ordinary day

自分の心の向いてる方へ進んでいきたい。そんな思いとは裏腹で模索中な日々や想い。 大体いつも同じことを考えている。

バカの壁 / 養老孟子 を読んで

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有名な本なので読んだことがある人が多いかもしれないけど、

バカの壁(養老孟子著)を読んで私の中に入ってきたことを書いていきます。

 

 

この本の主旨を説明するならば、

自分の知っていること、知りたいこと、一元論というもので自分を囲った「バカの壁

その内側だけで物事を見ていると非常に危険。

一元論、100%正しいという思い込みは捨てるべきである。

自分の日常とは別の世界を見て自分で何か考えることが大切。

ということだと思う。

 

最後にもわかりやすく

 「あんたが100%、正しいと思ったって、寝ている間の自分の意見はそこには入ってないだろう。3分の1は違うかもしれないだろう。・・・・しかし人間、間違えるということを考慮に入れれば、自分が100%正しいと思っていたって50%は間違っている」

ということです。

 

「安易に「わかる」、「話せばわかる」、「絶対の真実がある」などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちていくのは、すぐです。一元論に住むと強固な壁の中に住むことになります。それは一見、楽なことです、しかし向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるのです。」

 

と書いてある。

 

 

どうだろうか。

日常生活でこの人には話しても無駄だから話すことを諦めるということをよくきく。

そういう人のことをよく、頭が固いと表現する。

こう言ったら誤解を招くかもしれないけど、夫婦間で妻が夫に対してそう言っていることが多いような気がする。(男性は思っているけど口に出さないだけかな?)

これも、「これ」という1つの壁でガッチガチに固められている為。

 

「分かっている、これはこうである」という思い込みも非常に危険。

その為にますます人は人の声に耳を貸さなくなる。自分は絶対だと思い込んでいるから。

 

途中に、

 

情報は不変。生き物は変わる。万物は流転するが「万物は流転する」という言葉は流転しない。それなのに今は逆転している。私は私。つまり己を情報だと規定すること。同一性を主張したとたんに自分自身が不変の情報と化してしまう。

 

 

という話があった。

 

新聞に載った記事は一週間経ってもその情報が変わることはない。

その新聞をみた人間の感じ方はその日と一週間後では変わってくることもある。それは人間が日々変わっているから。

確かに情報はそのままだ。次々に毎日ニュースが上がってくるのは、操作されたり上書きされたり新たな情報だ。だからこそ、情報を選ぶ目や取り入れる情報を選択していかなければならない。

変わらない基礎の情報を得ることが大切に思う。

 

例えば、身体のことならばトレーニング法をたくさん知るより、体の構成、筋肉のや骨格の性質が分かっていれば、嘘の情報も分かるし自分で考えてトレーニングを作ることができる。

 

料理だって、食材の持つ性質や作用や効能をしっていれば、これを食べれば痩せるとかといった情報に左右されずに自分で考えてメニューを組み立てることができる。

そういうのは不変な本物の情報と言える。

でも今はかなり情報が飽和していて、その大事な本物の部分が覆い隠されているからそこを勉強しなければならない。

 

人間は変わるというのはわかる。

1日で波がある。ずーっとフラットでいられるのはかなりの人格者だ。

でも変わらないというところもある。

大勢の場所では昔から息が詰まる。とか、威圧的な人にはどうしても委縮してしまう。とか。という性質ようなところ。

これは、この本に沿うと、自分を情報として捉えているから不変と考える。

自己同一性=情報化=脳社会

ということ。

自分を知るためには情報化することも大切だけど、それには自分は変わって当たり前という前提を持っていることが大切なのだ。

でないと今その時の自分自身を見つけることもできない。受け入れることができない。

 

変わるということに関して

「知る」ことは「変わること」ともある。

 

「知るということは、自分がガラッと変わることです。したがって、世界がまったくかわってしまう。見え方が変わってしまう。それが昨日までと殆ど同じ世界でも。」

 

 

人間社会では脳社会(意識的)を切り離すのは難しい。

からこそ無意識の部分が大事になってくる。

 

