ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

年末年始の風潮。いや、文化?

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お店はシャッターが閉まり、朝の通勤電車はガラガラ、テレビでは帰省ラッシュUターンラッシュの渋滞予測、交通公共機関の席の状況をやっている。
まちを歩く人々はなんだかそわそわしている。

私が意識しなくとも嫌でも年末年始感が感じられる。



そこで気になるのが、年末年始の過ごし方。みんなはどんな過ごし方をするのだろうか。
ニュースでは海外で過ごす人をインタビューしているのを毎年していて、へぇ~そういう人も居るのか。と他人事のように眺めている。
1人暮らしの人は実家に帰るというのが多いのだろうか。

私は、2日間の連休のみなので何をしようかと考えた。
実家に帰るのはわざわざこの帰省ラッシュにまみれて帰る必要はないなぁと。
とんぼ返りするはめになるし、そもそも年末年始だからと帰っても結局家では忙しないだけだ。
親戚が来るから料理の準備、片付け…
疲れに帰るようなもの。
年越しも家族で改まってするようなわけではなく、みんな無言で各々テレビを見ながら「明けたね。」という感じ。初詣に行くという行事も特にない。
年末年始だからといって特別な過ごし方をするわけでもないのでそれならいつ帰っても良いだろうという思い。
1つ思い出すのは、年末に亡き祖父とトランプを繰り返ししていたなぁという思い出。小学生の頃だったかな。
いつもは畑仕事に朝早くから夜まで出ていた祖父。
唯一、年末年始は家に居てミカンが置いてあるこたつで時折姉も混じって、ババ抜きかじじ抜きか神経衰弱かその辺を繰り返ししていたような。テレビは紅白がついていたような。
何故だかふと思い出した。温かい思い出だ。


何故だか実家は「いつでも帰れる。無くならない。」と思ってしまう。わからないのに。
家族が倒れるかもしれない、自分の身に何か起こるかもしれない。あるときふと形が変わってしまうのはきっと防げないだろう。
だから多分帰れるときに帰っていた方が良いのだとは思う。帰る場所があるうちに。
なのに年末年始に帰らない私は親不孝なのだろうか。

まぁまたそのうち連休があれば帰るとしよう。
そのうちっていつ?となるけれども
わざわざ人混みの中帰らなくても良いだろうと言う私の考え。



そしてもう1つ、挨拶。
年末には「1年間お世話になりました。来年もよろしくお願いします。」
年始には「明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。」
これは少し煩わしく感じるときもあるが、やはりこの挨拶って気持ちが良い。
毎年同じことを思っている。

職場で言うことが多いのだが、その挨拶のときに初めてちゃんと見つめ合う感覚なのだ。
今日仕事納めみたいなもので実際にそういうやり取りをいくらかした。
このブログでもいくらか綴ってきたように、短期の派遣で私以外は前々から働かれている方ばかりで、仕事は私だけが分からない、もちろん休憩中に話すような人はいない。なんだか凄く孤独を職場で感じている。今はまだましだけど始めはみんな敵みたいに思えた。
そこでそんなやり取りをする。
正直せずに帰ろうかとも思った。1ヵ月しか過ごしてない派遣の分際だし、あと1ヶ月で辞めるし、きっとしようがすまいが皆にとってはどうでも良いんじゃないかと勝手に思ったから。しかも私もそういう挨拶されてないし。
でも人としてちゃんとしたいというか、そういう習慣で育ってきたからこのまま帰ったらもやもやするので、それが嫌で1人1人に回っていった。
そしたら皆、普通に話してくれる。
そんなに会話という会話をした訳じゃないけど、ちゃんと接してくれる。
あぁ、勝手にイメージをつけて距離を開けてたのは、壁を作ってたのは自分だったかなと思った。
初めてちゃんと見つめ合った。会話をした。(ような気がした。)
その時に、唯一私にも挨拶をしに来てくれて、私に対しての言葉を言ってくれた方がいた。
見てくれてる人もいるんだなぁと嬉しかった。(というか見られているとでも言うべきか)
単純といえば単純であと1ヵ月も今までと変わらずだと思うけど、この挨拶のお陰で1年の仕事を気持ちよく終われたような気がした。

終わりよければすべて良し。本当にその通りで記憶の美化は凄いや。



年末年始、自分には関係無いような気もしてたけど、こういう風潮?文化で意思とは関係なく巻き込まれていく。
それもまぁ悪くないかなと思うのでした。