言葉にすることで分断してしまうこともあるんだと思った。
自分とあなたは違いますよって自ら、隔たりを持たせてしまうこと。
何でも思ったことは言葉にしないと伝わらない。
とは思ってきたものの、それだけが全てじゃない。
言わなくていいことだってあるんだと思った。
どうせ言葉にしても その言葉が持つ意味は変換される。
それよりもその人の状態 こそが全てを表しているのだと。
ちょうど 最近 そういう言葉を人に言われた。
そして同じような内容の書いた本を読んだ。
その本には
「直接体験している出来事が言葉に置き換えられるということは、わずかでもそこに 時差が生じているということだ。」
「今まさに体験していることと言葉のズレ。」
「こうした 言語に置き換える業によって確実に失っていることがある。言葉で言えてしまう 以前の体の状態と距離を置き よそよそしくなれるからできることだ」
「目の前にいる人が身悶えしている。納得のいく説明があって初めて 理解できるわけではない。相手の体がこちらに映ってしまう。理由は分からずとも苦しみがわかる。」
「事実は先に生じてしまっている。言葉はその後に遅れてやってくる」
「言葉を頼りないものだと言いたいのではなく、 言葉の使いどころを知らなければ、 本領を発揮できないということだ 」
誰よりもそれは自分がよくわかっていることだ。
人の目、それに一番よく反応しているのは 何よりも自分だ。
人の声、どれぐらいしまった声をしているのか 自分の声にさえ 反応するのに。
確かにそうだ。
人の言葉よりも 状態にフォーカスするって何よりも大事なのかもしれない。
誰が私の目をまっすぐ見て接してくれているのか。
それが何よりも、うまい言葉なんかよりも正直なコミュニケーションだ。
お互い 反応し合うから 、どっちが悪いとかいうことじゃなくて、ただただ そういう事実 っていうだけ。
言葉を大事にしている分 、 破壊力の大きい事実だ。
本当はずっとずっと 知っていた。でも 言葉にもこだわっていた今、現在も。
ずっと信じてきたことが一気に 裏返って違う世界にいるようだ。
でも本にもあったように、言葉が嘘とか無力だとかと言いたいわけじゃない。
最近 しんどかったのはきっと こういうことだ。
一般的に聞くと前向きで明るい言葉たち、 その羅列がその意味さえもたないと感じていた。
それは相手の表情とその言葉が一致してないからだった。
ずっとずっと信じてきた大事にしてきた言葉が、なんだかペッラペラで無機質で機械的無表情で温度を持たないロボットみたいで、私はそこに深く傷ついていたし 、私自身もそうだった。
きっと それが一番つらかった。
状態と言葉が乖離してる。
スッキリしたような、 してないような。
分かったような、 わからないような 、まだ漂ってる。
言葉を突き刺す 私の好きな ヒグチアイのカバー
東京にて