ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

ぼんやりの着地点

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いい音楽はいま目に映している景色をがらりと変えてくれる。
そのいい音楽は人によって違うし気分によっても違う。
『いい』と一口に言っても、リズムが好きとか雰囲気が好きとか声が好きとか詞が好きとかなんとなく好きとかそれもまた色々だと思う。
いい音楽に出会ったら気分がいい。
そんな1日の始まりだった。

 

最近、日本の歌を聴くことが減ってきた。詞がたまにしんどくなるのだ。

JAZZや洋楽を聞いている。

洋楽の場合、私は本当に英文がわからないので、どんだけ強烈なラブソングだろうとどんだけ悲観した詞だろうと、私には届かない。今は逆にそこがいいのだろう。

リズムや曲調や声だけでなんとなく好き。そんな感じ。

 


最近、といわず前からだけども『言葉』(=情報)について考える。
最近は特に常に言葉に振り回されている気がする。
人の言葉、本の言葉、ネットの言葉、歌の言葉。


「お金ができたらまずは時間を買え」というのを見た。だけど私は、平気で何駅も歩く。その時間にいろんなことができるという人がいるだろう。確かに私も他にしたいことがあるときは、電車を使う。けどその時間のかかる歩く時にしか感じられないこともある。


「本を読むのは情報収集になる。勉強になる。」というのと「本を読むと馬鹿になる」というのを見た。後者は、そのまま筆者の考えを受け取るだけでは自分で考えることをしないからだめ。共感、享受するのではなく、疑ってかからないとだめという感じだった。どちらも正しいと思う。

 

私はそれらの言葉の意味は反対なのに同時にどちらも正しいと思う。

いちいち言葉に反応してそれもそうだなぁ、こっちが自分の中の正解だ!と言えないのは自分の意思が通ってないなぁと、だめだなぁと思っていた。

だけどある本の仕組みによると、それは固定観念がないということで実は苦しまずに済むことだと言う。

固定観念は、自分の中にこれ!という揺るがない観念。固定観念は、その反対側を信じれば消えるらしい。

歩く自分も電車を使う自分も許す。本を読んでそれをありのままに受け取るときもあれば本当か?と疑う自分もある。節約するときも値段を気にせずお金を使うときも許す。のんびりとなにもしない時間が大切だと思う自分も何かしてないとだめだなと思う自分も許す。

多分、私は今固定観念がぽつっぽつっと消えて行っている。今までは絶対こっちというものが中間にきている。

 

これも私が本を読んでそれをそのまま受け取ったからそうなっているのだけれども。

言葉や情報をどう受け取るかも、全部全部自分が決めること。

今までは、こっち!!!ってなってたのを、あれ、あっちもいいんじゃない?いけてるじゃん!って視野が広くなって、片側寄りだったのが中間になって、ひょっとすると前より少し生きやすくなったんじゃないかな?と気付けた、そういうことにできた今日。