ordinary day

思ったことを気ままに。自分を構成するものとは。他者とは。旅や自然。

交換日記~勝手にお返事⑦~

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久々ですが、

さくちゃん蘭ちゃんのそもそも交換日記。

 

「真に存在するものは過去でも未来でもなく、ただ現在だけである」|サクちゃん蘭ちゃんのそもそも交換日記|土門蘭/桜林直子|cakes(ケイクス)

 

今回の回で書いてあるのは、前回サクちゃんから蘭ちゃんへの質問。

「負けん気や嫉妬心はありますか?あるとしたら。それはどんなときに起こりますか?」

について。

蘭ちゃんはめちゃくちゃあるとのこと。

 

嫉妬心は「ほしいものを自覚するためのもの」、負けん気は「自覚したあとに『やってやらぁ!』と努力するためのガソリン」でしょうか。

 

思うにわたしの場合、「わたしも欲しい!」って認めてしまうと嫉妬心ってなくなるんですね。

 
認めた瞬間から、「そっか、じゃあそのために何ができるかな?」って建設的に考え始めるからです。目標が定まると、そこまでの道を探し始める。負けん気はその勢いをつけてくれるもの。だからわたしにとって、負けん気が起こるときは割とポジティブな状態なんですね。    

逆に嫉妬心が起こるときはネガティブな状態です。「わたしも欲しい!」って素直に認められないから、本当は欲しいぶどうを「あのぶどうは酸っぱい」と貶めます。

 

負けん気と嫉妬心について、こんな風にちゃんと考えたことがなかった私は、なんだかすごくしっくりきた。

が、私は負けん気と言うものに最近出会っていないように感じる。

逆に「羨ましい」という思いがよく生じる。

羨ましい=嫉妬心

でも蘭ちゃんのように「あのぶどうは酸っぱい」とは思わない。

「あのぶどうは自分には到底手に入れられない」と、自分と世界が違うと切り離して諦めている。

それは良くない。

『勝手に自分とあの人は違う世界だと壁を作って距離を作ってる』

いつかある人に言われた。


こんな風に絵が描けていいな。ピアノが弾けていいな。体を使えていいな。自分を表現できていいな。人の心に響くことができていいな。

私は見る側だから。なんて、相変わらずなこと。

 

 

「羨ましい」がふつふつと湧き出たとき、私もしたい!欲しい!となったとしても、それ以降に繋がらない。

最初にまず、人を見て欲しいだなんて、本当にこれは自分の意思なのかな?ただつられただけなのでは?と問いただす。

それと同時に、じゃあどうすれば?

と考えるけど大体なにも分からない。とにかくやってみる!しか出てこなくて、最初はいくらかやってみるけど、そこから広がりが出ないから結局やめてしまう。

そんなに欲しい物じゃなかったんだ。

とすり抜けていく。

で、また何かのきっかけで息を吹き返すけど、この繰り返し。

  

私には考えて応用していく力が足りないのかもしれない。

具体性がない。現実性がない。やってみればなんとかなるかも。

方法のレパートリーが少ない。

色んなことは、やみくもにただ数をこなせば手に入れられるかと言えばそうじゃない。

 

もう一つは「自分が自分の意思でそれが欲しいんだ」と言い切る気持ち。 

それが決まらないからいつまでたっても地に足がついていない状態。何も決まらない。



 

 

 だから、嫉妬心を覚えるたびに、「ああ、ここに、認めてないけど本当は欲しいものがあるんだな」って思うようにしています。

 

だからわたしがもっとも欲しいものは、「自分のために動いてくれる自分」。
自分の好きなもの・欲しいものをきちんと把握し、それを自分に与えてくれる自分なんですね。

 

 

 

いくつもの「羨ましい」の根元になるものはなんだろうか?

と考えたら

「人の心を動かす」

ということのように思う。

だったら手段はなんでもいいのだろうか?

