ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

共有や共感とは一緒にその場にいる人がぎりぎりできる。

そんなことを思った。
私の感動を同じ熱量で伝えるのは不可能だ。
言葉に変換して口に出して伝えるのが苦手だというのも1つの理由だけど、それだけじゃないはず。

カカオと砂糖のみで工房で作られているチョコレートを食べた。
それは、私にとっては驚きであり、感動だった。
こんなに香りが広がるチョコを食べたことがなかった。
チョコってこんなにいろんな方向から味が来るものだったんだ。甘い、苦い。だけじゃない。
そして、食べたあとの余韻。
口のなかに暫く香りが残る。舌に甘ったるさが残るんじゃなくて、口の空間に香りが残るの。
あぁ、そうか。コーヒーみたいだと思った。
コーヒーも苦い、酸っぱいだけじゃない。いろんな方向から香りが来る。
チョコってこんなに深い味だったんだ。
深いで表すのさえも表面的すぎるくらいに。
この感動、誰かに伝えたかった。誰かと共有したかった。
私は1枚1000円の板チョコ(70g)を買って帰った。
そしてそれを周りの人に少しずつお裾分けした。
でも思ったような反応は返ってこなかった。
私がただ一人興奮していた。
でもこれ以上言っても伝わらないと思い、諦めた。悲しかった。
2人目からはちょっと冷静に説明するようにした。
でも、仕方がないことなんだよね。

まず興味の違いや差。私の今までの経験(私にとってのチョコの概念、コーヒーの概念)があり、あの場所でのやり取りや雰囲気含めこの感動なんだ。
これを分かってもらおうだなんて無理なんだ。
それでも伝えようとするべきなのか諦めるべきなのか。
だからもしそこに一緒に誰か行ってたら、その場のやり取りは共有できるからぎりぎり共有。
興味や経験はどうしても同じじゃないから、一緒に居てぎりぎり。

あるカフェの人が言っていたのを思い出した。
旅で立ち寄ったカフェのキャロットケーキがすっごい美味しくて感動したから作ってみた!と。
そういうことなんだと思う。
言い方、表情からはものすごく感動したことが伝わったのだけれども、私にはそもそもキャロットケーキへの執着はそこまでないし、どんなところでどんなそれを食べたのかが全く想像つかない。でもなんだか刺激を受けていることは伝わる。
ここまでは私と同じ。
でも、その刺激を今度は自分がというのが違うところ。
その刺激を自分の何かに投資する。
そういうことだと思う。
共感や共有こそはできないけど、その刺激を自分のものにして自分の何かで表現する。
そういうことなんだと思う。