「手紙屋」
喜多川 泰 著者
を読んだ。
簡単にいうと
就活生が手紙屋という不思議なものに出会い、手紙をかき、10通の手紙のやりとりが条件という中で考え方や価値観や行動が変わっていく物語。
私はこれを読み終えたあと、忘れていた何かが蘇りそうになったり、新しい視点を見つけたようなきがした。(言い切れないところがまた私のだめさ)
就活するにあたって、自分のやりたいこと、企業の規模、目標…いろんなことについて手紙でのやりとりがあるのだけれども、私に置き換えて考えてみた。
私は今、働いている。雇われているところ、本気でここのために、見返りを求めずに、できるか否か。と言われたら少し前までは私を使ってくださいと思っていた。
だけどなんだか最近はだめな自分。
新店舗になるにあたって、間接的だけどどんな風にお店作りをしているか、今もこれからもどんな風にお店を盛り上いげていくか、そういうのが見れる環境というのはとても自分にとってありがたいことだと思ってはいる。だけど、自分の意見をいうのが怖い。一緒に作っていくというよりは、オーナーのお店だからオーナーの考えに従おう。という受け身な状態。自分は内にいるはずなのに(物理的には内にいる)、外から眺めているようなそんな気分。
結構好きなようにやらせてもらってはいる。だけど、どこまで何を使っていいか、オーナーのお店だから好き勝手にはできない、いまいち自分の範囲、自分の存在意味がわからない。
やっぱりどこか受け身で停滞感に漂っている。
あのよくわからない心が離れてしまった事件も問題なのだけれども、その個人的な情緒と仕事はやっぱり別問題なのかなと自分でも区別できなかったり、定まらなかったりする。
そこを混ぜてしまうのは嫌だと思う自分がいるけれども、
それは要因になり得て、今はまだ人自体が怖い。少し私は閉じている状態だと自分で思う。
そして私はいつまでも雇われているのは少し嫌だと思っていること。自分の救われた空間で誰かを同じような気持ちにできたらと密かに思っていること。だけど私には何にもなくて、今努力も怠っていること。
そんな気持ちも自分の中にあることに気付く。
誰のためでもないこと。
私のしていることは、誰かがお金を払って買ってくれてはいるけれども、それが自分が心から満たされているかと言えば違う。
誰かの為。その誰かの姿がどこにも見えない。自分のためでも存在する誰かのためでもない。それって危ういことだと自分でも思う。
この本を読んでまず一つ決めたことがある。
それはこれから読んだ本について、自分が思ったことをとにかくなんでもいいから書き留めていこうと思った。
そしてもう一つ。
やっぱり何にも関係ないことだと思えても、何事にも本気で取り組みたい。それは遊びだろうが人との会話だろうが自ら選んだものじゃなかろうが日常動作だろうが…
今やっていることは全て自分を作る要素になっていると思っていたのに忘れていた。
そしてこの本、今の私が出会うべくして出会ったのではないかと思う。
この本を見つけたのはチェーン店の古本売り場。正面の目立つところに何冊も置いてある中の1つだった。
たまたま2日前に私は友達からこの本について聞いていた。だから、数ある本の中からその題名が目に留まって開いてみようという気になった。
その友達はこの本を高校の時に読んで感銘を受けてそれから本を読むようになった。と言っていた。
だから印象に残っていた。その2日後に古本売り場であんなに目立つところにあるとは思っていなかった。あの日友達からこの本について聞いてなかったらこの本を手にしようとは思わなかったかもしれない。今日この売り場にきてなかったら出会わなかったかもしれない。もしこの本が正面のこの場所になくて、本棚に収まっていたら私の目に留まることもなかったかもしれない。本当は他の本を探しに来ていたから。いろいろが繋がって私のもとにやってきた。そして何気なく聞いたこの本にここまでの刺激を受けるとは思っていなかった。
その巡り合わせに地味に1人で感動をしていた。