ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

2019.5.14

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知らないまちを歩く。

歩いているとこの人は、
このまちの主婦だ。子供の送り迎えの途中だ。
このまちのサラリーマンで営業の途中だ。お昼休みだ。
このまちのご老人でお散歩中だ。買い物にいっているんだろう。友達とランチ。ママ友とランチ。あっ、たまたま近所の人に会ったかで道端で話が弾んでいる。この人は観光客だ。ぽかぽか日向ぼっこしている人がいる。犬の散歩をしている人がいる。

私たちは目に見えるもので色々な情報を得ている。
あるいは見たものを見たいように判断している。


知らないまちの初めて行くカフェでコーヒーを飲みながら本を読む。
今は居ない人が残した詩に心から共鳴する。
本と私だけの世界がそこに構成される。
あぁ、なんでだろう。
今生きている私の世界では、私の心を言語化して共有するようなことはできない。
でも、この本だけは私の醜さ、悲しさ、切なさ、喜び、全てをなにも気にせずさらけ出せる気がする。
ここでしかさらけだせない。


本を閉じて、考える。
ある人が言ったことを。
「私が⚪️⚪️ちゃん(私の名)の歳くらいに一緒に働いてた4人組で久々に会ったの。その時代の友人は良いよ。今の友達はどうにか繋いでおいた方が良いよ。
今ではその子達がどういう性格かとかどうでもよく付き合えるもん。」
その人は家庭を持ち、働いている。
そうなのか。
つまり、その人がその友達と会うというのは、日々の生活からの解放、息抜き。そう言うことなのだろう。
それだけ日々の生活に自分の時間がないというか、母であり、職場での人であり、その人そのものである時間がないということなのかな。
性格とかはどうでもよく、に表れているけど、それが唯一自分に戻れる時間なのかもしれない。
そう思うと私は奇妙な気分だった。
そんな大人の世界嫌だなぁ。
自分が自分である時間がちょっとしかないって生きるのが窮屈だなぁ。
今の私はどうだろう。
友達ってどうにかして繋いでおくものなのかなぁ。
人と人とのやりとりだ。どうにかしてどうにかなるものではないよなぁ
友達ってなんなんだろう。他にも家族、恋人、母、父、姉....と名前があるなかで、1番漠然としていて定義がない気がする。
私の中できちんと決めておけばこんな疑問なくなるのだろうけれども、それがない。というかわからない。
知り合いから友達の狭間、グレーゾーンの幅が多い気がする。
友達とは便利な言葉だなぁと思う。使い勝手がよすぎて少し怖い。




詳しくはないけど、美術館に行き、絵画を観る。
これも今は亡き人たちが残したもので、時代を越えて今私が見ている。
この絵なんか好きだなぁくらいしか感じることができないのだけれども。
あの、しーんとした空間と私と作品たちの間のやり取り。
時代性、個性、物語...
いつもこれで片付けてしまうのが悔しいけど、なんだか不思議な気分。


そんな相変わらずな私の1日。