ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

今のわたし

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ike on Instagram: “2020.4.7 #桜 #春 #お散歩 #木 #自然 #光 #ひなた#花 #空”

 

桜を眺めて歩く
あ、長田弘さんの詩がよみたい
そう思った
今までも自然のなかを歩くとそう思うことがあった

あれは、いつだっただろうか
私が専門学校に入学する前に姉と嵐山に桜を見に行った
あの時心底感動したのを覚えている

あの日以来の感動の桜をもう何年もみていない
あれは私の心が見せたものだったのだろうか

年々桜の見頃が良く分からなくなってきている
これはもうちょっと先が見頃だなぁ
と思っていたら、あれ、もう葉っぱが出てきてる!
いや、でも先はまだつぼみがついてる
でももうちらちらと舞っている
明らかにこれは全盛期は過ぎたな…
おかしいな、見頃はいつだったの?
とここ数年、桜の見頃に対してなんだかもやもやした気持ちで終わっている
その年の気候による違いもあるんだろう
まぁ、でも、木によって、場所によって、日のあたり具合によって、始まりも終わりも全然違って、全部が一斉に咲き乱れることなんてあり得ないね
ようやく本質が見えてきたのだろうか

並木よりも一本ぽつんとだけれどもどっしりと立っている木の方が、花の密度が濃いなぁと思う
桜は遠くからみると「ぽんぽん」してるなぁと思う。
昔から思う。そこがかわいい。
近くで見るのは咲き始めより、散り際の中心が赤く染まってるのがかわいい。
好みの話。
咲き乱れる花の下にいくとちょっとだけ気持ち悪く思うときもある。
花の中心がなんだか私に襲ってきそうな感じがしてしまって。

さて、ここにきて、この世の中の状態にちょっと疲れてきてしまってる自分に気付いた。
最初こそはちよっと遠くの世界の話で気にしすぎたら疲れちゃうから情報もあんまり取らなくていいやと思っていた。
けどやっぱりそうはいかないみたい。ここまできたら、日々の変化を知るために情報を自分から見ていかなきゃいけない。
でそれってやっぱり疲労しちゃうね。
自分から望む変化じゃなくて適応、順応していかなきゃならないのはやっぱりしんどいね。

私はこういう現実的な、堅実的な、経済的な話が昔から苦手だ。
なんだろう。命を守りたいのに経済も守らなければならない。みたいな。
世の中の仕組みをきちんと分かっていない、まだまだお子様な私は、両方なんて無理だよ。お金のことはあとで良くない?助け合えば生きていけるだなんて思っている。
でもそんなの、生活にそれほど影響を受けてないし、仕事もあるし、いざというときは両親に頼ることができるし、抱えているものが少ない、という私だから言えるのだろう。
立場が違えば、環境が違えば全く違うんだろう。
あと現実逃避。日頃からこの社会という枠組みに違和感を感じるというかなんだか自分が合ってない気がしてならない延長線。

仕事はというと、こういう時私がしている仕事は多分なくてもあっても困らない存在なのかな。
食事は家で作ればできる。ちょっとの工夫で楽しむことができる。
別に素材や原料を作っているわけでもなく、必要不可欠ではない。
リモートワークに切り替えることはできない。
テイクアウトやお弁当に対応しているところが増えたけど、だからといって何がどうなるのか。
ちょっとでもお金が入るようにしなければやっていけない。
ちょっとでもほっとした時間を届けたい、今自分にできることを。
色んな立場で色んな考えで人々が選んでいるのが良くわかる。

