ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

ぼやき

優しいって聞き飽きた。

人を決めつけるような、囲ってしまうような言葉を安易に使わない方がいいと思う。

思うのは自由だが、それを人に伝えるというのはある程度の責任を持つべきだと思う。

それはいい意味で言っていたとしても。

自分でそれをどうにかしなきゃと思っていたとしても、その言葉の型にはまってしまう人もいるのだ。 

そんなの、受け取った人の問題と言われるかもだけど、でも、言葉を発することへのある程度の責任は持ってほしい。

 

優しい 優しい 他に言うことないんかい

て思う。

ひねくれてんなぁ。

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たまに何かを話した時に「答えになっていないかもしれないけど」て最後によく言われる。

でもさあ 別に 答えが欲しくて話してるわけじゃないんだよね。

これは本気で全くもって。

自分の中に答えを探しに行くために 人に話してる。

あるいは、ただ自分から出してモヤモヤをすっきりさせるため。

頭にあった もやもやが 霧が晴れてすっきりする感覚がわかる。

そしたらもう気が済んでしまう。

聞く人は頑張って良い言葉を探してかけようとしてくれるけど、本当に気が済むから、からっと「ありがとう」ってなる。

 

だけど、最近少し思うのは、出し過ぎも良くないのかもということだ。

出してしまうとなんだかんだ自分の中で終わった感覚になってしまう。

だからもういいやって思ってしまう。

考えることをやめてしまう。

もやもや、悶々とするのは、決して楽しいことじゃないし むしろ 苦しいことなのだけど、自分の中で持っておいて、答えが見つかるまで置いておくというのは、必要なプロセスでもあるような気がする。

わかんないけど。

 

 

 

色んなことを、自分の尺度で決めたい。

人とも節度を持ってきちんとした距離感を保った上で遠座からず、関わっていきたい。

わたしのしあわせ

https://youtu.be/h4N00F1_zX8?si=MIF5P5eddUAwC-oz

言葉

言葉にすることで分断してしまうこともあるんだと思った。

自分とあなたは違いますよって自ら、隔たりを持たせてしまうこと。

何でも思ったことは言葉にしないと伝わらない。

とは思ってきたものの、それだけが全てじゃない。

言わなくていいことだってあるんだと思った。

どうせ言葉にしても その言葉が持つ意味は変換される。

 

それよりもその人の状態 こそが全てを表しているのだと。

 

ちょうど 最近 そういう言葉を人に言われた。

そして同じような内容の書いた本を読んだ。

その本には

「直接体験している出来事が言葉に置き換えられるということは、わずかでもそこに 時差が生じているということだ。」

 

「今まさに体験していることと言葉のズレ。」

 

「こうした 言語に置き換える業によって確実に失っていることがある。言葉で言えてしまう 以前の体の状態と距離を置き よそよそしくなれるからできることだ」 

 

「目の前にいる人が身悶えしている。納得のいく説明があって初めて 理解できるわけではない。相手の体がこちらに映ってしまう。理由は分からずとも苦しみがわかる。」

 

「事実は先に生じてしまっている。言葉はその後に遅れてやってくる」

 

「言葉を頼りないものだと言いたいのではなく、 言葉の使いどころを知らなければ、 本領を発揮できないということだ 」

 

誰よりもそれは自分がよくわかっていることだ。

人の目、それに一番よく反応しているのは 何よりも自分だ。

人の声、どれぐらいしまった声をしているのか 自分の声にさえ 反応するのに。

確かにそうだ。

人の言葉よりも 状態にフォーカスするって何よりも大事なのかもしれない。

誰が私の目をまっすぐ見て接してくれているのか。

それが何よりも、うまい言葉なんかよりも正直なコミュニケーションだ。 

 

お互い 反応し合うから 、どっちが悪いとかいうことじゃなくて、ただただ そういう事実 っていうだけ。

言葉を大事にしている分 、 破壊力の大きい事実だ。

本当はずっとずっと 知っていた。でも 言葉にもこだわっていた今、現在も。

ずっと信じてきたことが一気に 裏返って違う世界にいるようだ。

でも本にもあったように、言葉が嘘とか無力だとかと言いたいわけじゃない。

最近 しんどかったのはきっと こういうことだ。

一般的に聞くと前向きで明るい言葉たち、 その羅列がその意味さえもたないと感じていた。

それは相手の表情とその言葉が一致してないからだった。

ずっとずっと信じてきた大事にしてきた言葉が、なんだかペッラペラで無機質で機械的無表情で温度を持たないロボットみたいで、私はそこに深く傷ついていたし 、私自身もそうだった。