でも、そうだと人の心は動かないのだと思う。

本来は、人の心を動かすためにするのではなく、自分が魂を込めることに人の心が動く。

だから私は、「羨ましい」の分類から始めようと思う。

これは、その行為自体が羨ましいのか、人の心を動かせるものを持っているその人が羨ましいのか。

そこをきちんと区別して、自分のために動いてあげないと。

この区別の時点で、自分の感情や意見やよくない思考癖が横から入ってくるので、もう一人冷静に事実だけを淡々と振り分けてくれる自分がいたらいいのになんて思う。


 

久々にライブに行ってきた。tacicaです。

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久々にライブに行ってきた。
今のご時世、色んな考えがあると思うけど…
私は私の考えで。


何ヵ月ぶりのライブだろう?
記憶を遡ってみたら、昨年の BUMP OF CHICKEN の「aurora ark」 ベイサイド大阪で9月に行われたのに行ったのが最後だった。
それからは、チケットを購入したものの延期になってしまったライブが数々…
それはまだ延期のまま宙ぶらりんだったり、振替公演が来年に予定されていたりする。


そんな中での約1年ぶりのライブ。
あれこれと状況は違うけれども、ライブを行ってくれて、 観客を入れてくる。近くにも来てくれる。それならば、私が行ける状況で、タイミングが合うならば行く以外の選択肢はなかった。


今回行ったのは、私が 中学の時から共にしてきた音楽、「tacica」のライブ「Songfolk」 。


大阪と名古屋の2公演。
どちらも仕事終わりでの参加。
一言で言うと、めちゃくちゃ良かった!!!
会場ではもちろん、たくさんの対策がしてある。 マスク、アルコール、シールド、トレーでの金銭渡し、間隔を開けた座席、着席での ライブ。
もちろん喋ることもない。
最初は少し違和感があったけど、ライブが始まれば 何にも変わらなかった。
生の演奏と声、空気感、ライト、音、 揺れ、 表情…
めちゃくちゃ痺れた。肌で、耳で目で、奥底で感じるって最高。
音楽って素晴らしいな。


元々、感情表現を表に出すのが得意ではなく、 ライブで凄くハイになるわけじゃない。自分なりに 楽しんでるんだけど;;
そんな私にとっては、人との距離をある程度保って、ゆっくり見て聴いて音楽を楽しめる空間でもあった。
これはこれで良かった。
確かに熱量の少なさとか寂しさはあるけど。
でも、変わらないなものはあった。

もちろん配信もしてくれて、画面の前で、という選択をとる人もそれはそれで正しいと思う。
行った人たちもそれはそれで正しい。

ライブに行く前からのそわそわ感、電車を乗り継いで、会場を目指す。
開場前の整列、グッズ売り場、 開場してから番号を呼ばれるまでのどきどき、 チケットのもぎり、会場に入った 瞬間、ステージの機材、楽器、 どこの席でこのライブを楽しむか、 終わった後の興奮、ぽっかり感、ざわつき、帰ってからも冷めない興奮、 誰かに共有したいけど 誰に話したらいいのかわからない余韻。

言語化できないものがまだまだたくさんあるけど、そんな全部の感覚が 久々すぎて、幸せだった。
私としては、ライブという目的で違う土地に行くというのもまた1つの楽しみ。

知らないまちを歩くって、目に入る全てが違う。安心感も違う。人や常識や文化も違う。世界が広がる感じがして楽しいから。



tacicaの空気感は顕在。
猪狩さんの歌、声はほんと最高。
いや、なんなんだろう。ここまで響かせるものはなんなんだろう。一体彼のなにがそうさせるのかと本気で考えた夜。
ギターの掛け合い、ベースライン、ドラムのリズム。うっとりした。
媒体を通して聴くものとは違う。
その日そのだけのその一時のもの。
生きた、音だ。
ずっと憶えてはいられないけど、ちゃんと届きます。
久々にグッズも買った。アノラックパーカーで色味も良くて、普段使いできそう!と思い。



1つだけ、会場後から開演までの1時間、着席して待つ事はもの凄くしんどかった。(個人的に坐位が腰に来るのも含め)
皆が座って皆が静かにして待ってて、大体の人は携帯を見てる。
それがものすごい違和感だった。 仕方ないけど。
この感じならもう少しぎりぎりに中に入っても良いかなと思った。
キャパ何千のライブハウスに、総勢50人以下(多分)が間隔をあけて着席なので、どこでも不自由なく楽しむことはできるかと。