普段人との繋がりをどういう風にしているかも大事になってくるなぁと思う。
あの人大丈夫かな?いつもいくあのお店はどうなってるのかな。と思わず浮かんでくるような。自分にはあまり影響はないから助けになることはないかという余力。
俳優さんやミュージシャンや芸術家。大なり小なり普段から人と人と与えて受け取ってをしている人々は、できることをできる方法ですることで影響力があるし、かっこいいなぁと思う。
私はというと、今はないけど仕事をしばらく営業停止しますとなったら、個人として私としてなにができるんだと考えてしまう。
フリーでしている人やある程度の有名店は、レシピを公開しているところもあるけど、おそらく私は仕事でしていることに関して人にできることってない。
私が仕事としていることは、私の為にも人の為にもなってないのだろうか。だとすれば、本当にわたしのしていることってなんなんだろう。
かといって、他にできることもない。
私にできることって、自分の生活をより丁寧にすることと、思い浮かぶ人の心配をすることぐらい。なんもないなって。役に立たないなって。元気が有り余っていれば人にそれを渡せるかもしれないけど生憎そんな精神力も持ち合わせていない。
いつもより丁寧にご飯を作って、ゆっくり散歩をする。自然に元気をもらう。眠たくなったら眠る。歌いたくなったら歌う。

私の中にある不安やしんどさ。
周りの人がしんどそう。
生活が何かで制御される感覚。
こういうときに直面する私のなにもなさ。
人と会って話したいけど、それは今はあまりすべきではない、するのはよくないという葛藤。

のように弱いつながりが少しの期間断たれようとしていること。

いつも物理的な面より精神的な面にくる。
現状、ありがたいことに生活にほぼ変化はないので、あまり気に病むこともなくいつも通りに生活していけばいいだけなのだけれども。
どうも弱い。
過信は良くないし、こんなこと言うのは不謹慎だけど、今まで通りいくと私は何事もなく収束した時間に居られる。
こういうときだから、私が普段だったら受け取らない人知らない人たちの言葉とか映像が入ってくるようになった。
身近の小さなコーヒーショップが某バンドと繋がりがあってその人の言及によって通販の発注が増えたこと。そういう応援の仕方もあるな。と思った。

星野源さんの「うちで踊ろう」は最高だなぁと思ったこと。星野源さんやっぱり素敵な人だなぁと。

おばたのお兄さんのインスタのかまじい、最高だなぁと思った。お笑いとか、テレビとか何がおかしいのかと思っていた時期があって長らく離れているけど、こういうのにも救いはあるなぁ…というか私の好きな笑い。一気に好きになったよ(単純)

星野源さんのうちで踊ろうにハモりも入れてた。普通に綺麗なハモりだった。

「まーきの」しか言わない人かと思ってたから新たな発見!

 

 

 

 

 

 

 

いや、はい。疲れているので、色々書いて整理したかったのだけども、整理できなかった。

通常運転で、いろいろ感じながら、過ごしています。

シビアに考えていかなきゃいけない部分がたくさんあるとは思うけど、ただただ人と笑い合いたいなぁと思う日々です。

ささやかな

熱したフライパンに少しの油

そこに卵を割り入れる

ジュワッ パチパチパチ

入れた瞬間の音の歯切れのいいこと

黄身は半熟がいい

お湯の湧く音 コーヒーの引く音 薫り  トースターの時間を刻む音

朝はたくさんの刺激で溢れている

程よく色のついた食パンの上に ハムとチーズと胡椒と卵

机の上に一杯の珈琲と

いろいろがぎゅっと詰まったそれにかぶりつく

ひとりの人間の ささやかな1日の始め方

交換日記 ~勝手にお返事②~

昨夜何時間もかかってこちらの交換日記の考えを書いた。

これは、今後も勝手に参加させていただいている感覚で続けたいなぁと思ったので、勝手にお返事とサブタイトルをつけてみた。笑

 

 

cakes.mu 東京でクッキー屋をしている桜林直子さんと京都で小説家として文章を書く土門蘭さんの交換日記。 

cakes.mu

 

今回はその③

「自由とは、壁に囲まれた個人の領域のようなもの 」

を題目に書かれた、蘭ちゃんからサクちゃんへのお返事について。

 

2回目「友達は両思いからはじまる」のサクちゃんから蘭ちゃんへのお返事はタイムリーでは見たんだけど、今は有料記事になっていて読めないので飛ばしました…(購読はしていないので)

これもなるほどなぁと読んだ記憶はあるのだけれどもしっかりとは覚えてない。

でも、この題目は今回私が書くこととリンクしているのかもしれない。

 