きっと それが一番つらかった。

状態と言葉が乖離してる。

 

スッキリしたような、 してないような。

分かったような、 わからないような 、まだ漂ってる。

 

 

 

言葉を突き刺す 私の好きな ヒグチアイのカバー

東京にて

 

https://youtu.be/_1mvngTtafQ?si=160cIf_WYaT8VY-D

2024.3.26

どうしても自分では抱えきれない、八方塞がりになるのは人に吐き出させてもらう。

いつも同じようなことを言って、私のことで時間を取るなんて申し訳ないとも思っている。

時間のなさ、大切さを分かっているからこそ。

いつも、ごめんねごめんね、って思いながらも吐き出してしまう。

そしてすっきりして、こんなことばっかり言ってただめだ、がんばろっ!

って戻ってくる。

私は本当にただただ吐き出したいだけなんだと思った。

ただただ受け止めてほしいだけなんだと。

 

きいてくれたんだから、時間を割いてくれたんだから存分に甘えよう。

そして、次会ったときは感謝の気持ちで接しよう。

感謝の気持ちはできるだけ伝えたい。でも言葉だけじゃ伝わらないもどかしさ。

 

私は話を聞いてほしいのに、自分の話なんて申し訳ないとか、筋道立てて話せないから変に思われるとか、オチもないからつまんないとか、勝手に思ってどんどん胸に詰まっていく。

胸が痛いのどが痛くなる。

 

自分が想像する「ちゃんと」にはなれない。

 

 

ある人が言った。

「対面ですること、教わる情報の太さは全然違う。」

その言葉をきいて、私の今までがなるほど!っとリンクした。

人と接してすることに、緊張感や相性はもちろんあるけど、それ以上に自分の中に入ってくるものが違う。

技術云々よりも、どんな風にその人が、その物事と向き合っているのか、ネットや文字では分からない、五感を通じての学びが必ずある。

その熱量が自分にも入ってくる。

それが何よりも人とすることのいい面なのでは。

私も、家で自分でストレッチをするのとピラティスの教室に行ってするのとでは、感覚が違う。

YouTubeをみて、ボイトレするのと、教室に行ってするのと。

1人で弾き語り練習するのと、誰かと合わせるのと。

人によっては合わないなという人もいるけど、それは仕方ない。

学びって「人」にあるなと改めて感じた。

だから、誰と一緒にいるか、環境ってすごく大事だ。

選択して動かなきゃ。

変化は怖いけど、新しいことに踏み出す、変化することは幸せなこと。

 

 

 

もう1つ…

気付かないところで、誰かの何かはその人が置いていくことによって誰かに少なからず影響しているというのを実感したことがある。

あるお客様がミントを受付に持ってきた。

「ご自由にお食べください。」という文言を鉢に書いて。

お客様みんな、お会計のときの手持ち無沙汰に話のネタにする。

食べる人もいれば敬遠する人もいるが、どちらも影響を与えている。

ある人は持って帰って、水に差して根を生やして鉢に植えたとも。

(あぁ、こうやって広がっていくんだな)

って感じた。

ひとりで大事に抱えているよりもずっといいことがあるし、ずっと人に何かを渡している。

本当に大事なものは、むやみやたらにばらまかなくとも、ある程度の物なら、共有した方がずっとっずっといいんだなと思った。

自分がこんなことしても意味ないとか、何にもなってないとか思うことばかりだけど、そんなことないんだな。って。

見返りを求めないまでの境地にまではまだまだいけなくとも、良いものだからシェアしたい!みんなにも伝えたい!それが誰かの何かになればいいなというささやかな見返りをもって、行動していくことは、なかなかいいことだなと思った。

 

疲れた話。

意外と大丈夫だったを繰り返す。

それが自信を作るっていうけど、

大丈夫だったというより、やっぱりしんどかったの方が多い。

なんでだろう?

