大分、間が空いたけど「サクちゃん蘭ちゃんのそもそも交換日記」への勝手にお返事編。
まず最初に書いておきたいことがあって、コロナの波が私の身近に来た頃に感じていたこと。
「はっきりとした原因が分かっているならそんなに慌てなくてもいいじゃないか。」
ということだったように思う。
目に見えないものだけど、原因はわかりやすく物質として存在している。
これほどに分かりやすいものなんてないのではないか。
それならいずれ対処法は分かる。順応していける。
そんな気がしていた。
それについて、『サクちゃん蘭ちゃんのそもそも交換日記』にうまく言語化されていた。
時々そういうのをなぜか全部壊したくなるんです。
愚直に身につけてきたもの、切実に欲しがっているもの、全部全部、本当はいらないのかもしれないって思うことがあります。
コロナウイルスの一件で、ひとつ気づいたことがあります。
それは、わたしの本当の不安はここにはないということでした。
なぜかと言うと、不安の理由がわかっているからだと思います。
感染するのもさせるのもこわい、医療崩壊がこわい、経済状況や人間関係の変化がこわい。どれも、とても怖いです。
でも、理由や原因がわかっている不安は、わたしにとっては本当の不安ではない。
それよりもっと怖いのは、なぜ自分がこんなに不安がっているのか、理由や原因がわからない不安です。わたしの中には、子供の頃からそんな不安が存在しています。
(蘭ちゃん)
「把握癖がある」というふうに思っていて、「把握したい」という気持ちがつよくて、把握さえできると、それが自分にとってどんなに不利でも、状況は変わらなくても、ひとまず安心します。
「こうするべきだ」というルールや「こういうものだよね」という考えを「なんでかな?」「ほんとにそうなのかな?」と疑うことで、他人の視野をそのまま自分に取り入れずに、一旦崩してから自分に見えたものだけを信じていたのだと思います。(「ほんとにそれで委員会」を自称しています)
わたしの場合は「わかりたい」という気持ちで考え続けて、その先でわかったら、いとも簡単にポイと捨てます。たどり着いたものを見て「へえ、これか〜」とわかったら、それで満足します。同じように複雑に考える過程は同じでも、わたしは「手に入れたい」と思っていないかもしれない。
それが理由かどうかはわからないけれど、わたしは「唯ぼんやりとした不安」を感じることはほとんどありません。
(サクちゃん)
サクちゃんの日記を読んで、思ったことがあります。
このふたりはよく似ている、と思っていたけれど、実は大きな違いがあるんだなということです。
「唯ぼんやりした不安」を持っていることは一緒。でも、サクちゃんは「諦めがいい」、わたしは「諦めが悪い」。サクちゃんは不安と共存しているけれど、わたしは不安と格闘している。これは大きな違いだな、と思いました。
さっき、わたしは連休までの状況を「旗色が悪い試合」というふうにたとえましたが、そんなふうに人生を闘いか何かだと思っているのかもしれないですね。
勝つか負けるか。それは他人に対してはなく、自分に対してです。
だから終わりがなくって、常に緊張していて、時々降りたくなったりして。
(蘭ちゃん)
当たり前で分かり切ったことだけど改めて、蘭ちゃんとサクちゃんは違う人間なんだなぁと思う。
私の話に戻してみる。
私にとっての不安。
元々存在している、私が人生の名目を探しさまよっている根本的な不安や悩み。
それが別枠の(しかも世界的に大規模な)不安が覆いかぶさってしまい、世界ごと大きな埋め尽くされた。
可視化された不安、誰もが一斉に同じような不安を与えられた。
それは、自分にとって外敵が増えるということを薄々感じていた。
人はストレスを感じると余裕がなくなり、他者のことまで気や頭が回らなくなる。
それを全人類同じタイミングで抱えるということになった。
その中でも、(重さなんて計るなんて本当はできないけど)状況や立場的にかなりきつい、まぁまぁやれる、それぞれあるけど、ほぼみんな自分のことで精一杯になった。
と自分の不安要素が、元々自分が持っているもの+コロナの件+外敵 になったのだ。