さて、今回はサクちゃんから

「蘭ちゃんは誰かに会ったとき、その人の何を見ていますか?人間関係の苦労や悩みはどんなところに生まれますか?」 

 と問いかけられた質問に対して書き進められる。

 これに答えるために、まずは自分にとって何がいちばん大事なのか考えた。

わたしにとっていちばん大事なものは”自由”
自由”というのは「自分の考えや欲求を否定されず、自分の行動を阻害されない」ということ。お互いの「自由」を尊重し合う。
おそらくこれが、わたしが人間関係でもっとも大事にしているもの。

 


逆に言えば、「お互いの『自由』を尊重し合う」ことができなくなったときが、人間関係において苦労や悩みを感じるとき

 

とあり、過去に友達が彼女以外と遊んだことに対して「私の一番は蘭ちゃんなんだから蘭ちゃんも自分を優先してよ」と怒って喧嘩したこと。

それは 人や場面こそ変わりすれ、友達、仕事、恋愛、家族間で再現されてきた。

ともある。

最初の問い「誰かに会ったとき、その人の何を見ていますか?」に戻ると…

「ひとりでいられる人かどうか」

「自由」とはある意味で、壁に囲まれた個人の領域

そういう壁を持っている人を見ると安心するのかもしれない

それは、ノックすることがあると思うけれどよろしくね。わたしの壁も必要であればいつでもノックしてよっていうこと。 

 

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まず、「自分にとって一番大事なものは何か」なぁ…と考えた。

浮かんでは消え、浮かんでは消え、1つに絞れない。

そこで、「人間関係の苦労や悩みはどんなところに生まれるか」=自分が人との関わりの中で嫌だと感じることと置き換えて先に考えてみた。

 

真っ先に浮かんだのは、「人が私を変えようとする。」ことだと思った。

詳しく言うと、生活や思考、私の中にある私というものを、勝手にこっちの方がいいよ。とこっちの方が正しいよ。と変えようと働きかけること。それをあからさまに感じる発言や態度のことかな。

自分の思想、考えが絶対的。こうであるべき、あなたもこうなりなさい。あなたはこうあるべき、と押し付けられること。

そういう時は窮屈で苦しくて仕方がない。

それは、私はこうだと思うけど、あなたはこうだと思うんだね。それはそれでいいと思う。もし変化を望むなら力になるし、じっくり待つし見守っているよ。

というスタンスとは全く違うこと。

どちらも自分の意見は主張しているけど、前者が人がいない。人をひとりの人とみなしていない。後者は自分を持った上で、人をひとりの人として(他者は自分とは全く別のものであるということ前提の上で)尊重している。

私は後者な人間だ。それはある種の諦めでもある。

人と分かりあうことは到底無理。どんなに頑張っても人は変えられない。むしろそれを望むこと自体よくない。望みや想いは気付かぬうちに態度に出て、言葉にでて、表情に出て、雰囲気にでて関係をぎくしゃくさせてしまう。と知ったから。その上で。

 

と考えると、大事なものは「尊重」かな。

それは「自由」ともいえるかもしれないし「適度な距離」ともいえるかもしれない。

「尊重」の中に「自由」や「適度な距離」やがあるのかもしれないし、「自由」の中に「尊重」や「適度な距離」があるのかもしれない。「適度な距離」の中には「ずかずか入り込んでこない礼儀」や「同じくらいの開き具合」があるのかもしれない。

それぞれが意味の中に入っていたり、独立したりしている。

 

だから、あぁ、言葉って人がそれぞれ意味を持たせているから、共通な認識は本当に難しいと思った。

土門さんが書いた「自由」と私のいう「自由」は似ているようで全く同じではない。

それは掘り下げても掘り下げても未知の領域だとおもう。

文中にも「人間がちがえば”自由”も異なります。」とある。

「自由」という言葉には無限の意味がある。他の言葉にだって。

人の数だけ、ひとりの人の中にさえ幾つもある。

だから私は、その人が言う言葉の意味をつい聞きたくなるんだ。同じ言葉を使っても認識は全く違うから。

 