ハードルが高すぎるのか、挑戦していることが自分にあっていないのか。

 

まぁ、挑戦というよりその場に行こうとして行ったことだけは褒めてあげよう。

その度胸は凄い。

 

ふぇ。

喉がきゅーきゅーして、体半分でしか呼吸してない感じ。

全体的に体が上に上がっている感じ。

鎖骨の真ん中の少し下が痛い。

たったの3時間そこにいただけなのに、凄いからだが凝っていた。

特に肩や胸あたり。頭も痛い。

力が入ってたんだなぁ。

やっぱり、知らない人の集まりに入るの本当に苦手なんだなぁ。

これって私にはできないことなのかなぁ。

これって少しはましになることあるなのかなぁ。

 

苦手に感じているから更にぎこちなるんだけど。

その瞬間に苦手意識が重なってさらにできなくさせている。

 

疲れた。

 

2024.3.18

私が冒険物語りがあまり好きじゃない理由が分かった気がする。

 

香川のホテルにてテレビを付けたらワンピースが放送されていた。

ワンピースも昔からやってるよなぁ。

番組ついてたこともあったけど、のめり込んで見たことがないんだよなぁ。

とのんびり眺めていた。

 

ふと、浮かんできた。

これは冒険の物語であり、行くとこ行くとこで出会う人が変わる。

主人公とその仲間たちが移動して、色んな人物がでてきて、その出会いによって成長だったり物事が解決する感じがある。

 

生活が見えないから、生活には根付いてないから

夢中になれないのかもしれない。

主人公たちの志というか、強い意志は見えるのだけど、この人たちがどういう生活をして、どういうものが好きなのか、が全く。

それはいつも一緒の服や言動からなんとなくの性格を読み取るしかできない。

だからなのだと思う。

 

逆に人の生活に根付いた物語。

わかりやすく言うと、サザエさんやまる子ちゃんは好きなのだ。

家(帰る場所)があり、生活圏内から外れず、登場人物が大体同じ。

その中の日常や暮らしの中での人との関係性や出来事から物語ができている。

 

そこにいる人あるもの存在自体がそのものを表しているにも関わらず、私は「この目の前の人は誰なんだろう。私は今なにをみて、誰といるんだろう。」という感覚に陥る。

今を感じることが苦手なのだろうか。

 

それが性質だからといって、自分の生活、生き方を偏らせてしまえば良いと決めれるほど容易い問題ではないと感じる。

 

背景を知ると同時に、今を感じることは等しく大事だと思うから。

 

どうなりたいか。どっちでありたいか。決められない。

 

だけどこれだけは分かる。

 

触れているものが自分にとっての当たり前になるから、なりたいものや好きなもの心地良いものに囲まれていることはやっぱり大事なのだと思う。

 

作品や音楽や人。全てそう。

 

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ヒグチアイのライブ、高松オリーブホールに行った。

今回は弾き語り。

 

前の日の夕方にバスに乗って、一泊して次の日の夕方からライブ。

こういうちょっとした遠出も久々だった。

 

 

あー良い!!

移動するって大事。

ライブだけを楽しみにして1日を過ごすってなんて素敵なんだろうか。

 

私は、ずっとどこかに行きたかったのかも。

いつもの生活の外側に。

 

香川県には、昔tacicaのライブで来た。

『群青』っていう曲があるんだけど、駅の向こう側の海の方がその曲似合うなって感じたのを思い出した。

 

高松駅周辺は困ることがないくらいの街だなぁと感じる。

商店街のアーケードがずっと伸びてて楽しい。

 

駅前でマルシェみたいなのをしていて、回ってみた。

売り子の方々が気さくに話してくれて嬉しかったし、楽しかった。

ついついたくさん買ってしまった。

 

 

朝ご飯はカフェで珈琲とエッグベネディクトを食べた。

店員さんが優しく素敵だった。

 

骨付鳥も食べた。

最初行って、名前を書き、電話して再び行くというスタイル。

そこの店員さんもみんな、はきはきして良かった。

おやどりを食べたのだけど、結構噛みごたえがある。

矯正中ということもあり、歯にかなり挟まってしまって、最後爪楊枝で取る作業がなかなか大変だった。笑

 

 

珈琲が飲める小さな書店にいった。

気になる本がたくさんあった。

最近の自分の興味は、仕事や生活、どうやったら苦しまずしてお金を稼げるか、言葉や話すことや伝えること。それらなんだということがわかった。

一冊、

『聞くこと、話すこと。』

という本を買った。

ここでも店員さんが話し掛けてくれた。

 

私の中で高松は、優しいあたたかいまち認定されました。

 