やっぱり音楽には魅力がある。
ライブには力がある。
人にはエネルギーがある。
直に会って、直に感じてこそだなと。改めて。
このタイミングでライブに行けたことに感謝。


忘れていたもの、枯渇していたものが潤った感覚だった。
私の大切なものがここにあった。

2020.11.10 西脇市~加東市 散策 

この日は本当はもっと先に行こうと思っていたけど、家で色々していたら出るのが遅くなり(計画性…w)、西脇以降に行く電車がかなり後しかなかったので西脇駅下車。

 
JR加古川駅から北上する、加古川線
西脇行きは、1車両。ワンマン。
違うまちの路線バスや路面電車もそうだけど、乗り降りの場所、運賃の支払い方が違うから、少しドキドキするんだよね。
 
1箱に収まった人々。
お年寄り、お仕事、里帰り、学生、山歩き。
いつも乗る電車より、一人一人の色が濃く思えるのはなぜなんだろう。
単純に人が少ないから、人混みに紛れることができないからなのだろうか。
とかなんとか頭を巡っているうちに、うとうとし始め…
西脇駅に着く。
駅から出たら、同じ電車から降りた人々の家族の、お出迎え。
バスも本数がなく、駅から家までに距離があり、足がない田舎ならではだ。これも。
 
いちいち記憶にある懐かしさを感じながら行く。
とにかく私は歩かなきゃ。
 
お昼前についたので、近くのカフェまで歩き、そこで腹ごしらえ。
 
 
そして、再び歩き始める。
途中何に出会えるか楽しみにしながら。
目的地は播磨中央公園にした。
 
流れる川、太陽の光、反射、かかる橋、通り過ぎる自転車、学生たち、道端の花。

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気持ちいい。
 
偶然みつけたコスモス畑。
看板の「どうぞ どうぞ」
という言葉が印象的だった。
 

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「どうぞ!どうぞ!お入りください!
どうぞ!コスモス迷路で楽しんでください。(ベビーカーOKです)
どうぞ!秋の素敵な写真をたくさんお撮りください。
どうぞ!お家の花瓶にもお花をお持ち帰りください。
どうぞ!どうぞ!また来てください!!」
 
誰が考えたんだろう。素敵な言葉たちだ。
と少しの間中に入って楽しんだ。

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そしてまた歩き出す。

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田んぼと田んぼの間を歩いたり、川沿いを歩いたり。
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再び、たまたま辿り着いた
 
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すごい迫力。ゴツゴツした岩場。
飛び鮎の名所として有名らしい。
 
岩場にも下りて歩き回った。

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人1人いないので、自由に。

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探検みたいで凄い楽しかった~。
私がこんなに楽しいなら子供とか家族で楽しめそう。
小さい子はちょっと危ないか…
 
と存分に堪能してまた歩き出す。
 
途中、春日神社という神社に立ち寄ってお参りをした。
 
そしてもう少しあるいて、滝野駅へ到着。
そこから播磨中央公園に続いているのでさらに進む。
 
園内に入り、自然を感じながら。

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地面はアスファルトで道幅も広い。綺麗に整備されている。
たまに人とすれ違うくらい。
途中、遊具がある場所でちょっと遊んだ。
ブランコにも久々に乗った。気持ちよく、楽しかった~。
ブランコから降りたあとの鉄臭さ、懐かしかった。
いろいろ感じながら進んでいく。

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バラ園

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ここもまた家族連れで楽しめそうだなあと。
 
公園の出口へついた。
 
そしてまたまた歩いて社町駅へ向かった。
加古川行きの電車に乗る。
加古川行きは2車両。
丁度、通学通勤帰りの時間だったし、都会に向かう電車はやっぱり需要があるのかな。
これもまた色眼鏡なのかな。

心地よい電車の揺れで、またまたうとうとして帰った。

ひたすら自然と遊んだ1日となった。
 

1人の時間

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皆さんは、自分にとって大切な時間が分かりますか?

