは自分にとってどうか というのを考えて取り入れる取り入れない という選択ができるのではないか 。
そうやって初めて、自分のものが形成され確立していくのではないかと思う。
特別、実家暮らしだからできないとは言わないけれども、何かと葛藤やしがらみ、偏りが出てきてしまうのではないかと感じる。


特に私は、がっちがちに凝り固まっていたので、一人暮らしを早くからしていて良かったと思う。
むしろそういうものが、全てとは言わないけど、窮屈だったのかもしれない。もう真相はわからないけど。

今ならそういう意味で、一人暮らしをすすめることができると思う。

外見も大事ということ

やっぱり外見も大事だなぁと思ったということ。

外見、というのは生まれながらにもっているもの。
+
服装、髪型、アクセサリー、女性だったら化粧…といった身だしなみ



初めていくひっそりとしたカフェ。
最近こそは、マスクをしていてお店の初めましては顔がはっきり分からないのが少し残念だなぁと思うのだが。

それでも、私と同じくらいの年代かな?という今時な感じで物腰の柔らかい男性が1人でお店をしていた。

私はインスタを見て行ったので、女性1人がしている勝手なイメージがあった。
男性だったことに勝手に驚いたのと、同じ年代くらいで1人でお店をやっているって凄いなぁと瞬時に思った。

私と入れ替りの1組と、マダムくらいのお客さんが1組。
私はカウンターに。
狭い空間を共にするので他のお客さんとのやり取りが聞こえる。
何といったらいいのか、マダムにモテモテだった。
なるほど~。
これはきっと、この外見だからってのも1つなんだろうな。
息子くらいの年代だとそういう風に持っていきやすいよね。逆に同年代の方がそうはなりにくい。
逆にここの店主がもう少し歳が行っていて丸刈りのいかつい感じだったら、みんな、積極的には話さないかもなぁ。

この方は、話し方も謙虚で物腰の柔らかい感じで人を引き付けやすいし。

と、勝手に考える。

今まで行ってきたカフェの人柄と距離感が次々と、でもなんとなく頭に巡ってくる。
そうなるべくしてなっているのかもしれないし、自分のキャラを分かっているのかもしれないし、こういうスタンスでやっていきたいと思ってのことかもしれないし。

ビジネスとして、使えるものは使うのも当然のことかもしれない。と思った。
顔立ちではなく、身だしなみ、清潔感、相手に与える印象は人と関わっていくのには大切なこと。
商売として、それで多少なにかしら影響はあるよね。


たまに私はなんで化粧をしなきゃいけないのか。そんなのせずに街を歩ければいいのに。面倒くさい。
って思うけど、そうなら、すっぴん美人を目指さなきゃ。世の男性は私より素肌綺麗な気がする。

話がそれましたが…
なんだかんだいっても、お店やビジネスをする人ほど外見は大事なのかなと思った。

ありのままの自分でいたいって思っても、最低限はやっておくことが必要なんだよね。

チョコクロワッサン

占いで有名な、しいたけさんのコラムに、

「別に何のオチもない話や、心の中に静かに安置されている思い出を「そういえばさ」と言ってボソボソ話される会話は個人的にすごく好きです。」

という文があった。
特に私に言っている訳じゃないけど、
これを見て、(心の中に静かに安置されている思い出がちょうど今日呼び起こされたなぁ、聞いてほしいなぁ)と思ったので、なぜだかここに書いてみる。
その時は最後まで話しきれなかった。



チョコクロワッサン」の話。

今日、チョコクロワッサン を見て 私はある懐かしい記憶が呼び起こされた。
仕事仲間に、「 昔サンマルクチョコクロワッサンに 一時期ハマっていたんだよね。」
と発した。
その話はオチがあるわけではなく、ただの思い出にすぎず、それ以降話すことはやめてしまった。
私は、サンマルクチョコクロワッサンにはまっていたことを伝えたかった訳じゃなくて、後に書く記憶をただただなぞりたかったのだと、でも上手く話せる気もしなかったんだと、口をつぐんだ後に気付いた。

この話の続き…
サンマルクチョコクロワッサンを初めて食べたのは、私が中学生の時。
私の住むまちは 、チェーン店のカフェはない。
サンマルクミスドマクドナルドも スターバックスドトールタリーズも 何もない。
田、畑、山に囲まれたまちだ。
そんなある日のこと、 今は亡き祖父が親戚の法事で市内に出かけていた。
私が学校から帰ってくると お土産と箱を渡された。

「弟が、孫がこれが好きでよく食べるっていったから◯◯(私)にも食べさせてやろうと思って」

そんなニュアンスの言葉を、私が直接言われたのではなく、居間で大人たちの談笑の中での会話を耳にしたのだったと思う。
それがサンマルクチョコクロワッサン。
5個も入っていた。
その頃、私の姉は家から出て一人暮らしをしていたので、 私のためだけに買ってきてくれたんだと嬉しく思った 。祖父がそれを買ってきてくれたこと。

