ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

終わりゆく8月

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なんで、8月が終わるとき、みんな大袈裟に言うのだろう。

きっと、夏休みが終わるからなのだろうとは大体予想はつくけれども。

今年は「平成最後の夏」という言葉をよく耳にした。

私にはどれも特に関係ないこと。(な気がする)

いつもと変わらずただただ淡々と時が過ぎるだけ。

 

なんで、夏って8月って特別なように感じるんだろうか。

だって9月に入った途端暑いのがおさまるわけではなく、8月終了とともに夏が終わってくれるわけではない。
これも一種の洗脳かな?集団心理によるものなのかな?やっぱり夏休みによるものかな?

 

8月には毎年頭をよぎる思い出がある。

今はもうかすめるくらいになってしまったけれども。

もう一度会いたい人と会えた淡い思い出。

それももう今となっては、「無」になったかな。しばらくはその最中にいて思い返さずにはいられない、胸がきゅーっとなっていたけれども、もうしばらくしたらその出来事を俯瞰できるくらいになった。

涙をながして、生きていたらこんなこともあるんだって思うくらいの出来事だったのに、本当に出来事はただの出来事なんだなぁ。

今となってはその出来事に何の意味付けも感情付けもできないかもしれない。

「何事も過ぎる」

本当にそう。

夏。今年の夏もなんだかんだ色々あったけど、

「何事も過ぎるだ」

のかなぁ。きっと今はまだその中にいるから、見えないものも多いんだ。

「けど、そうなくちゃならねえことは、残るだよ」

目にしてから心に刻まれた言葉。

そんなものあるのかな。

 

 

「大人になると長い夏休みがなくなるということに学生時代は絶望していた。

でも大人になった今のほうが、日々は断然たのしい。なにより、したくないことをしない自由がある。

大人になった方が楽しいということを、誰も教えてくれなかったような気がする。遊べるのは今だけよ。とか、何かの呪いのようなコトバだったと思う…」

という、あるお方のお言葉。

私は大人になった方が楽しいだなんて言えるかな?

私はしくないことをしない自由は持っているかな?

私は呪いのようなコトバを使っていないかな?

 

9月の始まり。

いよいよ1年も後半戦になってきたのだなぁ。

ただ人間が作った時間の区切りで、相変わらず時間は淡々と進んでいるにすぎないのだけれども…

私、1年前に職場を変えることを考えて本当に色々考えて、なりたい自分、やりたいこと、やりたくないこと…今の自分、どうかな。

やりたいことやってるかな。やりたくないことやってたりしないかな。なりたい自分なんだろう。また繰り返しの毎日に戻ってないかな。

いろいろ、いろいろあった。なんにもなかったことは決してない。決して変わらない日々だったわけでもないけれども、確かめる術もなければ確信めいた気持ちもない。

振り返ると自分に、色々な経験したね。上がったり下がったり。全然繰り返しの日々なんかじゃないよ。って声をかけてあげられるのだけれども、今の自分だけをみてこの言葉はかけられない。

今もその最中だからかな。

 

「何事も過ぎるだ」


終わりゆく8月に考える。