そう考えていくと、

「誰かに会った時その人の何を見ていますか」

の今の私の答えが見えた気がした。

でもやっぱり1つに絞れなかった。

 

1つは

「発する言葉に込めるその人の純度」

 

1つは

「”人はひとり”という前提の意識があるか」

 

かな。

 

なんだか難しいけど、

前者は、その人が発する言葉、綴る言葉に、その人そのものを感じることができるか。

どれだけ言葉に自分の意味を持っているか、物語をもたせているか。

無意識的にその人はどんなスタンスで生きているということがわかる。

それを感じられる人はどんな環境や場面や人でも隠さずありのままの自分でということで、自分を尊重しているなぁと思う。それは私はこんな人ですけど、あなたはどう受け取りますか?という相手にも自由や尊重を与えているということなのかな。

 

後者も言えばおなじで、自分をひとりとして大事にすることができ、他者も全く別のひとりと尊重すること。少し寂しいと思いがちだけど、これは自分に対しても他者に対してもありのままが1番という状態なんだと思う。

明るいひとりという認識がその人の中にあるかを見ている気がする。

 

最終的にきちんとした「ひとり」と「ひとり」で接したいに行きつくので、この2つはそういう関係がこの人となら築けそうという判断材料になるのかな。

 

 

またまた書きすぎてよくわからなくなってきちゃった。

改めて自分の言葉を話すって難しいなぁと思う。

皆さん言語化がうまくて、誰かが読んで、あぁ、自分の感情ってこういうことだったのかも!と伝えられてて羨ましい。

私ももっと言葉を使えるようになりたい。

交換日記 ~勝手にお返事①~

凄く読んでいて面白いものがある。

cakes.mu



東京でクッキー屋をしている桜林直子さんと京都で小説家として文章を書く土門蘭さんの交換日記。
元々、土門蘭さんのTwitterをフォローしていて流れてきたので見てみたら、すごく惹かれるやり取りで、こういう話ができるっていいなぁと思いながら、私はどうだろうと考えながら読んでいる。
交換日記。小学生の頃、凄く流行った。個人的に好きだった。話せばいいのに、毎日学校で会う子とそれをする。手紙だってそう。
なんでなんだろう。
昔から、自分のことを言葉にして文字に書くということが大事なことだった。
今よりもずっとずっと口にできないことが多かった。
言葉の中に人を探していた。
のかな…

とても興味深いこの交換日記を勝手に私だったら…と整理してみたくてこの記事を書いている。




まず、第一回の土門蘭さんこと蘭ちゃんから桜林直子ことサクちゃんへ向けて。

「そもそも、友達になるってどういうことなんだろう」

という題目で書かれてる。


この交換日記はサクちゃんが蘭ちゃんの日記の内容をみて、サクちゃんからお誘いして始まったそう。
それまでは1度しか会ったことがなかったそう。
それについて蘭ちゃんは、

「このお誘いは”友達になろう”ということに近いと思う。どうしてサクちゃんはそう思ってくれたんだろう。どうして私は快諾できたんだろう。友達になるってどういうことだろう。」

と書いている。



自分なりの答えが書き進められる。


「昔から本当のことを話せる友達がいなくて苦痛だった。高校の時に、友達”になる”のではな友達を”つくる”をしてみようと決心。
 クラスの中から真剣に誰にするかを考えた。決めたのは発する言葉が好きだった女の子。食事に誘い、友達になってほしいと告げた。
 その子とは今でも友達。まるでデートに申し込んで恋人を作るかのよう。だけど恋人は注意深く相手を選び丁寧に事を進めながらつくるのに、友達はそうじゃないってなんだかおかしいかもとと思った。それからずっとそんな感じに友達をつくってきた。」

「どうやら私は言葉に惚れるところがある。サクちゃんの言葉はきちんと「ひとり」な言葉。私が人間関係全般に求めることなのかもしれない。「ひとり」と「ひとり」で向き合い、お互いから見える世界について語り合うこと。」

