改札の外から、改札を通り、ホームへと歩き出す友人(?)をずっと見守って送り出している人がいた。
私はその光景を見ていた。
友人は振り返るのだろうか。振り返ると見送る側はやっぱり嬉しいのだろうか。振り返らなかったら落ち込むのだろうか。
なんてことを考えた。
私も見送ることあるし、見送りたい気持ちも分かる。でも、端からみるとなんともむず痒いようなそんな気持ちになるんだなぁと感じた。
今日は見る側だったけど、私もその人のような立場になることもなり得る。
私は先を急いでいたからホームに向かう友人が振り返ったか振り返らなかったかは見ていない。
でも多分見送る側はどっちでもいいんじゃないかな。ただそうしたかったんだろう。最後まで見届けたいその心があっただけなのじゃないかと思う。
歩いているうちに思考の連鎖なのかふとこんなことが浮かんできた。
私は今24歳。20歳になる後輩がいる。ちょうど私が初めて働き出したところでは私が20歳になる年で先輩が24歳だった。
先輩は私がいま後輩をみているようなこんな気持ちで私に接していたのだろうか。
なんて思ったりしている。まったく同じ気持ちはあり得ないけど、多分重ねてきた年で生きてきた分見えるものも変わってくるのじゃないかと思う。
年齢がすべてでは無いとも思っているけど、多く生きている分なんらかの経験は多く持っていると思っている。
年齢というのは、一生縮まることも広がることもない。その人とはもうその間隔で一生付き合っていくことしかできない。
一生同じところには立てない。24歳の今の私と24歳の先輩と会話をすることも、その何となく今ならわかるその立場の気持ちも同じ位置で話すことはできない。その先輩は今は28歳だ。また別の視点や立場を持っているのだろう。
そして一生その人にとっては私は4歳年下としか見れなくて、私からも4歳年上しか見れない。
なんか切ないなと思った。時間を経ていつかのあの人のことが理解できるようになるのかもしれない。
あの日のあの人が今ここに響く。
なんか、星の光みたいだ。
やっぱり切ない。
別に年齢に拘っているんじゃない(そういうのは嫌いだし)…
自分の年齢で年下や年上の幅も変わるので(前は20歳が年下だったのに今は23歳も年下だったり、今は25歳の人からが年上だったり)、話の内容が変わったり、別の視点が見えてきたりする。
かといって変に、年下の子に対してまだ分からないんだろうな~。とかいつか分かるよ。みたいな分かった口はたたきたくない。達観したつもりで諦めたくもない。
実際自分がここまできたからこそ分かったような気がすることも多いのだけども。
年を取る度、子供心というのだろうか「分からない」や「しりたい」や「やりたい」を失くしたくないとも思っている。
いつの間にか、いつかのあの時あの人の位置に立っていて、分かってしまうことや経験上でものを言ってしまうことが多いかもしれない。それが必要なときもあるし、センチメンタルになるのもたまにはいいけど、それに囚われない無邪気さや無鉄砲さが欲しい。