無意識を意識しろ、というのも矛盾した物言いですが、要は無意識が存在していること、そりてそれが重要な存在であることを自覚しなくなった、ということです。

無意識の状態だって身体はちゃんと動いています。心臓も動いているし、遺伝子が細胞を複製してどんどん増えて、いろんなことをやっているわけです。

それもあなたの人生だ、ということなのです。

 

無意識の一番身近な例は寝ている時。 

なので睡眠を無下にするべきでないのはこういうことからもくるのだ。

 

などなどと面白い話がたくさんある。

 

 

 

私の心に響く物や人や作品、はみんなそういうことを言っているなぁと思う。

今まで上手くいかなかった人間関係(家族も含め)は、こうでなきゃいけないとこうでなきゃいけないのぶつかり合い、もしくは諦めで相手の物の見方を知ろうとしなかったためなのかもしれない。

知るための会話、知った上での判断は必要。

尊敬できるのは、

自分はこれが好きでこれを信じているけど、あなたはどうなの?あなたが言っていることもそうかもしれない、なるほど。それも取り入れてみよう。というスタンスをもっている人。それも年齢関係なく。

それはこの話に通じること。

 

壁も完全に取っ払うべきかと言えばそうでもない気がする。

透明にしたり扉をつけたりする必要はありそうだ。

 

 

 

 

 

超バカの壁 (新潮新書 (149))

超バカの壁 (新潮新書 (149))

  • 作者:養老 孟司
  • 発売日: 2006/01/14
  • メディア: 新書
 

 

 

生活の中での気づき

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ぱっと惹きつけられた。

グレーのチェックのマフラー。

その場に寄って、しばらく立ち尽くしてその場をさった。

 

必要な用事が済み、またそこを通る。

やっぱり引き止められる。

悩んだあげく、購入。

 

 

こういう所だよなぁ。と思った。

私は、元々買う予定になかったものに惹きつけられたとしても、暫く止まって考えて、買わないことの方が多い。

「これを買いに来たんじゃない」「今はいらない」「好みだけど似たようなの持ってるし」

みたいに通り過ぎる。

だからこ今日は買うことにした。

これに限っては衝動買いと言えるし、良いか悪いかと聞かれれば分からない。

それで心が満たされるならありだと思う。思いがけない出会いって単純に嬉しいし。

でも、それをしすぎて管理できない人は物は増えるし、出費も増える。

好みなら同じようなものばかりが溜まっていく。

物もお金も心も全ては上手く循環させることが大事。

 

今回のことで自分は、物事に対して「ちょっと待って」「本当に必要?」「本当にこれでいい?」と立ち止まって考えて今まで通りや何もしないことを選ぶことが多い。

→最初の「これは!」に飛びつくことが足りていないのでは?必要なのでは?と感じた。

普段の小さな判断から癖はついているはずだから、少しそっちもできるようになれたら。

最終的にバランス良くに行きつくのだけれども。

自然にバランスが取れているのが一番いいなぁと思ったのでした。

 

 

 

そのお店で、今はどこも袋は有料化だけど、透明な袋にきちんといれてくれて、なんだかプレゼント貰ったみたいで嬉しかった。

あ、包装ってやっぱり大事なんだなぁ。と思った。

誕生日とかで、欲しいものを選んでレジでお金払って買ってもらうというのはありがちな話だけど、それってやっぱり味気ない。

今このご時世こそ、丁寧に包装されたものを貰えるっていうのは、久々の感覚でいつもよりもっともっと嬉しいことになるんだろうなと思った。

 

 

帰りに公園を歩道橋の上から眺めていたら、ギターを背負った1人の女性がベンチに座った。

暫くするとギターを取り出した。

私はイヤホンで音楽を聴いていたので「おっ!弾くのかな?こんなだだっ広い公園のそれも結構中央のベンチでやるなぁ~!かっこいい!」とイヤホンを外してみた。

音は聴こえなかった。

電子ギターなのかな?それとももっと近づいたら聴こえたのかな?と彼女の後ろ姿を上から見つめ、しばらくしてその場を離れた。

 

