ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

人の褒め言葉を素直に受け取れない

「人の言葉を素直に受け取れない」

疑り深いわたし。

それはどうしてか。

どうしても言葉の先を考えてしまうから

この人はなんでこんなことを言っているのか

その言葉にはどういう想いがこめられているのか

特に、人から問われたときと、褒められたとき

色んな説が一気に頭に思い浮かんできてしまう。



例えば、「今日○○しないよね?」と聞かれたとする。
するならする。しないならしない。
それだけ答えたら◎なはず。
だけど私は、(この人は空いた時間で何かをしたいから聞いているのか、既に今日は他にしたいことがあるからしない運びに持っていかせたいのか。しねいよね?と若干決めつけているのですると言うのはは良くないだろうか)と頭に浮かんでくる。
これはもう無意識のように、考える癖が染みついている。
意外とみんな「どうして」の方は言葉にしない。私は「どうして」を自動的に探しに行く。

ここまで書いて、それは相手の求めていることに応えたい…じゃなくて、応えなきゃという思考癖が私の中にあるのだ。と感じる。
良くも悪くも、もうそれが私の中の当たり前になっている。

人から褒め言葉をもらった時こそ重症。
まず、心を固くする。その言葉をそのまま受け入れないように。鵜吞みにしないように。守りに入る。
頭では(この人はなんでこんなことを言うのだろう。私をうまく使えるようにするためか、打ち解けたいのかな、気持ちよくさせて離れないようにするためか、だまされないぞ、信じないぞ)なんてことが浮かんでくる。


どうしてここまでなのか…
1つ思い当たることがある。

いくつかの本で、「相手と距離を縮めるなら褒めから入ろう」とか「注意するときは褒めから入ろう」とか…
いわゆる「褒めて伸ばす」というやつの増幅版とでもいえる。
それを読んでから、私の過去の認知がすり替わってしまった。
あの時からだった気がする。


必要以上に褒めてくる人がいた。
私はその時はそのまま受け取っていたのだけれども、その本を読んでからは私をいい気にさせて操りたかっただけじゃないかな。と
その人は、会うたびに何かしらを褒めた。
私の靴や身に付けているもの考え方。
しまいには、使っていたハサミをかっこいいと大げさに褒めた。
さすがに自分でも、何言ってんのこの人。と違和感があったけれども。
その人は私で実験していたように思う。
ま、本当のところはわかりませんが。
そういうことだったんだ。
と妙に納得をしてしまった。

職場でも褒めから入って、でももっとこうした方がいいよ。と言われてきた。

あぁ、そうか。皆あの手この手をつかっているんだな。
私は何にも知らなかった。
みんな本当に思ったことを言っていたわけじゃなくて、人と距離を縮めるためや気持ちよくやり取りをするための手法なんだ。
と全部真に受けていた自分がばかみたいに思えた。

そこから人に褒められるということが怖くなった模様。



私はそれでいいとは思っていない。
手法として使っているのは物事が円滑に回るには必要なこともあるだろうから、大袈裟すぎない程度に使えばいいと思う。
営業の人とかそうしている人が多く感じるし。
それはそれでいい。
あまりにも分かりやすかったら、あーそうですか。両手合わせて南無。と心で唱えておこう。

問題なのは、私の認識。
褒め言葉を素直に受け止められないのはとても悲しくて虚しい。
ずっとこのままなのは嫌…


暫く経って、また何かで読んだ。
「人の発した言葉、その人が感じたことにあなたがとやかく言う必要はない。その言葉以上でも以下でもない。そのまま受け取ればいいのです。」
その人が私をみて少なからずそう感じたことのその言葉を選んで伝えてくれた。その事実だけでいいということ。
その人を感じたことを受け入れない、否定する、すり替えるというのは逆に失礼だということ。

そう思えたら素敵だよね。としか今の私は思えない。
そうなるには、感じない、必要以上に深読みしないしかないのだろうか。
そんなことできるかな。
これまた時間がかかりそう。




何度もこの話題をしてきたのだけれども、昨日ボイストレーニングでそう感じる自分がいたので思考の整理として書いた。
そもそも人に教わるのが苦手になったのもここからきている。
「褒めて伸ばす」
というのが習い事では多い。
自分的に工程やどうしてそうなったのかが繋がってなくて納得していないのに、褒められては困る。
何にたいしても本当のことを言ってほしい、本当のことで繋がりたい。おべっかで繋がるなんて虚しいじゃないか。
ストイックな私なのかもしれない。
かといって厳しいだけのも苦手だけど…笑