と私が引っかかった部分をざっくりと。



私はそこから考える。

私も、小さい頃は本当のことを話せる友達がいなかった。というか、話してはいけないと思っていた。私が考えていることは変なことというか陰の部分で、人には陽を見せなきゃいけないと思っていた。人とやっていくのはそういうものだと思っていた。
そして私の場合は土門さんとは逆で、友達は”作る”ものだと思っていて、友達に自然に”なる”ことに憧れていた。それって、私は小、中、高、専門と友達を作るというのは、ただ単にクラスや学年単位での立ち位置とかを考えたり、とりあえず1人になるのは避けたいという思いから焦って意図的に”作る”ということをしていたりしたからだと思う。
クラスの中を見渡して、いわゆる、取り仕切る子たちと仲良くなりたいと思った。カースト制度ではないけれどやっぱりそういうのはあった。
私はその頃は本当のことを分かっていなかった。自分の立場とか状況ばかりを気にしていた。
だから、一緒にいたグループや、一緒にいる子には本当のことが話せなかった。
途中でうすうす気づき始めた。私、無理してここにいる、全然気が休まらない、人の顔ばかりうかがってる、嫌われないように、と。
中2くらいから、無理しないで付き合える本当の友達が欲しいと思った。地位とかそんなのどうでもいい。むしろひっそり生きていきたい。
でも、そんなこと言ってもやっぱり、私は1人になりたくないとか、立ち位置、雰囲気で判断して声をかけて友達を作っていた。
いつも一緒にいる子にはやっぱり本当のことを話せる相手ではなかった。
私が一緒にいた子たちは、ただのお飾りだったのかな。自分ってそんなに酷い人間だったのかな。
今は1人が当たり前。良い意味で”ひとり”が大前提の生活だけど、その頃は1人は強がりで、怖くて仕方なかったんだと思う。
本当の自分を出したら嫌われる、暗いと思われると本当の自分を隠してたのかもしれない。嫌われたくないの裏返しでもあったのかも。ある程度の距離の子になら、変に思われてもいつも一緒にいるわけではないから学校生活に影響はない。とも思っていたのかな。

いつも一緒にいた子達とは縁は離れていき、今も残っている大事な友達は、ちょっと離れたその頃本当の気持ちを伝えていた子達だと気付いた。
逆に、いつも一緒に行動してた子達は1番疎遠になっている気がする。
今も続いている子達は会いたいといってくれて、そういう私の変な話も聞いてくれるし自分の想いも伝えてくれる。
その子達は私の言葉を待ってくれるし安心して託せる。「お互いから見える世界について語り合うこと」ができる。
あぁ、そうか。私は今もやっぱり人付き合いは乏しいけど、そういう友達作りしかできなかった学生生活を終え、社会人になってから繋がりたいと思うのは、「お互いから見える世界について語り合うこと」ができる人。
「大体のことにお互いから見える世界について語り合うことができる人。ひとりとひとりと向き合える人、自分がある人。年齢とか立場関係なく私をひとりときちんと見て接してくれる人。」
私はそれが人間関係全般に求めることなのかもしれない。
こうして土門さんの言葉を借りてようやく言語化された気がする。
言語化できなくともどこかの時点で気付けてそんな風になってたんだなとも思う。その境界はどこだったんだろうな。
「ひとり」と「ひとり」の話は、以前ここに書いた「普通が良いという病」という本にある、0人称で話すのは自分がいないといない言うことで、1人称で話すのは自分があるということ。と同じだなぁと思った。