温めて食べた。
こんなに美味しい食べ物が都会にはあるんだと思った。

普段、ちょっと出掛けたからといって、何かを買ってきてくれることはなかったので、どういう成り行きや気持ちからだったのか物語を想像した。
聞くことはなかった。
貰ったときに「ありがとう」とはいったものの、これだけ美味しさに感動したこと、嬉しかったことも言葉にして伝えることはなかった。

その時はそれがサンマルクのものだとも知らなかった。

それがもう少し時が経って私が市内に行って歩いているときに、(あっ!これは……あのときおじいちゃんが買ってきてくれたやつだ。ここのだったんだ。)と記憶と目に映った物がカチッと合わさり知ったのだ。
これは買わずにはいられない。
とそれ以降、私は少しの期間はまっていたのだ。
きっとその頃は、私にとっていつでも手に入るわけではない貴重な物という認識と、祖父の気持ちの嬉しさとセットでの美味しさだったんだろうなぁと思う。

今となれば、どういうお店かも分かっているし 、買いに行こうと思えば直ぐに行ける。
そこのチョコクロワッサン があの時みたいに格別に美味しく感じることもないのだけれども。



なにがどうして何年も静かにちゃんと自分の中にあるのかという思い出が、ある物が引き金になって思い起こされることが最近多くある。

そのうちの1 つのお話でした~。

自分に気付く心理学 / 加藤諦三

 

「自分に気付く心理学」 加藤諦三 

を読んだ。

 

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この本は

 

神経症的な人は甘えの欲求や愛情欲求の自覚をしなさい

うまくいかない人付き合いや不安や苛立ち無気力根本的には、この甘えの抑圧や愛情の飢えから来ている。

まずは自分に気付くこと。それは同時に周期に気付くことでもある。」

 

ということが書かれている。

 

一冊かけて、「自分の思うようにいかないと不機嫌になる父親」「自己評価が低い人」「依存性の強い人」「共生関係にある人」「他人の目が気になる人」「子を思い通りにしたい母親」…まだまだ様々な例をあげては、甘えや愛情の飢えからくる言動と説明がつらつらと書かれている。

 

幼いころにきちんと甘えられて愛情も

受けてきた人は精神も成長している。

その欲求が満たされずに年齢を重ねてしまった人は、体こそ成長したものの中身が3歳児のままだったり6歳児のままだったりする。

そのような人は大人になって、3歳児のようにふるまう事ができないことは分かっているから、抑圧して、甘えを正当化や合理化しようとして恩着せがましい言動や不機嫌な態度になる。

なので前者は容易にというか考えなくてもできた成長も、後者にとってかなり困難なこととなる。

 

自分の抑圧は他人に投影されている。

後者は、自分の抑圧したものを他者に見て苛立ち、不信感を感じる。

 

 

 とある。

 

内容としては、今まで読んできた同じ系統の本と重なる部分も多かった。

とくに「ラポールと身体知」も「自分に気付くこと」や「自分の中にある感情を他人をみて感じている」ということは強く書かれていた。

 

ymcvsss.hatenablog.com

 

 

ymcvsss.hatenablog.com

 

 

 

 

あとがきに「これを読んで、自分の何が満たされていなかったかに気付いてくれればそれで十分である」とあるように、本当にそれに気付かせるためだけの本に思う。

著者も相当自分を変えるのに苦労をしたと書いているものの、具体的にこんなことを意識したということは微塵も書いていない。

「気付く」ということがどれほどに重要なことか。

一冊かけて書かれていることからわかる。私の数少ない経験からも。

「とにかくそれに気づくこと。変わりたければ自分で考えて実践していきなさい。気付いた時点でスタートは切ったのだから。」

と言われているような本。

 

ーーーー

 

私も意識化できているものはなんとかしようと試しているけれど、まだまだ無意識に自分の中でパターン化している反応によってお決まりの流れがあるのだと思う。

幼少期の周りとの関わりの中でよく覚えていることは、確かにそれによって傷つき自分を隠し作ってきた出来事だ。

じゃあそれを今からどうすればいいのか。

仮に、甘えたいのに甘えられなかった。のなら、今からそれをどうやって満たせばいいのか。

そもそも、

「甘えられたいのに甘えられなかった?本当に?いやいや、甘えてたよ。それこそ自分に甘いでしょ。」

という自問自答が生まれる。この時点で、甘えられなかったと肯定することに罪悪感を持っている。何の罪悪感?それはきっと近い近い存在に。その人を悪だと決めることに恐れがある。

本には、「憎むべき人を憎まない人は、大切にすべき人に冷たくしているに違いない」

とあるが、これも感情と事実の切り離し。

 

なかなか気の遠くなることの繰り返し…

成長に終わりはありませんね。