ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

交換日記 ~勝手にお返事⑧~

サクちゃんと蘭ちゃんのそもそも交換日記。

今回は蘭ちゃんこと土門さんの回。

 

サクちゃん蘭ちゃんのそもそも交換日記|土門蘭/桜林直子|cakes(ケイクス)

 

「心」は言葉に表れるからこそ、どんどん外へ|サクちゃん蘭ちゃんのそもそも交換日記|土門蘭/桜林直子|cakes(ケイクス)

 

今回の回はなんだかすごい。

自分のことを教えてもらった気がする。

 

 

最初は、「言葉」について書かれている。

 

 わたしは、人格は言葉に表れる、と思っています。
だけどそれは、どれだけ語彙が豊富かとか、どれだけ論理的かとか、そんなことは関係ありません。漢字も習っていない子供の言葉に品格を感じることもあるし、肩書きが立派な年上の方の言葉に幼稚さを感じることもあります。

 

 

言葉は心。

みんな、同じことをいっている。

私が立ち止まって見ている人たちはみんなそう言っている。

私は、私の言葉は本当に自分の言葉かが分からないけど。

誰かがいつか言っていた言葉、誰かがどこかに書いていた言葉。

それをただ、かき集めて言っているだけに過ぎないのじゃないかって、なんだか信じられないことが多い。

本当に自分の内の言葉を探そうとすると、なかなかすんなりとは出てきてくれない。

きっといつも、どこかの誰かの何かを持ち出している。すらすらでてくる言葉は借り物の言葉な気がする。

それでも選んでいるのは自分だけど。

私の言葉はどこにあるのだろうか。

土門蘭さんの言葉を借りるなら、私も「心を外へ放流」するように、自分の言葉を当たり前のように自由に出せるようになりたい。

怖がらず、遠慮せずに、素直に、取り繕わず、ありのままで、外へ、外へ…

自分の言葉を見つけるって、自分を知らないとできないことだな。とも思う。

対話というか、内省、目をそらさずに。茶化さずに、変換せずに言葉にするってほんとに難しいこと。感覚も必要になる。

 そこから出てきた言葉で人と繋がれたらな。

 

 

そして後半は、

「蘭ちゃんは、子どもの頃教室で願っていた『大人になったらこうなるといいな』ということはありますか?それは今も変わらない願いですか?よかったら教えてください」

というサクちゃんからの質問への回答。

 

「気の合う人と仲良くなれたらいいな」とずっと願っていました。

 

そして、本を本格てきに読み始め、とても感銘をうけ

 

それを読んだとき、「この人に会いたい」と思いました。「この人」というのが、江國さん(作者)だったのか登場人物だったのか。

…とにかく「この人たちのことが大好きだ」と思いました。目の前にいたら絶対に友達になるのにな、と。

となると、だんだんこっちのことも好きになってほしくなるわけです。

…どうしたら彼らや彼らみたいな人に「わたしはここにいるんだ」と伝えられ、友達になれるのだろう。

 

それから、土門さんは図書室で出会った人たちおよび、まだ見ぬ大好きな人へ向けて、私はここにいて、こう思っていると、文を書き続けていると綴っている。

だれかが拾ってくれることを願いながら。

 

私もそういう気持ち、持っている。

というか、土門さんは私の気持ちを説明してくれている。と思った。

 

心が動く、音楽、詩、言葉、絵、空間……に出会うとこれをつくり出した人はどんな人なんだろう。と人に興味をもち、この人に会いたい、知りたいと思うのだった。

話をしてみたい。共鳴する人同士話してみたい。

 

最初の話に繋がるけど、言葉だけにとどまらず、その人から出てくるものはその人の集合体、すなわち、人格を表している。

そしてそれを私はきっと子供の頃から感覚的に知っていたのだ。

作品=その人 に惹かれているのだ。

 

実際は会えることの方がすくない。

もうこの世にいない詩人だったり、大勢の人の前で歌う音楽家だったり、著者として名前がのって表には出ていない作家だったり、多忙で私なんかに時間を割くことができない人。

物理的にも立場的にも環境的にもその人たちに私はここだよと。こんな名前でこんな生活をしていて、こんな歴史を持っていてこんな想いをもっている私があなたと共鳴している。と伝えて繋がることは、これだけネットやSNSの世界が広がった今でさえ、なかなかできない。

 

分かってくれる人が居る。同じようなことを想っている人が居る。どうにもならないこの気持ちをうまく言語がしてくれる人が居る。

わたしはここだよ。

私もそうだったんだ。知ってほしかったんだ。

みんなそうなのかもしれない。

 

例えば、好きなアーティストのライブに行って、できることなら最前列でみたい、移動の時にハイタッチをしたい。というのは好きならきっと思うはずだ。それはあなたの音楽に何かしら影響されて私があって、そんな私があなたに会いに来た。知ってほしい。という想いの表れで、そ当たり前のことなのかもしれない。

それを、凄い熱だな、迷惑に思われると、みるのはちょっと違ったんだ。

私の中には、どちらともいる。そしてどちらかと言えば、そう思ってはいけないという自分が強い。違う世界の人。その他大勢の自分が1人いてもいなくても変わらない。そんな私が知ってほしいなんて、おこがましいと。

アーティストの名前を呼ぶ人、MCに反応する人、手をぶんぶん振る人。

私はここだよの意思表明。

そんな人が羨ましかったんだ。

これを読んで、その気持ちはあって当然のことだから、恥ずかしがらなくてもいいよ、みっともないことじゃないよ、冷静を取り繕う必要はないんだよ。と誰かに許されたような気がした。

 

 

思い返してみると、好きだなあと思ったものには、なんらかの形で私でも会えるチャンスがあるなら、応募したり、声をかけたり、足を運んでみたり、近くで見ていられる環境に踏み込んでみるということを最近はしていたように思う。

全部、がちっと繋がらなくとも、何か広がり次に繋がっていく。

まだ自分を出すというのは苦手だ。

自分の言葉を探しにいってみつけるのが苦手だ。

言葉は人格を表しますが、沈黙はそれを隠してしまいます」

うん、ほんとに。

言葉を出す練習をしようと思う。

借り物でもいいから、まずは出す。

そしたらいつか自分の言葉がさくさくと発見でき出せるようになるかもしれない。

土門さんが放ち続けている心、言葉は、こうして私のところにも届いた。

 

 

 

最後に、この記事を読んで浮かんだ曲、SUPER BEAVERの「ことば」も良ければ聴いてほしい


SUPER BEAVER「ことば」MV (Full)