 

お金さえあればどこにでもいける。

人と話さなくたって。

だけど、どこかで人を求めているものだ。

 

 

ライブも良かった。

別に泣ける曲じゃなくとも泣いてしまったのは、今ここにいることがひどく嬉しかったからだ。

そして、ヒグチアイという人間を享受できていることが嬉しかったから。

ピアノと声が心地よかったから。

やっぱ凄いよ。弾き語りは。 

高松はヒグチアイが生まれた所。

お祖母ちゃんが見に来てたらしい。

だからか知らないけど、いつもより朗らかな顔してた気がする。

 

『誰かの何かを祈ることは自分をさしおいてということである。でもそれが終わった時に、その応援していたことが自分のプラスになる』

『幸せになろうね』

と言った。

わたしは最近自分のことばかりだったなぁと思った。

それが悪いわけじゃないし、そういうフェーズにいるのかもだけど、忘れていたなぁ。、

 

はぁ。

必要な時間だった。

 

これは、昨日のこと。

自分へのメッセージ

筋肉は裏切らない

 

というけど、本当だなと思う。

やった分だけついてくる。

 

筋トレをしているわけじゃない。

けど、私が感じるのは顔や口内の筋肉。

マニアックって思われるかもだけど。。

歌が上手くなりたいと、ボイトレや情報収集をし、口の開き方、下顎や上顎の使い方、口内の使い方、舌の使い方……

まだまだ私が気づいていない部分はあるけれど、そのへんを日々こうかな?こうかな?

と試した結果、

口周りの筋肉、笑顔の時の筋肉の使い方、口を閉じている時の状態、声を出す時の力の方向…

そういうのが変わる段階がわかるようになった。

もちろん、これは多分違う という変な癖がついたときもあって、いらない筋肉使って顔が痛いしあらたな癖付けするのに苦労をするときもある。

だけど、必ず時間と共に変わっていく。

それが明らかにわかる。

 

だから、努力や意識してれば必ず変わる。

1日ではもちろん変わらないし、こんなこと意味があるのかと悄気げてしまうこともあるけど…

 

変わるからね!!!

その気持ちがあって続けていれば絶対に!!

あなたはちゃんとつくっているよ。

 

 

と、頭があまりにも良くないことで支配されてやってらんないので、良いことを書いてみた。

 

自分から自分へのメッセージだ。

無駄なエネルギー 2024.3.16

え、しんどい。

 

新たに始めた所がしんどい。

 

同じ業種の掛け持ちってそんなにだめなのだろうか。

しかもたかがアルバイト。

今どきさ、競合ってね。

同じ業界なら業界を一緒に盛り上げたらいいのに。

 

それか、最初に言わなかったのが駄目だったかな?

3つ掛け持ちしてるの言わなかったのがだめだったかな?

でも、面接もしてないし、それって私だけが悪いのかな?

 

それをこの間話してからなんか対応が違う気がする。

 

まぁいいとして。

察して文化とか分からんし。

察して動くのと気遣って動くのと違いがよくわからん。

なんか、職場によって、言わずにやった方が美徳なところと、言ってやった方が美徳なところと、両方あって、わけわからん。

どこでも自分を貫いていたら、その場ではやりにくい。

職場によって適応して自分を偽ってたら本当にしんどい。

ということはやっぱりそこは合ってない場所なのかな。

サヨナラしたほうがいいかな。

精神衛生上全くよくない。

 

なんかこの、喉が詰まるような、息が詰まる感じ、常に人の気配を察して自分がどうするか動く感じ、昔に戻った気分だ。

真ん中のお姉ちゃんと一緒にいるときとか結構こんな感じだったんだよ

自分がどう動いたら良いかわからなくなって、何も言えなくなって、無表情になる。

感情をなくすのだ。

多分それは人から見たら飄々としている、クールに見られて、余計なんじゃこいつになるのかも。

 

でも、自分はそんな人を前になにかできることがあるのか。

自分の意見を主張したらもっと喧嘩になるくない?

伝え方が悪いのかな。

そもそもそんな人と仲を縮める必要があるのか。

 

もう、辞めたほうがよくないか。

こんなことに頭を使っている時間は私には無くない?

もったいなくない?

どうする?

 

 最近もらった言葉。

 

『できないことは置いていく』

BUMP OF CHICKENの「同じドアをくぐれたら」が思い浮かんだ。