なんともない今日、思いもしないプレゼントをもらった。
貰ったものは物。
単純に嬉しかった。
物が貰えたことにではなくて(それも嬉しいは嬉しいのだが)、それよりもその行為がとても嬉しかった。
と、同時に素直にその行為を受け取ればいいのだが、「なんでこんなことをしてくれるのだろうか。何か裏があるのではないか。特別な日でもないし、私が特に相手に何かしてあげた覚え(与えている気)もない。無条件にこんな嬉しいことがあっていいのだろうか。」と、相手の気持ちを探ってしまう、疑ってしまう、行為の裏を考えてしまう自分もいる。その行為を信じるのが怖いのだ。なんて失礼な奴だろう。
きっとそれは私が「give&take」で生きているからそう思うのだろう。
与えたら与えられるべき。与えられたら返すべき。何かしら見返りを求めてしまっているのかもしれない。
でも考え方を変えると、純粋に、この人のこと応援したい。この人に喜んでもらいたい。感謝の気持ちを伝えたい。それを何かしらの形にして相手に渡すのだ。
そしてそれを貰ったら返したくなる。自分だけ貰ってばかりはいられない。
私も受けた恩は返したい。その人に対しても私に関わってくれる人に対しても。
それが巡り巡ってるだけだと思う。
それが物だったり時間だったり言葉だったりお金だったり…
形は様々。
そう考えると私も別に見返りなんか求めてなくて、単純にその人に喜んで欲しいから、その人の生き様や考えから十分に勝手に私が貰った分、私も何かお返しをしたいから、(だけど私には人そのものから自分が受けたように自身じゃ相手に何も渡せないから、)「物」を相手に贈ることが多いなぁと思う。
特に私は、物を貰うよりも、気持ち、知識、言葉、考え、生き様から何かしらを貰うことが多くて、それを貰ったときにこの返さなきゃという想いが生まれる。
しかも「貰ったから返さなきゃ!」はあっても、「与えたからなにか貰えるはず」という思いはほとんど自分には無いことにも気づいた。
そもそも、「何かを自分が与えた」という気になることがほぼない。自分という人間が何かを与えられるなんて到底無理だなんて思っているから。
だから私は、貰った・受け取った時は「物」(と辛うじて下手くそな言葉)を返すことが多いのだと思う。
たまに、立場的に、「物」を渡すことができない時もある。そんな時、私はその人に何かを返せているのだろうか。感謝は伝わっているのだろうか。と、とてももどかしく思う。伝える方法、返す方法が分からないから。
今日の出来事もまさにそのパターンで、「私なんかがあなたに到底何も渡せてないのに(というか今までだって貰ってばかりなのにそれなのにまだ何も返せてないのに)、更にまた貰っていいのだろうか、申し訳ない。」という気持ちだったのだと思う
だけどこれから何かしらの形で渡せたらいいと思う。もしくは、その人が私にそうしてくれたように、私も誰かにそうできたらと思う。
つい最近、立ち読みで見たホリエモンの本にこう書いてあったのをまたまた思い出す。
「人生はgive give give」
与える。なんて、自分が到底人に何かしら与えるなんてそんな大層なことは無理だと思っているけれども、それでもこの人にはこうしたい(と思ったときには多分すでに何かしら貰っているのだが)と思ったときや、貰ったからその分返したいと思ったときにその気持ちそのまんま行動に移せばいいよね。別に自分は見返りを求めていたわけじゃないからこのままの自分できっと大丈夫。
と、最終的によく分からない自己肯定に辿り着いた今日の出来事でした。