ordinary day

思ったことを気ままに。自分を構成するものとは。他者とは。旅や自然。

違和感の正体

紹介してもらった本の最初の最初。

そこで何か開けた感じがして本を閉じた。

私にあった違和感はこのことだったんだと思った。

それを忘れないうちに書いておきたくて。

 

「正常と異常、健康と病気、そういう区別がはっきりあるのだというようなものの見方では、大切な本質は見えてきません」

 

「正常と異常の境界線にあるような視点や言葉が、今の時代ではほとんど失われてしまっている」

 

「正常と異常との両方を股にかけて、往ったり来たりしながら異常の世界の言葉を正常の方へ持ってきて伝えようとしてるのが詩ではないかと思います。」

 

「私は、このように境界線上に立って生きる人を詩人と呼びたいのですが、この意味での詩人とは、必ずしも詩を書く人という意味ではなくて…………別に何をやっているのでも構わない。とにかく、この正常と異常の境界線上にいるような、物事を新鮮に見る視点を持って生きている人である。」

 

私の生活でところどこにある違和感の正体はこれだった。

このことを言いたかったと思った。

現代は色んな人との会話で、「普通だとか普通じゃない」とか「個性的」とか「病的」とか「ちょっとおかしい」とか。いろいろ区別付けられすぎている。

私はそれにずっと違和感があった。そういう視点がわからないというか。

きっと、現代病と呼ばれているこれらに関して、昔もそういう人はいたと思う。こうやって診断名をつけていなかっただけで。白黒はっきり二分化していなかっただけで。というか、ほとんどの人がそれに当てはまるのじゃないかな。

私は自分が普通だとは思わないけど、普通じゃないとも思わない。正常か異常か。その2つで判断できる問題じゃないと思う。

ある分野では、一般的な常識人みたいな私もいるけれど、ある分野では病的になる私もいる気がしている。

 

たまに、「あの人はおかしいのよ。病的ななにか」と言う人がいる。

この人は自分のこと普通だと思っていて、はっきりと「あの人はあっち側」と「自分はこっち側」と思っているんだなぁ。とそれを聞いて思うことがある。その判断基準はどこなんだろう。その線引きはどこですぱっと成されるのだろう。

 

私の姉は、うつ病と診断されて薬を飲んでいる。(自分のことを知っている人がこのブログをもし見つけたら特定されるだろうなぁというくらい、ここではいろいろ赤裸々に書いていてちょっと怖い。)

私はその姉とは最近うまくいっていない。昔から、合うときは合うのだけれども、ころっとどこかで関係が変わる。

だから姉がどんな状態で何に苦しんでいるのか。全く情報がない。

これだから冷たいと言われるのかもしれないけど、こう思うことがある。

姉は、自分のことを「薬を飲んでなんとかやってる。かわいそうでしょ」という。

そして、親は「病気で不安定なんだからちゃんと接してあげなさい」という。

なんか違うなと思う。

情報がないから、姉がどんな風に立ち上がろうとしているのか、努力をしているのかしらないから一概に言えないけど…

「自分が病気だから」で終わらせてはいけないと思う。

私だって自分が病気なのかもと思うときもあるし、変な人だなと思うときがたくさんある。それとこれって違うことなのだろうか?

「病気で不安定なんだから」の親の言葉も、自分と姉を切り離してみていて、どっから目線?という気持ちがしてしまう。

私たちも、多分一緒だよ?と思う。違うのかな?

 

そもそも私は病院に行って診断してもらうことが良いことなのかという疑問がある。

それが本当に信頼できる専門医なら良いけど、きっと病院ってそんなところばかりじゃない。というか、そういう専門医を見つける方が逆に難しいと感じる。

薬を飲むことが本質の改善になるのかと言えば違うし、でもそれが少しでも助けになるのならそれに頼ることもたまには必要だとは思うけど。

薬の力というより、「本当の人の力」が一番効くのじゃないかなと思う。

別にそれが専門医じゃなくても、「人として」ちゃんと接してくれる人。

そういう人って意外に周りにいる。

多分それが、この本で言う「詩人」にあたる。

と思える私は恵まれているだけなのだろうか。

だから、なんだろう。今1年くらい姉は、実家で休養するといっているけど、そう思っている親と、そう思っている姉とがずっと一緒に暮らしていて変化は訪れるのかな。なんて思ってしまう。田舎で、あるようにみえる人との繋がりが意外にない家だったから、それならもっと違う人の傍にいた方が姉は何かきっかけを掴めるのじゃないかなと思ったりもする。

それもただの戯言なのかな。

 

つい先日、カフェでいつものように本を読んでたら、女性の1組がこんな話をしていた。

「ヨガの始まる十分前とかに流れてるのがさぁ、『全てはうまくいくようにできています。ありのままを受け入れましょう』(曖昧)みたいな感じでさぁ」と笑いあっていた。

(あ、これ私が行っているヨガだ)と思った。

私はこういう言葉に救われる時もあるし、そんなわけないでしょと思うときもある。

悪魔でこの女性客にこういう精神的な話はできないと思った。

そして、それを話している彼女はともかく、それを聞いている彼女はどちら側なのだろうかとも思った。

一緒に笑っているけど、本当はそういうのを受け入れられる人かもしれない。けど、そう言われたらこの子にはもうそういう話はできない。と思う。

 

そういうことは私にもあった。

職場で「ある人が、介護とか悩みを紙にばーーーーって書くんだって。そのノートは誰にも見せられないって言ってた。ちょっと怖いよね。人に話せばいいのにっていったら、介護とかの悩みを誰に話せるのって言ってた」と。

それを聞いて、私は(え、それって普通じゃないの?と思った。私も悩みとか心の内を現にブログに書き溜めてるし、ノートにだって書いてるよーーー!)

と心の中で思いつつ、この人はこういう話は引いちゃうんだな・・と思い、「そうなんですね~。介護はそりゃ大変ですよね」と苦笑いした。

 

こういうことを考えるのは遺伝性もあると思うと、その姉が言っていた。

祖父の兄弟は宗教にのめりこんで、自殺した。私の母の兄も精神科に通っている。私の姉(もう1人の)は、大学で心理学を学んでいた。今は全く関係ない仕事をしているけど。私が物心ついたときには、母や姉の嗜好でどうぶつ占いや心理テストの本が家にはいくつかあった。

私もそれをみるのは好きだった。今もしいたけ占いはチェックするし、タロット占いもちょっと興味がある。

こんな風に、カウンセリングとか、精神的ななにかについての興味も結構強い。

多分、少し関係しているのかもしれない。そういう血が通っている。

でも私は、宗教を信仰しないし、めちゃくちゃ占いを信じるわけじゃない。楽しむ程度。良い所だけ取り入れる。

 

私は、少しだけ、正常と異常を往き来できるのかもしれない。

というか、境界付近にいて、たまにあっちが強くなったり、こっちが強くなったりしていて、どちら側の意見もある程度は受け入れることができるのかもしれない。

自意識過剰かな。

 

という、だからなんだっていう気付き。