ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

この時代に人と直接会う意味はあるのか?

と言うのを見かけた。

https://twitter.com/Miyamo_H/status/953094617636974592

今の時代SNSを見ていれば大体その人の考えていることが分かるから直接会ってもやっぱりこの人はそういう人だった。となる。結局はSNS上でその人の大部分が分かってしまう。それなのに直接会う必要はない。
ということらしい。

まぁ確かにSNSで繋がった人とわざわざ直接会おうとは相当のことがないと思わないよなぁと思う。




わざわざ時間を作ってまで会いたくなる良き友人を持つ

「この人とは刺激し合えそうだ!人間関係を作ってみたい!」と思える人がもし現れたら、思い切って相手にその想いをちゃんと伝えて、直接会ってみてもいいかもしれませんね。

とかいてある。

そうかぁ。
これは逆に自分は、
わざわざ時間を作ってまで会いたいと思われる人間なのか
この人とは刺激し合えそうだ!人間関係を作ってみたい!と思われるような人間であるのか。
こう問い掛けざるを得ない内容だ。
人間関係は一方通行の気持ちでは成り立たないものだから。
双方が尊敬しあって成り立つものだから。
人間関係についてよく考える。
今日会ってくれた人は、私といた時間を楽しく有意義に思ってくれただろうか。自分がそう思えていた時ほどにそれは考える。多分、人からみたら考えすぎだ。その時の何らかの要素で、私のことをちょっとどうかなと思われたならそれはそれで仕方ない。これ以上の何者にもなれないし今日その時のそれは紛れもない自分なのだから。一方的な気持ちでは人間関係は築けないことをしてっているので、ごめんなさいと言われるのなら(実際は言われない。人は態度で示す)あぁ、そうか。残念だけど仕方ない。とも思う。
どんな形であれ、人付き合いは「両想い」が原則ではないだろうか。


未だに私はネットでの繋がりは非現実的だと、若干思っている。
ライブによく行くのだが、その繋がりでSNSで仲良くしてる人と会場で会うことはある。
けれどやっぱりそれはそこだけの繋がりで、私自身が日々生活する上での人間関係とはならない。

SNSだってこのブログだってそのネット上での繋りでしかない。
逆に日常の繋がりは日常の繋りでしかない。
そこが混じらないように自分でしている。
趣味は趣味の顔。日常は日常の顔。仕事は仕事の顔。
全ての顔を知る人はいないだろう。
人によって話せることが違う。それは当たり前で悪いことでは無いのだとも思う。
でもそんなことしていると、何が自分かよく分からなくなってしまう。(本当はどれも自分のはずだ)

そして私は人と直接会うことが好きだ。うまく話せるかは別として。
確かにこの時代、ネット、SNS、LINE、テレビ電話…いくらでも方法はある。
けど、やっぱり会ってなんぼだと思う。
表情がある、声がある、アクションがある。生身の人間だ。
もちろん、人と会うにあたって、本当に自分から会いたいと思うか、心から楽しめることができるか、有意義な時間なのか、自分の時間を使ってまで会いたいと思うか、お金を出して(交通費や食事代)まで会いたいと思うか。という色々な判断基準がある。


私も誰かにとってのその判断基準を満たして必要とされたいのだろうなと思う。実際、今現在どうなのだろうか。誰かにとってそうある自信はあまりない。
けれどそうじゃないと人間関係はこれから先、築いていけない。
それだけ魅力的な人間になれればいいのだけれども…(こんなこと言っている間は程遠いきがする)