昨年、こんな記事を書いていた。
長く生きるほど慣れやマンネリとは多い付き合いになると思う。
かといって子供の頃はこんな気持ちはなかったかというと、そういうわけではない。
子供の時には子供なりの、慣れやマンネリ化に飽きた、つまんない、変化が欲しいと思ってきた。
これも、生きていると一生の付き合いになり、一生どうしたら自分を楽しめられるかを考えさせらる1つの題目だと思っている。
安定を望むけれども、変化も望む。人間なんてめんどくさい生き物だ。
今日ここに書くことは、環境への慣れやマンネリ化の中でも、『人間関係』の慣れやマンネリ化について私が感じていること、どうしたらいいのかと思っていることを書きたい。
毎日の場所や仕事や行動が日常化してルーティーン化して何か刺激が欲しいということはよくある。もちろん、『人』も。なんだか残念だけれども同じだと思う。
それの証拠に、大切な人は離れてから気付くとかって言葉があるよなぁと思う。
同じような生活をしていた体毎日会って話す人も大体決まってくる。変わらない。
安心感はあるけど、どきどき感はない。最初は丁寧だった対応も接し方も少し雑になったり、わがままが出てくることがある。それが本当の姿といえばそうなのかもしれないけど。
良く知っている人でもあまり知れてない人でもだと思う。顕著にでやすいのは家族だと思うけど。
職場の人でも友達でも年上の人でも後輩でも恋人でも…
出会ってその人を構成する芯を囲う外側の部分を知るまでの期間ぐらいは、どんな人かなとか少しそわそわ、変な緊張や期待もあったりする。
多分、ちょうどこれからの季節がそういうことが多いんじゃないかな。
だけど、ある程度期間が過ぎるとその気持ちが沈んでいく。そしてそれ以上の内側を知れる人はそうそう居ない。それ以降はその外側同士のやり取りで大体過ごしていく。
これ以上、なにも知れない、知ろうとしない。何も発見がないな。なんかつまんないな。
だけど本当は人ひとりひとりのことを全然知ることなんてできていないのに、「慣れた」なんてね。なんか笑えてくる。
距離が近ければ近い程、いつでもそこに居るからなんかいいかなってあぐらをかいてしまうのかな。内側うんぬんより、本体がそこにいるから勘違いしちゃうのかな。
あと、人に心をその内側を見せるのは本当に怖い。多分、みんなそうだ。誰にも見せられるものじゃないし。
結局いつの間にか連絡を取らなくなったり、距離が出来たり、一緒にいるのに無口になったり。
他の家族同士は連絡をよく取り合っているのに私はほとんど連絡を取らない。
友達にだって全然連絡を取らない。
私にはたらきかけてくれた人、(多分感謝を行動であらわさなきゃいけない相手)には尚更連絡を絶つ。…これに至っては、多分私にはたらきかけてくれる人(先生や面倒見てくれる大人)には大体いい子ちゃんを演じているから。慣れとかマンネリというよりはその自分じゃなかったらいけないと思い疲れてしまう。それは期間限定の自分で本当はそんな自分じゃないからと離れてしまう。
だから、「冷たい」とか「さばさばしてる」とかって言われるのかな。
こんなに内側は気持ち悪いくらいどろどろねちゃねちゃしてるのに。
私にはやっぱり大事なものが欠けているのだろうか。
人との関係を育んでいくことができないのだろうか。
みんな、どうやっているんだろうな。
友達とか、家族とか、恋人とか、一定期間が過ぎたあと、いわゆる慣れやマンネリしてきたなーなんか変化がないなーと思う時が来ても、それでも関係を育んでいこうとすること。
それぞれがそれぞれの道を歩いてるんだけど、ときどき道が横に繋がったり、ときどき速度を落としたり速めたり、ときどき声を出して呼びかけたりできること。
慣れやマンネリの先にあるものってなんだろう。新たに何かを望むことはできるのかな。