ordinary day

思ったことを気ままに。自分を構成するものとは。他者とは。旅や自然。

ほうっておいてはくれない

ここにいるのは私だけ ではない

その証拠に いろんな音が聴こえる

地面から跳ね上がるボール

自転車のベル

低い声 と 甲高いわめき声

どこからともなく鳥たちの声が無数に

私の背中には幹 硬いようで優しい

見上げれば 美しい青に松

みんなみんな 知らん顔

それなのに

誰も私をほうっておいてはくれない

交換日記 ~勝手にお返事⑨~

この回を読んで、頭に浮かんだことをゆっくりと~。


(因みに、この交換日記、GW特別で今日まで(5月5日)全回無料公開みたい!気になっている方は是非!)


cakes.mu




私のなかに「鬼コーチ」はいると思う。

昔はそればかりだった。
あの人もやってるから、私もなにかしないと。
体育の記録だって、普段のテストや内申点だって、維持か超え続けなきゃ。
あの人がそう言ってくれるから、頑張らなきゃ。
始めたからにはやり続けなきゃ。
言ったからにはちゃんとやらなきゃ。
超えたら次、超えたら次の繰り返し。


そんな私が少しずつ、
それ本当にしたい?
だれの為?
そのペースで最後までやれる?
それ今できる?そんな状態になってまですること?
とある程度のことは自分と相談して決めるようになってきている。

それはこの交換日記との出会いから、沢山の人や本から学んできたのだと思う。


自分に閉じていっているときは、自分の気持ちがとにかく頭をぐるぐる巡っている。
それを、もう1人の私が寄り添えるようになっている。
しんどいね。でもその何が具体的にしんどいの?どの部分が不安なの?という感じに。
これまでは、周りにも助けも求められないし、自分にも助けを求められない。味方はこの世に1人も居なかったのだ。
(信じれるのは自分だけ)
なんてことを思ながら、本当は自分のことさえも信じられていなかったのだ。
ようやく、自分を自分の味方にしている最中なのだと思う。
感情が湧いている自分と、それを静観する自分。
たまに、静観する自分が感情の渦に巻き込まれて同化してしまうこともあるけど、なんとか2人に戻ってくれる。



サクちゃんが「他人にしかできないことがあります。それは自分を調子にのせることです」
と書いているので考えてみた。
私は他人の言葉「上手!」「凄い!」をきいたとき、わっ!と胸が弾む。
けどすぐさま(いやいや、これは裏があるかも。どういうつもりでいったのだろう?私をコントロールしたいのかも。つけあがってはだめだ。)
という考えになってしまう。
いつまでだったか、疑うなんてことはなく信じて「それなら次はあれをやってみよう!」と力が湧いてきていたのは。
いつから疑うようになったのだろう。
接する人が狭まっている今、ますます特定の人の言葉は信じられなくなってしまったのだ。
大体、人の反応のパターンというのに気づいてしまって、なんとなく、(この人にとってのこの言葉は挨拶のようなものなんだな。それを真に受けるなんてバカみたい)と感じるのだ。
かといって、自分が自分を調子に乗せることなんて到底できはしなくて、どうしたら良い意味で調子に乗れのだろうと考えている。
これも自分が自分のことわかっていたら、人にどう言われたってぶれないんだろうけど。自分ととの信頼関係から他者との信頼関係。

そういえばある人が、「自分の責任でその人を信じるかどうか決める」って言っていた。
自分の責任でその人を信じたら、裏切られたとしても自分がそう決めたんだからもういい。と。
分かるようで難しい。
それって、BUMPOFCHICKENの飴玉の唄の

「僕は君を信じたから もう裏切られることはない
 だってもし 裏切られても それが解らないから
 どうか君じゃなく ならないで」

と同じこといってるよね。と思った。
どんな君も信じるって決めたから、ありのままの君でいてくれたら大丈夫だよって。
いや、これはなかなかできる事ではない。
人を信じるのは怖い。というのはその分人にのめり込んでしまいがちだから。
人を良いとこばかりでくくってしまうから。人の醜さ、弱さを受け入れる器が私にはまだまだないからなぁ。
今のその姿をみているのではなく、思い込み、残像によるもので、この人はこうだと決めつけているから、思いがけないことがあると、何この人?こんな人だったの?ってなるのだろう。
人も私も。
どうにか、いつも真っ新な目で色んなものを見れないだろうか。
過去に留まっていたらこの先も難しい。


