ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

行き場が無い

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いつも光っている橋が今日は光らない。と思ったらついさっき光だした。
どうしてだろう?誰かスイッチを押し忘れていたのだろうか。それともメンテナンスをしていたのだろうか。今日から光る時間が変わったのだろうか。
なぜ、いつものように光始めなかったのか知る術はは今のところ無い。

いつもの帰り道の道路に、クレヨンかなんかで線路が描かれていた。
こういうのってなんかいいよなぁと思った。誰がどんなことを想像してどんな気持ちで書いたのだろうか。きっと子供だよね。どんなわくわくをのせて描いたのだろうか。それも知る由もない。

この前会った友達がいつもと違う感じがした。
私が何かいけないことをしたのかな。気分が乗らなかっただけかな。ただの思い込みかな。それともほかにちゃんとした理由があったのかな。もう会えないなんてことはないよね。それを知る術はない。

乏しいながらの想像はできても、本当のことを知る術がないことが多い。
それを例え私が知らなくても良いことだとしても、知れないことに寂しさを感じる。もしくは切ない。



日常的に色々な思いが浮かんでは消え、浮かんでは消えが続いている。(消えるというか沈む。消えることはないか。)

それはもう、目まぐるしい。向かう方向、人の変化、接し方、すれ違う人、仕事のこと、言いたいこと、溜まっていること、会いたい人のこと、わからないこと、知りたいこと、行きたいところ、自分の軸、くだらないこと、忘れたいこと、欲しいもの、言葉…

色んなことが逐一浮かんでは沈むの繰り返し。

浮かんでは消えるだけで、何一つ変わりがしないこと。

そんな終わりが見えないような状況になんだか疲れる。こればっかりは終わりなんてないのだろうけれども。

だれかにぶちまけたいのか、ひたすら眠りたいのか、無心で歩きたいのか、泣きたいのか、笑いたいのか…

よくわからない。

ふと思い出した。昨年のこの時期はなんだか人格を否定されたような、私自身を否定されたようなそんな出来事があって、ひどく落ち込んでいた事を。

今年はそんな昨年のことに心が痛むこともなく、そのことに対しては「無」だ。

そんな風に今を取り巻くことに対して「無」でいれたらどれだけ楽だろうか。

何も感じないって怖いことなのかな。もし本当にそうなったら怖ささえも感じないか。

これを書いてて今思ったけど、私は本当は聞いて欲しい。ぶちまけたいのだと思う。

私のことを、私の思いを否定も肯定もしないで、ただただ聞いてくれる人に。今、自分のなかで色んなことが途絶えることなく浮かんでは沈み、浮かんでは沈み、それ以上の行き場がなくて多分しんどいんだ。
だけどそれを誰かに見せる勇気やエネルギーは今はない。