私はそういう人を見て、多分羨ましいと思っているんだ。

1人でもくもくと走りこんでいるひと、陸上のトレーニングをしている人。

その人たちも全て羨ましい。

周りなんて気にしない。

周りの目が気にならないくらい今に熱中できている。

そして公園という各々の自由の場。

心の中で勝手に応援する。

 

生活の端々で感じることは私そのもので、その事柄だけではなくて全てに準ずる。

 

 

 

ネット上の自分、生身の自分

昔は私にとってSNSはある種の逃げ場だった。
いつも関わっている人には出してはいけない、負やマイナスの自分を出せる場所。
出しても、その場の空気を悪くしてしまうという罪悪感、よっぽどのことをしない限り人に害を与えることはないから、そりゃもう吐き出す場所だった。
だからSNSと私は分離させていた。

それが今はもう(というか数年前から)SNSは情報発信の場になり、集客、ビジネス、サロン…
何年か前までは生身の世界が主役で憩いの場(?)みたいだったのに。
同等の場になっている。

沢山の人が情報や利益を求めて通信機器で駆け巡る。
となると、生身の世界にいるときと変わらなくなってきたような気がする。
どこまでも頑張らなきゃ、一定以上は常識のあるきちんとした人としていなきゃ。じゃないと生きていけない。
みたいな感覚がある。
え、私、どこで生きてるんだろう。


そもそものところは、人に弱いところを見せてはいけない。弱音やマイナス発言は人に悪影響を及ぼすからしないに限る。という思いが強い。
行き過ぎたらその通りだと思うけど。
でもそうやって自分を追い込んで行き場をなくして苦しんでいいことってあるのかな。

だとしたら、SNSだろうが生身の世界だろうが、楽しい私も負の私も怒りの私も出していくべきなんじゃない?
あれも好きだけどこれも好き。仕事はこれをしてるけど、こんなことにだって興味はあるよ。本読んでいるよ。
いろんな自分を出してもいいのでは?
自分というのはなにか1つが構成するものじゃないから。

さっきもかいたけど、それができないのは、
この場ではこういうスタンスできたからこれからもそうでないといけない。
負の自分はみる人を沈ませてしまう。明るくいなきゃ。
見当違いなことを言っていると思われる。
受け入れてもらえない。
という思い込みや、他人の目を無駄に意識しているから。自分はこれなんだって、自分はこれをしたいからしてるんだって自信を持って言えないから。

そこを転換できたらいい。

そしたら、SNSと生身が近付いてきて幾つものもので構成された私が存在できる気がする。
もう少しどちらでも心地よく居られる気がする。

武田尾廃線敷き 2020.9.15

数年前からあそこは良いよ~。
と聞いていた、武田尾廃線敷に行った。
ようやく、このタイミングで。

幾つか行き方はあるみたいだけど、西から行くので
今回は阪急西宮北口から今津線で宝塚まで。そこからJR宝塚線へ乗り換えて、生瀬(なまぜ)駅で下車。そこから歩くことに。
この時点で、11時くらい。

駅からは廃線敷き入り口まで意外に歩く。
大きい道路と武庫川沿いを20分位は歩いた。
最後小道を抜けて入り口へ。

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川の音、鳥の声、木々。
気持ちいい。



北山第一トンネル前はドキドキ…

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ついに噂のトンネルの中へ!
どんな感じかと思いきや、一つ目は意外に出口の光がすぐ見え、これならライトはいらないや。という感じ。


とにかく突き進む。
最初のほうは、平日だし、紅葉にもまだ早いので人が少なくて人がいなくて自然と私だけだった。

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北山第二トンネル。
ここは、長くてドキドキした。
ライトの光、目が暗闇に慣れていく感覚、ゴツゴツした地面、滴り落ちる水の音、遠くで響く人の声、だけど私1人。
怖いようなわくわくするような。
出口の光が見えたときはほっとした。