人の言葉で左右されるように、言葉には力がある。
それを良く受け取るか悪く受け取るか決めるのは自分自身。
自分のコンデションや物事の捉え方、その人の伝え方と、言葉の選び方と、関係性。
明らかに悪意があるもの以外とは、できるだけ誤解無いように受け取り合いたいもの。
間違えたならいくらでも訂正し合えるように。「それってこういう意味?」「こう捉えてたけどそうじゃなかったの?」「ちがうよ。こういう意味だよ」と。
そう言い合える関係性。
まずは、自分の想いや気持ちをきちんと見つめて言葉にするところから。表現や人へ。
どこをとっても、自分自身との関係性が大事なのだと思える。
そこから他者への関係性に繋がっていくのだろう。

私はこれを知っている

職場で、くつくつ、くつくつ…
誰かが果物を煮ていた。


胸の奥底にじんわりと暖かい熱が届いた感覚があった。

実家の台所から聞こえる煮物の音。
勿体ないからと部屋の明かりを付けずに、流しにある明かりを灯して暗がりの中に立つ母の後ろ姿。
静けさの中に、くつくつ、くつくつ…

私はこれを知っているんだ。
幸せなことだと思った。
それだけで十分な気がした。

road

毎日同じ道をゆき 同じとこに行く

同じものを手に取り 同じようなものを食べる

それなのに変わらない 嘆いている

気付いてないのかい 自分がつくっているんだ

 

猫だって道路を歩く そんな目で見るなよ あんた

どこにいるの お互い様 私はここにいるの

けど 声をあげても 叫んでも 言葉を綴っても

君にも 届かない

 

毎朝 着る服見繕い 部屋の外に出る

向かうべき場所は決まっている 脇目もふらずに

けど 焦ることはない なんだって自分をつくるよ

胸を張って歩くには 着飾ってでも ゆかなきゃ

 

猫だって身繕いはするし そんなに気にするなよ あんた

どこにいるの 確かなはずなのに

言葉に溢れたその中で 潜って探しても

ほんとうに気付けない

 

ーーーーー

 

 

そのうち、伴奏を付けれたらと思っていたり…

与える人

私が定期的に救われるのは、店員さんの笑顔。


大抵そういう時は無理して人と接していて疲れているとき。閉じていっているとき。
なのだ。
だから自分が日常で接する人に笑顔を作れていない、無表情で接している。話も上手く噛み合わない、表面をつるつる滑り倒している。
すると当たり前だけど、相手も笑顔が減り、会話も続かない、よくない雰囲気になる。
それが分かるので、がんばって明るく接しようとする。だが、本当はそうできない自分なのだから、(なんで頑張らなきゃいけないの。無理。)という自分が内にいるので更に状況が悪化する。
そして自己嫌悪。

それが続くと立ち直る方法がわからなくて、何をするにも気持ちが浮かない。生活が少しずつ乱れてくる。できるだけ人と離れる。けど何か満たされない。
なんとか底辺でやり過ごすしかない。
世の中の人が皆私だけに冷たく接してるのではないか、私だけ居ないものとされているのではないかと思ってしまう。
冷静に考えてそんなわけないのに。

そんなときに、救われるのが、店員さんの分け隔てない笑顔。営業スマイルとはまた違うもの。
あっ、私も皆と同じで良いんだ。普通に接してくれるんだ。
と気持ちが立て直る。
そんな店員さんも頻繁に出会うことはないけど、やっぱり他の店員さんとは明らかに違う。人格者だなぁと思う。


そんな人ばかりじゃないし、私も全く及ばない。
大体やり取りの全ては、私の自信の無い声、目線、表情が相手をつくっている。
一枚上手な人は与える人。人に影響されない。
先に笑顔でこっちに語りかけるような声、表情、動き、目がある。
それで人に何かを渡している。


そんな人に出会う度、私もそんな与える人になりたいんだったと思い出すのです。
まだまだ先は長い。

銀河鉄道

「僕の体は止まったままで 時速200㎞を超えている

考えるほどにおかしな話だ 僕は止まったままなのに」

BUMPOFCHICKE / 銀河鉄道

 

ふとこのフレーズが思い浮かぶ。

時速200㎞はさすがにないけれど、今日はほぼ電車に乗って過ごした。

そしてほぼ寝ていた。

寝ているのに、移動している。

降り立った所で特別満たされることなく、滞在3時間くらいで、片道2時間40分掛かる電車に乗り込んだ。

何やってんだろう。

とにかく、目に入る景色を変えたかっただけなのかも。

 

 

