ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

「エンドロールが終わっても席を動けない映画みたいなライフを」

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それってどんな人生だろう。

痺れるような?感動的な?ドラマがある?衝撃的な?夢を追う?仲間がいる?どん底に落ちて這い上がる?

って言葉にしたらなんだか味気ない。

tacicaのWAKIMEの歌詞。
「エンドロールが終わっても席を動けない映画みたいなライフを」

凄く残る言葉なんだけど。
生活のなかでふと浮かんでくる言葉なんだけど…
なんだけど、どんなのだろう。
と考えたときに、はっきりとイメージできないんだ。

人によってそれは違うのは当たり前だし同じことは有り得ないけど、どんなのだろう。


クリスマスから年末年始にかけての、世間の高揚感が少し苦手。
自分も少しそれにのまれているのが怖い。そういうのは、コントロールできないものだから。
高揚のあとは沈滞だ。それが嫌なんだ。
ただの、休み。ただの、1年の終わり。ただの、昨日の続き。同じ時間が刻まれる。
なのになんで、自分も含めてみんなこうもそこに向けて気持ちが高ぶるのだろう。



年越しに因んで、歳について話したい。
どんな経験をもっているか、どんな思考か、人としてどんな具合か。
それは、あまり年齢には関係ないと思っていた。
若くともいろんなことを次々して、いろんな経験、人脈、もっているものがたくさんある人も居る。
かと思えば、年齢が高くても、閉鎖したような人もいる。
けど、長く生きている分はやっぱりその開きの分は敵わないのかな。
こっちからあっちの景色は見えないんだ。
けど、あっちからこっちの景色は多少は分かるんじゃないかな。
そういうの、好きじゃないけど。
私が高校生をみて、あの頃は……と思う。私の思い出す景色と彼らの今いる景色は全く違ったとしても、なんとなく想像がつく。
そんな感じに私も誰かからみられているのかもしれない。
今の私をみて、あぁ。そんな風にいろんな葛藤があるんだね。若いなぁ。私もそんな時代があった。ってみられているのかもしれない。
この開きは縮まることがない。一生あっちの景色は分からないままその人と接するしかないんだ。
そのみてきた景色の差は敵わない。
能力とか知識とか身につけれるものはいくらでも追い越せても、その景色。みてきた景色の多さはきっと敵わない。

でも、一緒にされちゃこまる。あなたのあの頃と私の今は違う。
何でどう思って、何で生きづらくて、どんなものに支えられていて、そういうものをどれだけ持ってるとか…
勝手に決めつけないで。とも思う。
おかまいなく。と。


私は自分のペースで、私なりのライフを送っている。
これさえも、若いなぁって言われるのかな。

ちょっとだけ、
思考的人間じゃなくて、感覚的人間になりたい今日この頃。