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綺麗。

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トンネルを掘り進んで、外と通じたときの感覚と同じだろうか。
これまた違うのかな。
このトンネルを掘った人がいるんだよなぁ。そもそも、ここを電車が走っていたんだよね。
普通に電車に乗ってガタンゴトン揺られても楽しめるだろうな。今はもう出来ないけど。
なんて思いながら。


途中、自然のスポットライトを楽しんだり。
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溝滝尾トンネルを抜けると…

これが噂の第二武庫川橋梁
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どんどん進む。
時間的にか、展望広場辺りを過ぎたらすれ違う人や、お弁当を食べている人が増えてきた。

途中、親水広場や桜の園とかいく場所はあったけど、この日はせっかくきたのに突き進むことしかしなかった。

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どんどん歩いて、武田尾駅方面の出口へ。


駅までは10分位。
なんだか、落ち着く駅だった。
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かなり整備されていて歩きやすかった。
今回は2時間30分くらいかけて歩いた。なんだか気持ちがせかせかしていて、ただただもくもくと歩いてしまった。
もっとゆっくりしていくと1日楽しめそう。
夏は親水広場で遊んだり、春は桜、秋は紅葉。
いいかんじ。

自然は、いまここに在る自分と向き合える。
自分だけの時間。
まちを歩くのとは全然違うものがある。

うるさい

何かが違う。
何のための自分なんだろう。

「気にかけて欲しい。 面倒を見て欲しい。 お節介になってほしい。それで辞めるのはもったいない 。上の人間が 環境を作ってあげなきゃ。
自分たちでやりやすい環境を作っていって欲しい。 」
それはごもっともだと思う。
けど 頭でわかってても私にはモヤモヤするものがあった。 喉の辺りで何かがつかえている。
感情、 言葉にならない想い。それはきっとここで出してはいけない想い。

このモヤモヤは何なのか。
自分は甘えたいのかな。
じゃあ私のことは誰が見てくれるのなんてことを思ってしまった。
社会として組織として、上の人が下の人を気にかける。それは当然のこと。
なんだけど、たまに思う。
年齢とか関係なくない? あるけど。 余裕がある人が、 心に余白がある人が、それぞれがそれぞれを 気にかけていたら いいのでは···??
それって違うのかな。
人間関係ってそうなんじゃない。仕事云々、スキル云々置いといて、 そこからじゃない?
最近また傷ついた これも被害妄想なのかな。
声をかけても 届かない時ってある。
そういう時は もう放っとこうってなる。
私も人、相手も人。 噛み合わない時もある 。
けどそれをスルーするスキルが私にはまだない。仏みたいな心は持ち合わせていない。 どうしても傷つく。勝手に。だから、もういいや。
なんて思っていたところ。
自分だっていつも 面倒見てくれましたか?
私のためというより、 会社のためなのでは?
なんて思っている時点で負け。この思考がもう未熟。
言いたい事が言えない。言うこと自体諦めている。
信じられない、人も自分も。 私はもう、ここにはいない。


「 自分たちでやりやすい環境を作っていく」
当たり前のことだけど私はそれをやってこなかった。
昔から我慢すればいい。
あるもので。どうせ声を上げても意味がない。声を上げるのも面倒だ。 と諦めてきた。
言わないとわからないのに。変わるものも変わらないのに。それが染みついている。
より良くする方法は そこら辺に溢れているのに。 それさえにも気づかない、見ようとしない。 今揃っているもので 周りにあるもので充分とは言えないけれど、それでしか手段がないかのように、閉じこめられているかのよう。一向に声を上げることをしない。
遠慮がち、控えめと言われるけど、そうじゃない。ただただ言っても無駄だと諦めている。尚更たちが悪い。
そういう生き方をしてきた。 それが周りに回っている。
どうしてそうなったかは、過去からの積み重ねなのだろうけど。
それよりどうしていけばいいかに目を向けられたらいい。
最近 ようやく「自分が心地よく生きるためには どうしていけばいいか」 それを考えるようになったのだ。
少しずつだけど 動いてもいると思う。時間の使い方も 変わってきたと思う。ようやくだ。
我慢しなくてもいい。我慢は美徳ではない。より良くするために自分で動けるほどにはもう大人だ。
でもその「自分のため」にさえ、まだ染み付いていない。
そんな中で、人のためにが出来ない。
やろうとしても何かが違う。からまわる。