自分がなにをしたら心が落ち着いて、どこにいたらありのままの自分でいられるか、それを知っていることはとても大事だと思う今日この頃。


友達とお喋りする時間、1人でくつろぐ時間、運動する時間、本を読む時間、ゆっくりお風呂に浸かる時間、音楽を聴く時間……
色々ある。

それは人によって違うのは当然で、ある人にはとても心地よい時間が、ある人にはとても不快な時間になることもある。

同じ人でも、自分が欲しているときに欲している時間をあげないとこれまたしんどさに繋がる。

今、自分がどうなのか。
疲れている?誰かと話したい?1人になりたい?この場所本当に居たい?良くない習慣で時間を無駄にしてない?
そこをちゃんとわかってあげること。

でないと、見当違いなことをしてしまう。


そんな私は、最近、人と接していてなんか空回っていた。人と接する時にこう在るべき姿というものに頑張って成りきってみたけど、疲れる上にうまくいかない。
成りきるって本当の自分じゃないけど、ありのままの自分だけでもうまくいかない。
だから色々試してみた。でもなにかが違う。
とりあえず疲れたので、とにかく1人になりたかった。


電車旅をした。
ワンマン電車が1時間に1本くらいの自然多い場所へ。
気持ちよかった。
これまた行き当たりばったりの1日だったけどいい場所に出会えた。
そこについてはまた書こうと思う。


本で読んだことあるけど、
日本人の旅はどこか哀愁漂うというか、過去に想いを馳せている。
外国人はそれとは違って、今とこれからの新しいことへの期待で活き活きしているのが見て取れる。
とのこと。


日本人だから、外国人だからといって皆が皆そうではないとは思うけど。
確かに、旅をしていたり観光をしている人を見るとどちらかというのが見たら結構すぐに分かる。
私はというと、行ったり来たり。
懐かしい景色に出会うと、やっぱり生まれ育った地元の景色や記憶が思い浮かんで色々考えちゃう。
でも知らない場所を歩いたり、新しい場所に出会うととてもわくわくする。


「秋の空は七度半変わる」
というけれど、全くその通りだなぁ。
世話しなく陽が出たり陰ったりする秋空を感じながら、1人、思ったのでした。

バカの壁 / 養老孟子 を読んで

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有名な本なので読んだことがある人が多いかもしれないけど、

バカの壁(養老孟子著)を読んで私の中に入ってきたことを書いていきます。

 

 

この本の主旨を説明するならば、

自分の知っていること、知りたいこと、一元論というもので自分を囲った「バカの壁

その内側だけで物事を見ていると非常に危険。

一元論、100%正しいという思い込みは捨てるべきである。

自分の日常とは別の世界を見て自分で何か考えることが大切。

ということだと思う。

 

最後にもわかりやすく

 「あんたが100%、正しいと思ったって、寝ている間の自分の意見はそこには入ってないだろう。3分の1は違うかもしれないだろう。・・・・しかし人間、間違えるということを考慮に入れれば、自分が100%正しいと思っていたって50%は間違っている」

ということです。

 

「安易に「わかる」、「話せばわかる」、「絶対の真実がある」などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちていくのは、すぐです。一元論に住むと強固な壁の中に住むことになります。それは一見、楽なことです、しかし向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるのです。」

 

と書いてある。

 

 

どうだろうか。

日常生活でこの人には話しても無駄だから話すことを諦めるということをよくきく。

そういう人のことをよく、頭が固いと表現する。

こう言ったら誤解を招くかもしれないけど、夫婦間で妻が夫に対してそう言っていることが多いような気がする。(男性は思っているけど口に出さないだけかな?)

これも、「これ」という1つの壁でガッチガチに固められている為。

 

「分かっている、これはこうである」という思い込みも非常に危険。

その為にますます人は人の声に耳を貸さなくなる。自分は絶対だと思い込んでいるから。

 

途中に、

 

情報は不変。生き物は変わる。万物は流転するが「万物は流転する」という言葉は流転しない。それなのに今は逆転している。私は私。つまり己を情報だと規定すること。同一性を主張したとたんに自分自身が不変の情報と化してしまう。

 

 

という話があった。

 

新聞に載った記事は一週間経ってもその情報が変わることはない。

その新聞をみた人間の感じ方はその日と一週間後では変わってくることもある。それは人間が日々変わっているから。

確かに情報はそのままだ。次々に毎日ニュースが上がってくるのは、操作されたり上書きされたり新たな情報だ。だからこそ、情報を選ぶ目や取り入れる情報を選択していかなければならない。

