ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

交換日記 ~勝手にお返事①~

凄く読んでいて面白いものがある。

cakes.mu



東京でクッキー屋をしている桜林直子さんと京都で小説家として文章を書く土門蘭さんの交換日記。
元々、土門蘭さんのTwitterをフォローしていて流れてきたので見てみたら、すごく惹かれるやり取りで、こういう話ができるっていいなぁと思いながら、私はどうだろうと考えながら読んでいる。
交換日記。小学生の頃、凄く流行った。個人的に好きだった。話せばいいのに、毎日学校で会う子とそれをする。手紙だってそう。
なんでなんだろう。
昔から、自分のことを言葉にして文字に書くということが大事なことだった。
今よりもずっとずっと口にできないことが多かった。
言葉の中に人を探していた。
のかな…

とても興味深いこの交換日記を勝手に私だったら…と整理してみたくてこの記事を書いている。




まず、第一回の土門蘭さんこと蘭ちゃんから桜林直子ことサクちゃんへ向けて。

「そもそも、友達になるってどういうことなんだろう」

という題目で書かれてる。


この交換日記はサクちゃんが蘭ちゃんの日記の内容をみて、サクちゃんからお誘いして始まったそう。
それまでは1度しか会ったことがなかったそう。
それについて蘭ちゃんは、

「このお誘いは”友達になろう”ということに近いと思う。どうしてサクちゃんはそう思ってくれたんだろう。どうして私は快諾できたんだろう。友達になるってどういうことだろう。」

と書いている。



自分なりの答えが書き進められる。


「昔から本当のことを話せる友達がいなくて苦痛だった。高校の時に、友達”になる”のではな友達を”つくる”をしてみようと決心。
 クラスの中から真剣に誰にするかを考えた。決めたのは発する言葉が好きだった女の子。食事に誘い、友達になってほしいと告げた。
 その子とは今でも友達。まるでデートに申し込んで恋人を作るかのよう。だけど恋人は注意深く相手を選び丁寧に事を進めながらつくるのに、友達はそうじゃないってなんだかおかしいかもとと思った。それからずっとそんな感じに友達をつくってきた。」

「どうやら私は言葉に惚れるところがある。サクちゃんの言葉はきちんと「ひとり」な言葉。私が人間関係全般に求めることなのかもしれない。「ひとり」と「ひとり」で向き合い、お互いから見える世界について語り合うこと。」

と私が引っかかった部分をざっくりと。



私はそこから考える。

私も、小さい頃は本当のことを話せる友達がいなかった。というか、話してはいけないと思っていた。私が考えていることは変なことというか陰の部分で、人には陽を見せなきゃいけないと思っていた。人とやっていくのはそういうものだと思っていた。
そして私の場合は土門さんとは逆で、友達は”作る”ものだと思っていて、友達に自然に”なる”ことに憧れていた。それって、私は小、中、高、専門と友達を作るというのは、ただ単にクラスや学年単位での立ち位置とかを考えたり、とりあえず1人になるのは避けたいという思いから焦って意図的に”作る”ということをしていたりしたからだと思う。
クラスの中を見渡して、いわゆる、取り仕切る子たちと仲良くなりたいと思った。カースト制度ではないけれどやっぱりそういうのはあった。
私はその頃は本当のことを分かっていなかった。自分の立場とか状況ばかりを気にしていた。
だから、一緒にいたグループや、一緒にいる子には本当のことが話せなかった。
途中でうすうす気づき始めた。私、無理してここにいる、全然気が休まらない、人の顔ばかりうかがってる、嫌われないように、と。
中2くらいから、無理しないで付き合える本当の友達が欲しいと思った。地位とかそんなのどうでもいい。むしろひっそり生きていきたい。
でも、そんなこと言ってもやっぱり、私は1人になりたくないとか、立ち位置、雰囲気で判断して声をかけて友達を作っていた。
いつも一緒にいる子にはやっぱり本当のことを話せる相手ではなかった。
私が一緒にいた子たちは、ただのお飾りだったのかな。自分ってそんなに酷い人間だったのかな。
今は1人が当たり前。良い意味で”ひとり”が大前提の生活だけど、その頃は1人は強がりで、怖くて仕方なかったんだと思う。
本当の自分を出したら嫌われる、暗いと思われると本当の自分を隠してたのかもしれない。嫌われたくないの裏返しでもあったのかも。ある程度の距離の子になら、変に思われてもいつも一緒にいるわけではないから学校生活に影響はない。とも思っていたのかな。

いつも一緒にいた子達とは縁は離れていき、今も残っている大事な友達は、ちょっと離れたその頃本当の気持ちを伝えていた子達だと気付いた。
逆に、いつも一緒に行動してた子達は1番疎遠になっている気がする。
今も続いている子達は会いたいといってくれて、そういう私の変な話も聞いてくれるし自分の想いも伝えてくれる。
その子達は私の言葉を待ってくれるし安心して託せる。「お互いから見える世界について語り合うこと」ができる。
あぁ、そうか。私は今もやっぱり人付き合いは乏しいけど、そういう友達作りしかできなかった学生生活を終え、社会人になってから繋がりたいと思うのは、「お互いから見える世界について語り合うこと」ができる人。
「大体のことにお互いから見える世界について語り合うことができる人。ひとりとひとりと向き合える人、自分がある人。年齢とか立場関係なく私をひとりときちんと見て接してくれる人。」
私はそれが人間関係全般に求めることなのかもしれない。
こうして土門さんの言葉を借りてようやく言語化された気がする。
言語化できなくともどこかの時点で気付けてそんな風になってたんだなとも思う。その境界はどこだったんだろうな。
「ひとり」と「ひとり」の話は、以前ここに書いた「普通が良いという病」という本にある、0人称で話すのは自分がいないといない言うことで、1人称で話すのは自分があるということ。と同じだなぁと思った。

いつも友達を計算して作っていた私は、惹かれ合うように友達になりたいと思っていた。
土門さんとは当てはめる言葉は逆だけど、多分言っていることは同じような気がする。



誰にでもはなすようなネタとしてあるような話をするより、その人の世界に触れる話ができた時が嬉しい。
ここまで生きてきて、誰とでもある一定の距離まで近づこうと思うには、ネタとか話題としての話が必要なのも分かる。でもそれはそこ止まり。それ以上はいけない。
縁がある人というか惹かれるのはそんな用意しているような定型文というか定型話(?)を使う人じゃなくて、自分の言葉を使う人だなと私も思う。
話題としてその場を埋めるために話しているか、人として向き合って話しているかは大体分かる。そして一方がそうなれば一方もそうならざるを得ない。
この人になら話してもいいかも。私の言葉が伝わる気がする。と感じるときがある。
私はなにをみているのかな。やっぱり「ことば」なのかな。話し方とか、話す調子とか、めせん、速度とかもあるけれども。
私は、そんな「ひとりな言葉」を持っているのかな。わかんないや。昔よりは今の方がずっと持ち合わせている気もするけど。


本当は今更新されている3回分をまとめて書こうとしたのだけども、1回分だけでこんなに書いてしまったのでこの辺で。
もし興味がある方は、交換日記、読んでみてください。