一体、私に何を求めているんだ。
人としてまだまだなのは承知なので、私のペースでいかせてください。

という鬱憤。
今日の一曲は
「うるさい/SUPERBEAVER」
に決まり。

で、切り替えよう。
良き1日に。

ドリップコーヒーのWSにて。

昨日と今日、自分のなかでイベントがあった。
思考的には繋がっているのだけど、今日の方の出来事を…


コーヒードリップのワークショップに行った。

学んだことは

『正解はない』

ということ

『これだけはよくない、しない』

ということはあっても、

『これだけが正解』

というものはない。


大前提は、『全ては好み』

その人が満足できているなら、正解。


だから、自分の『好き』を知っていることが大事。

自信をもって『これが美味しい』と言えることがなによりも大事。

その淹れ方を知っているか、見つけているかどうかだけ。

同じ豆で、時間や量を同じにしても人によって味が全然違う。
人の性質と言えばそうだけど、性質によって淹れ方に癖が出るからそうなる。

お店で出すならそれがぶれないように、レシピがあって決まった行程と訓練が必要。



今回何種類か の豆を 飲み比べて、 自分はこれが好きというのがはっきり分かった。
それが単純に嬉しかった。

というのは、自分はこれが好き と言える物が最近よく分からなかったから。
何をするにしてもどこかの情報や 誰かの声 そんなのを気にしていたのかもしれない。
それを基準に していたのかもしれない。
自分のいいを感じるより、 誰かのいいを そうなのかなあと流されるように自分のモノなのかのように 扱っていたのかもしれない。
誰もそんな事言ってないのに、 こうなれって言われているように感じて、 誰かのせいにして よく分からないところをぐるぐる回っていたのかもしれない。

好きな味は自分で決めて良いんだ。
万人受けするとかは置いといて、 まずは自分の好きがなきゃ。

自分の好きは自分で決めなきゃ、 自分のことは自分で決めなきゃ、 自分の嫌いも自分で決めなきゃ。
誰にもわかるわけがない。
誰がどう言おうと私はそれが好き 私はそれが嫌い ということは 自分にとっては一番大事。
周りのそれとは切り離して、持っていることが大事。

何事にも言える。
自分が好きなものが分かってないと、どうしたら良いか分からない。どこに向かえばいいのか分からない。
もう一度、自分を知ろう。


『好きに辿り着くために試行錯誤する』

そんな趣旨とは違う何かを分かりやすく学んだ気がする。

交換日記~勝手にお返事⑥~

cakes.mu

 

前々回辺りから人間関係について

「密室化」か「ドーナツ化」かについてそれぞれ書いてあった。

 

人間関係について。

昔から常々考えている。

 

そんな私はというと

「密室化し損ねたドーナツ化」

かなと思う。

 

昔から。

好きな人は好き。怠けるし、なんでも話すし、笑顔はこぼれるし、正面から見つめることができる、無口でもいられる。

私の好きな人は安心していられる人。

できるだけ一緒にいたい。他の人にはあまり目がいかなくなる。

 

苦手な人、馬が合わない人

なんか緊張する、何を話したら良いか分からない。どこをみたら良いか分からない、目を合わせるのが怖い。

 

と二極化する。密室化まっしぐらと思いきや…

ある日突然どこかを越えると、好きな人との距離が分からなくなる。

この人にはこの人の人生があって私には私の人生がある。交わる必要性はそもそもない。それを前提にするならこれ以上近付いたらあとで傷付くのは私だ。ここで調節しなきゃ。私は私で立たなきゃ。