変わらない基礎の情報を得ることが大切に思う。

 

例えば、身体のことならばトレーニング法をたくさん知るより、体の構成、筋肉のや骨格の性質が分かっていれば、嘘の情報も分かるし自分で考えてトレーニングを作ることができる。

 

料理だって、食材の持つ性質や作用や効能をしっていれば、これを食べれば痩せるとかといった情報に左右されずに自分で考えてメニューを組み立てることができる。

そういうのは不変な本物の情報と言える。

でも今はかなり情報が飽和していて、その大事な本物の部分が覆い隠されているからそこを勉強しなければならない。

 

人間は変わるというのはわかる。

1日で波がある。ずーっとフラットでいられるのはかなりの人格者だ。

でも変わらないというところもある。

大勢の場所では昔から息が詰まる。とか、威圧的な人にはどうしても委縮してしまう。とか。という性質ようなところ。

これは、この本に沿うと、自分を情報として捉えているから不変と考える。

自己同一性=情報化=脳社会

ということ。

自分を知るためには情報化することも大切だけど、それには自分は変わって当たり前という前提を持っていることが大切なのだ。

でないと今その時の自分自身を見つけることもできない。受け入れることができない。

 

変わるということに関して

「知る」ことは「変わること」ともある。

 

「知るということは、自分がガラッと変わることです。したがって、世界がまったくかわってしまう。見え方が変わってしまう。それが昨日までと殆ど同じ世界でも。」

 

 

人間社会では脳社会(意識的)を切り離すのは難しい。

からこそ無意識の部分が大事になってくる。

 

無意識を意識しろ、というのも矛盾した物言いですが、要は無意識が存在していること、そりてそれが重要な存在であることを自覚しなくなった、ということです。

無意識の状態だって身体はちゃんと動いています。心臓も動いているし、遺伝子が細胞を複製してどんどん増えて、いろんなことをやっているわけです。

それもあなたの人生だ、ということなのです。

 

無意識の一番身近な例は寝ている時。 

なので睡眠を無下にするべきでないのはこういうことからもくるのだ。

 

などなどと面白い話がたくさんある。

 

 

 

私の心に響く物や人や作品、はみんなそういうことを言っているなぁと思う。

今まで上手くいかなかった人間関係(家族も含め)は、こうでなきゃいけないとこうでなきゃいけないのぶつかり合い、もしくは諦めで相手の物の見方を知ろうとしなかったためなのかもしれない。

知るための会話、知った上での判断は必要。

尊敬できるのは、

自分はこれが好きでこれを信じているけど、あなたはどうなの?あなたが言っていることもそうかもしれない、なるほど。それも取り入れてみよう。というスタンスをもっている人。それも年齢関係なく。

それはこの話に通じること。

 

壁も完全に取っ払うべきかと言えばそうでもない気がする。

透明にしたり扉をつけたりする必要はありそうだ。

 

 

 

 

 

超バカの壁 (新潮新書 (149))

超バカの壁 (新潮新書 (149))

  • 作者:養老 孟司
  • 発売日: 2006/01/14
  • メディア: 新書
 

 

 

生活の中での気づき

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ぱっと惹きつけられた。

グレーのチェックのマフラー。

その場に寄って、しばらく立ち尽くしてその場をさった。

 

必要な用事が済み、またそこを通る。

やっぱり引き止められる。

悩んだあげく、購入。

 

 

こういう所だよなぁ。と思った。

私は、元々買う予定になかったものに惹きつけられたとしても、暫く止まって考えて、買わないことの方が多い。

「これを買いに来たんじゃない」「今はいらない」「好みだけど似たようなの持ってるし」

みたいに通り過ぎる。

だからこ今日は買うことにした。

これに限っては衝動買いと言えるし、良いか悪いかと聞かれれば分からない。

それで心が満たされるならありだと思う。思いがけない出会いって単純に嬉しいし。

でも、それをしすぎて管理できない人は物は増えるし、出費も増える。

好みなら同じようなものばかりが溜まっていく。

物もお金も心も全ては上手く循環させることが大事。

 