この曲には、「僕は止まったまま」というフレーズが何度もでてくる。

この「止まったまま」は物理的にだけではないね。

僕自身の人生、日々が前進している感覚がなく、自身で分かっているけどどこに進めばいいのかという悶々とした状態で、人に言われるまえに「僕は止まったまま」と自分に当てつけ、困惑、苛立ちが混じったかのように繰り返し呪文のように唱える。

最後には「動いていないように思えていた僕だって進んでいる」と感情の落とし処を見つけるんだけれども。

 

 

電車は不思議だ。

 

真正面に座った人との微妙な心理的距離。

車両内の雰囲気。

乗車人数が少ない時の変な仲間意識。

 

電車は、心地よい。

夜、よく眠れないのに電車ではすぐ眠たくなる。

電車は、乗車や下車してくる人数や年齢層で大体この駅周辺はどんなまちかが想像つく。

車窓から見える景色で暮らしを想像する。

電車では椅子取りゲームがあるみたい。

 

どこに行っても、少し進めば定期的に景色が変わる。

家々が、高い建物が、田んぼと山々が、大きな川と橋と整備された河原、並木道、公園…さほど変わらないね。違うのは人なのかもね。

今日降りたまちでは、自転車の人が横断歩道のだいぶ後ろで信号待ちするのが印象的だった。歩行者の邪魔にならないように道をふさがないようにだ。きっと。

その人だけかと思いきや、みんなそうだったので、このまちに根付いているんだとすぐに分かった。

心配り。

良く考えれば当たり前のこと。でもそういう光景をあまり見たことないし、自分もしてこなかったので、はっとした。

 

 

この曲、銀河鉄道は乗車時間に起きたことと僕の感情の描写がされている。

その瞬間を切り取った詞といえばそうだけど、人生という長い目の視点もある。

私は止まったままでも、常に外も内も変化をし続けている。

これが本当の電車旅なのかもしれない。

今日のそんな1日。

 

同じ話題を繰り返し話す人

しばらくたつと、「同じ話題を同じように何度も話す人」にどのように接したらいいか。

で密かに悩んでいる。

なんて小さい悩み…なんて言わないで欲しい。

私はそのことが不快なのだ。退屈なのだ。だから悩んでいる。

私が一枚上手ならば、返答でいい方向に持っていけるのだろうが、それが今はできない。

話し手も心地よく会話をすすめていくには何か方法がないのか。

変わらずうんうんと聞くしかないのか。

それとも発展させる受け答えを身に付ける術があるのか。

 

 

 

私がそのことについて感じること

 

・私は深い話を好む傾向がある。

→だから、何度も何度も表面をなぞるような同じ話題に疲れる。

 

・何度も話すというのは、私と話したことを忘れている?

→私との会話は話したいから話しているわけではなく、その場をやり過ごすためのもので特に意味はないんだな。という悲しみ。

 

・相手も本当に話たいことはそこにはないのだろう。と距離を感じる

 

・その話、前も聞きました。と言えない。

→そう言うことが、相手にとって失礼と思っている。

話題を遮って言うのも微妙だし、全部きいた後にいうのも微妙だとおもう。

 

 

 

その人をみての考察

・コミュニケーションをとって場の雰囲気をよくしようとしている。

 →場の雰囲気作りは大切だし、会話がないより会話がある方が私も嬉しい。

  だけど、なんだか機械みたい。なんというか、こう、ぽんぽん連鎖していくような本当に思っている会話がしたい。

 ↓

人は相手によって話せる話題が違い、相手によって興味を示す話題が限られるので、ジャンルが絞られる。(それは私も仕方ないしそりゃそうだよね。と思っている。)

例えば、この人とはゲームの話、この人とは食の話、この人とは音楽の話…

 ↓

そのように、話題が4つくらいでループしている。

 

 

 

 

今の私の接し方

・今初めて話すように話されるので、心で(またこの話…)と思いながら、「そうなんですね。」「へぇ~」などと返し、早く話題が切りあがるようにしている。

→ここで問題なのが、「またこの話…」と相手冷たい目で見るような感覚で頭がいっぱいになってしまうこと。

その負の感情で相手を見ると良いことは何一つない。

そして結局会話が続かない。相手が話して終わりという一方通行。

 

 

 

 

 

解決策

・「前も聞きました。それからなにか変わりましたか?」

と、素直に前も聞いたことを打ち明け、その時からの変化をきき、話に流れを促す。

 

くらいです。

 

その人とどういう関係でありたいかによって変わってくるかもしれません。

皆さんのご意見、良い技があれば教えてください。