と本当はそんなことないのにしっかりしているふりをする。

あまり自分のことを話さなくなる。

または、人の言動を凄くマイナスに捉えて、「あっ違ったんだ。求めるのは同じ関係性ではなかったんだ」と。聞いたり、相手に傷付いたということを伝えるわけでもなく、話し合いをするわけでもなく、勝手に傷付いて後づさって、これ以上深入りしないように一歩引いた接し方に徹底する。それどころか、この人は私を傷つける存在(敵)なんだと思うようになることもある。これはかなり重症。被害妄想もいいとこ。

だけど今でも明らかにあって、(つい最近もあった)自覚しているだけまだましかとも思うけど、自覚してもどうしていけばいいのかわからないのが問題。

 

すると気づいたら自分で壁をつくって、好きな人もいつの間にかドーナツ化だ。

ぽっかり空いた穴の中央線で自分から遠ざけたのに寂しさを味わう。

 

だから、さくちゃんが書いていた

その相手と

「どんな関係性を望んでいるか」

というのを自分で理解しておくことは本当に大事だと思う。

そしてまずなりたい関係性が現実的であるか、持続可能であるかは取り敢えず最初の最初は置いといて、自分の素直な気持ちを否定せずに受け入れることは私にとても大事な気がする。

あれこれ考えるのはその後だ。

違うかな。

 

 

でもそう考えていると、今までそういう風にしか関係を築けなかったので、「どんな関係性になりたいか」

の選択肢がほとんど思い浮かばない。

「側でみていたいか、そうでもないか。」

その二択かな。

どちらにしてもちょっと遠いきもする。

 

男女関係なく、気の合う人、安心していられる人に出会えるというのは本当にありがたいことだと思う。

だからその関係性、繋がりの可能性を自らの思い込みで失くしてしまわないようにしていきたいという今日この頃。

 

 

でも、仕事が絡むとどうもそうもいかなくなるなぁとも思う。

 

恋愛にもどうもいきつかない。

この先も私がそれを求めるのはちょっと難しいのかな。とも思っている。

それもきっと思い込みなのだけれども、根本的な人との関わり方、私の考え方を変えなければ難しいのだと思う。

 

この頑なに張り付いた思いこみ、どうやったら剥がしていけるのだろうか。

 

こんな性格だから、なにか自分が生きやすくなるヒントはないかと色々な本を読んできたし、人と話す中で考えてきた。

「人間の悩みはほとんど人間関係」

「人間の根本的な性格は家庭環境による要因が大きい」

というのは何度も目にしてきた。

 

家庭環境は、人生で最初の集団生活。

それがどうも上手くできなかったよなあ。

私は愛情は受けていたと思う。三姉妹の末っ子だし、可愛がって貰った。甘やかされた。姉がレールを敷いてくれた。決められた中での自由があった。

だけど、それらを真っ直ぐ受けとることが出来なかったのかな。

姉という存在は大きかった。

常に比較対象でもあった。

権力があったように思う。変な緊張感があった。機嫌を損ねないようにしていた。

家でも殻をつくってきたし、周りもまたそれを私だと認知してきた。


この歳まできて、ようやく自分は昔から繊細で敏感だったのかも?と気付いた。
だからといって生活が打って変わるわけではないし、それが役立つこともないけど。
自分で固い殻を作ってそこに触れないように守ってきたのだとも。

 

どこが最初で、どこから変えていけばいいのかわからない。

でもサクちゃんが書いているように、もう関係性は自分で選んでいくことができる。

誰をそばで見ていたいか、どういう関係性を作りたいか。の選択肢がもっと増やしていけたらいいなと思う。

「うれしい!たのしい!大好き!」待ち。

ともあるように、私のわくわくを取り戻したい。

「何が好きだったか」「小さい頃のわくわく」

今はわくわくさえにも制限がかかっている感じがする。

もしかしてなんらかの過去によってそれが排除されていることもある。もしくは美化されていることもある。

最近は、自分の持つプログラムを書き換えるように働きかけるNLPに興味がある。

上に書いている、被害妄想のプログラムを書き換えることが可能なのかもしれない。

「動きと心の関係」とか「呼吸がもたらす作用」とか「脳と心」とかにも。

理屈、感情、動き、会話、今一度いろんな所からヒントをもらいながら、再構築していきたいところ。