ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

その一言で結構世界は変わる

「今日は荷物がいつもの3倍くらいあるので時間指定より1時間フライングしてしまいました。受け取っていただいて助かりました。」

 

実家からの荷物が届く予定だったのだけれども、時間指定よりずいぶん早く来た。

その時の配達員さんが言った言葉。

こういう一言ってあるとないとでは全然印象が違う。

あと、言い方や表情も結構大事。

いつもの私なら、(そんなのそっちの都合でしょ。関係ないじゃん。時間指定してるんだから時間通りに来てよ。)って思ってしまうかもしれない。

けれども今日は「そうなんですね。頑張ってください。」って全く不快感はなかった。

 

なにがよかったのかなと荷物を受け取ったあとに考えた。

理由を言ってくれたから納得できたのかな。あと言い方が心からの言い方だった。

時間指定よりも早くくることが今までにも何回かあり、今日と違う配達員の人は何も言わず当たり前のように渡してきていたなぁと振り返る。

こういう何気ない一言って大事。

言わなくてもなんとなくわかるでしょ。自分だけが分かっていればいい。何も言わない、言葉足らずなのはやっぱりだめだなと。

 

そうだとしたら私の普段の生活ではどうだろうかと考える。

なんとなくわかるでしょ。察して。という部分はないだろうか。

・・・かなりあると思う。

私は割と察することができる人間だと思う。言われなくても。だからいちいち言われると少しむっとしてしまう。言われなくてもわかるよ!という感じで。自分がされて嫌なことは人にもしないもの。だから人にも言葉足らずになってしまう。とはいえ矛盾してしまうけど、言ってくれなきゃわからないよ!と思う時もある。

本当は「察して」というのは無理なことなのだと思う。本当に相手が思っている通りに察せているとも限らないし。

「察して」のわからないままでわからないなりに疑問や、もやを持ちながら進んでいくものごと。言葉にするだけで、一言行動に付け加えるだけで、クリアになると思う。あの人はこういう意図でこうしているんだとわかる。なんであの人はこうするんだろう?なんでこれをしたのか。こうじゃないのか。そういう疑問が明確になってきっと気分快適だ。みんな違う人間。言わないとわからない。

当たり前のことのようだけど、人の前を通るときとか、相手の近くのものを取るときとか、人のものを使うときとか、どんなに親しくても一言いおう。

自分のルールと人のルールは違うから。

最近そう思う出来事があって今日の出来事で更に自分はできているのか、見直すきっかけになった。

もっとちゃんとこうでありたいと思った。