今回のことで自分は、物事に対して「ちょっと待って」「本当に必要?」「本当にこれでいい?」と立ち止まって考えて今まで通りや何もしないことを選ぶことが多い。

→最初の「これは!」に飛びつくことが足りていないのでは?必要なのでは?と感じた。

普段の小さな判断から癖はついているはずだから、少しそっちもできるようになれたら。

最終的にバランス良くに行きつくのだけれども。

自然にバランスが取れているのが一番いいなぁと思ったのでした。

 

 

 

そのお店で、今はどこも袋は有料化だけど、透明な袋にきちんといれてくれて、なんだかプレゼント貰ったみたいで嬉しかった。

あ、包装ってやっぱり大事なんだなぁ。と思った。

誕生日とかで、欲しいものを選んでレジでお金払って買ってもらうというのはありがちな話だけど、それってやっぱり味気ない。

今このご時世こそ、丁寧に包装されたものを貰えるっていうのは、久々の感覚でいつもよりもっともっと嬉しいことになるんだろうなと思った。

 

 

帰りに公園を歩道橋の上から眺めていたら、ギターを背負った1人の女性がベンチに座った。

暫くするとギターを取り出した。

私はイヤホンで音楽を聴いていたので「おっ!弾くのかな?こんなだだっ広い公園のそれも結構中央のベンチでやるなぁ~!かっこいい!」とイヤホンを外してみた。

音は聴こえなかった。

電子ギターなのかな?それとももっと近づいたら聴こえたのかな?と彼女の後ろ姿を上から見つめ、しばらくしてその場を離れた。

 

私はそういう人を見て、多分羨ましいと思っているんだ。

1人でもくもくと走りこんでいるひと、陸上のトレーニングをしている人。

その人たちも全て羨ましい。

周りなんて気にしない。

周りの目が気にならないくらい今に熱中できている。

そして公園という各々の自由の場。

心の中で勝手に応援する。

 

生活の端々で感じることは私そのもので、その事柄だけではなくて全てに準ずる。

 

 

 

ネット上の自分、生身の自分

昔は私にとってSNSはある種の逃げ場だった。
いつも関わっている人には出してはいけない、負やマイナスの自分を出せる場所。
出しても、その場の空気を悪くしてしまうという罪悪感、よっぽどのことをしない限り人に害を与えることはないから、そりゃもう吐き出す場所だった。
だからSNSと私は分離させていた。

それが今はもう(というか数年前から)SNSは情報発信の場になり、集客、ビジネス、サロン…
何年か前までは生身の世界が主役で憩いの場(?)みたいだったのに。
同等の場になっている。

沢山の人が情報や利益を求めて通信機器で駆け巡る。
となると、生身の世界にいるときと変わらなくなってきたような気がする。
どこまでも頑張らなきゃ、一定以上は常識のあるきちんとした人としていなきゃ。じゃないと生きていけない。
みたいな感覚がある。
え、私、どこで生きてるんだろう。


そもそものところは、人に弱いところを見せてはいけない。弱音やマイナス発言は人に悪影響を及ぼすからしないに限る。という思いが強い。
行き過ぎたらその通りだと思うけど。
でもそうやって自分を追い込んで行き場をなくして苦しんでいいことってあるのかな。

だとしたら、SNSだろうが生身の世界だろうが、楽しい私も負の私も怒りの私も出していくべきなんじゃない?
あれも好きだけどこれも好き。仕事はこれをしてるけど、こんなことにだって興味はあるよ。本読んでいるよ。
いろんな自分を出してもいいのでは?
自分というのはなにか1つが構成するものじゃないから。

さっきもかいたけど、それができないのは、
この場ではこういうスタンスできたからこれからもそうでないといけない。
負の自分はみる人を沈ませてしまう。明るくいなきゃ。
見当違いなことを言っていると思われる。
受け入れてもらえない。
という思い込みや、他人の目を無駄に意識しているから。自分はこれなんだって、自分はこれをしたいからしてるんだって自信を持って言えないから。

そこを転換できたらいい。

そしたら、SNSと生身が近付いてきて幾つものもので構成された私が存在できる気がする。
もう少しどちらでも心地よく居られる気がする。