外敵という面から改めて、人からもらっているものは大きいのだと感じる。
「唯ぼんやりとした不安」
と書いてあるが、私もどちらかというと「唯ぼんやりとした不安」はないように思う。
サクちゃんのように、把握癖が強く、(なんでこんなに苦しいのか)(なにがこんなにしんどいのか)というのを考える癖があり、自分はこんな場面が苦手なんだなぁ。こういう時に息苦しいんだなぁとだいたいの理由は分かっている。
ただこれは私にとって、コロナのように物質としては存在する『目に見えないけど見える原因』ではなくて、物質的に存在しない『言語化こそできるけど見えない原因』なのだ。
私は、これかぁと満足するわけじゃなく、不安が不安を呼ぶというか、枝木のように、じゃぁ、なんでそれが苦手なんだろうと深堀してく。
そして諦められない。
「じゃぁどうしたらいいんだろう」
自分が楽であるためにはどうしたらいいんだろうと。
それについてははっきりとしたお決まりの対処法とか、原因が分かるからといってこうしたら治まるとかがない。
白黒はっきりつけたい性格のわたしは、それが嫌になる。
壊したくなる。すべて投げ出して違う世界に行きたくなる。
同じ意味ではないと思うけど、蘭ちゃんの
「時々そういうのをなぜか全部壊したくなるんです。
愚直に身につけてきたもの、切実に欲しがっているもの、全部全部、本当はいらないのかもしれないって思うことがあります。 」
という言葉がよく分かる。
そして私はどっちなのだろうか。
自分を受け入れて諦めて「じゃぁどうしようか」
なのか
自分と格闘してる「じゃぁどうしようか」
なのか
と考えたとき、割と受け入れて諦められるようになった。
幼少期のころは、原因を抱えたまま我慢する、頑張る、耐え抜くしかないものだと思っていた。それしか知らなかった。
けど今は、それって本当にそうなのかな?と思うようになっているのも確か。
苦しいことを持ち続けることは本当に大切?克服できない、どうしても苦しいままなら他のやり方があるんじゃない?と。
でも、自分はこうなんだね。と受け入れた諦めるではなくて、自分なんて所詮こうなんだという諦めにも思える。
それはまだ、そんな自分を変えたくて奮闘しているということなのかな。
「変えたくて」じゃなくてもしかして「変わらなければ」という外敵もあるように感じる。
そうなると、私はまだまだ自分のことを過不足なく把握してあげなきゃいけないと感じた。
人の言動や社会の状況にいちいち惑わされないよう。
「世界は夢組と叶え組でできている」著:桜林 直子
に
「自分の能力や性格、できることを過不足なく把握できていると得をするよ。
他人からどうこう言われても自分はこうだと言えるから。
自分のことを一番よく分かっているのは自分だから。」
というようなことが書いてあった。
さっきも書いたけど、
私は、このコロナの件で、人の言動や環境や社会の状況に心がいちいちかき乱されて左右されるのは本当に、ほんっっっとうにうんざりだと思った。
そして、まだまだその核が私には無いのだとも分かった。
じゃあ、その核をみつけるため、自分の能力や性格、できることを過不足なく把握しようとノートに書いていこうと思った。
唯、1つ問題があった。
「過不足」なく把握することはとてつもなく難しい。
どうしても「不足」する「不足させて」しまう。
それは、人と比べて自分を卑下することがしっかりと身に付いてしまっているからなんだと思う。
これは自分は持ってるなと浮かんでも、どうしても、本当にそうかな?自分よりできる人はたくさんいて、持っているうちに入らない。
あるいは、ある一定の基準(そんなの目に見えないしそもそもないんだろうけど)があるように感じていてそれを超えないと持っているとは言ってはいけない気がしていて浮かんでさえこないように思う。
完璧主義?変にプライドが高いだけ?
ここから改善していかなければ到底、核を見つけることは難しいと思う。
「じゃぁ、どうしたらいい?」
とそこで行き詰まっている。
ー・ー・ー
まちは少しずつ動き出したけど、それでまた外的変化に左右されてしまうという不安が私を襲っているように思います。
そんなに不安に思うことはないはずなのに。どうしてもそこに弱いのです。