いつも友達を計算して作っていた私は、惹かれ合うように友達になりたいと思っていた。
土門さんとは当てはめる言葉は逆だけど、多分言っていることは同じような気がする。



誰にでもはなすようなネタとしてあるような話をするより、その人の世界に触れる話ができた時が嬉しい。
ここまで生きてきて、誰とでもある一定の距離まで近づこうと思うには、ネタとか話題としての話が必要なのも分かる。でもそれはそこ止まり。それ以上はいけない。
縁がある人というか惹かれるのはそんな用意しているような定型文というか定型話(?)を使う人じゃなくて、自分の言葉を使う人だなと私も思う。
話題としてその場を埋めるために話しているか、人として向き合って話しているかは大体分かる。そして一方がそうなれば一方もそうならざるを得ない。
この人になら話してもいいかも。私の言葉が伝わる気がする。と感じるときがある。
私はなにをみているのかな。やっぱり「ことば」なのかな。話し方とか、話す調子とか、めせん、速度とかもあるけれども。
私は、そんな「ひとりな言葉」を持っているのかな。わかんないや。昔よりは今の方がずっと持ち合わせている気もするけど。


本当は今更新されている3回分をまとめて書こうとしたのだけども、1回分だけでこんなに書いてしまったのでこの辺で。
もし興味がある方は、交換日記、読んでみてください。

箱入り息子の恋 という映画を見ました。

星野源さんと夏帆さんが演じる、健太郎(仕事以外では引きこもりのサラリーマン)と奈穂子(ピアノが得意な全盲)の2人の恋のお話でした。

 

2人の親がそれぞれ一般的に見たら難ありの子供の為に、結婚相談所で結婚相手探すところから始まります。

そこからいろいろあって、お2人が会うようになり、ストーリーは進んでいきます。

ただし、奈穂子の父は健太郎を気に入ってはおらず、2人が会うことには母が協力。

そんな父や家族間でのいざこざもあり、途中、奈穂子関連で健太郎が重体になるほどの事故に2度も見舞われます。

いろいろあったけど最後は入院中のベッドで健太郎が奈穂子に手紙を送るというシーンで穏やかに終わります。

(ざっくりしすぎ)

 

思ったこと。

 

私は、目に見えるものに頼りすぎているところがあるなぁ。かといって、本質をみれていない。目に映っているだけでみえてないものが多いんだろうな。

目に映っているものは自動的にただ流れていくだけ。映そうと思わなくてもかってに入ってくる。それってちょっと勿体ないなぁと思った。ちゃんと使いたい。

 

親って、やっぱり子供の為にここまでしたくなるものなのだろうか。

子供がいい年になってきて、自分たちが歳をとってきたら、任せられるような誰かと一緒になってもらって安心したいものなのだろうか。

それが親としての幸せというものなのだろうか。

親心というのはまだ見えない世界だと思った。

 

ドラマにはありがちだけど、誰かを守るために、誰かの為に自分の身を捧げることって本当にあるのだろうか。咄嗟に体が動くみたいな。

私、思考人間だし、基本自分が1番大切だから、そんなこと今まで無いしこれからも想像がつかない。

そんな風に誰かを想えるってちょっと羨ましいな。

ドラマだけど。

 

ストーリー的には、後半が、さすがドラマだなぁと笑ってしまう場面が多々。

こんなことあります?みたいな。最後に向けて畳みかけているような展開が続く。

最後はこれで終わりなんだ。と不思議な感覚を残すような作品だった。

良く言えば、視聴者に考える余白を残したという感じ。

 

個人的に星野源さんと夏帆さんのツーショットは好きすぎて、最初辺りの出会って仲を深めていく感じはかわいらしくて見ていて微笑ましい気分になった。

 

映像は綺麗だった。背景とか景色とかシーンの撮り方は美しいというか綺麗というか清楚という感じで、みていて気持ちいいなぁと。

 

 

 

箱入り息子の恋

箱入り息子の恋

  • 発売日: 2019/04/01
  • メディア: Prime Video
 

 

 

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普段自ら映画を見ない(映画とかより本派だから)けど、いつも行っているカフェでチョイスしてもらって映画を見る。とてもいい。映画館より、自分ちより心地良い。

これは自分では取らない行動だから、ある意味こういう外からの働きかけによって享受するものも良いなと思う。

受容的だと言われても、心地の良い受容的。そういうのがあってもいいかなと思う。

私になくて、人の持っている得意な分野はありがたくいただこうと思う。

結構頻繁に行って、もう結構な作品と出会わせてもらったけど、自分の好きを発見出来たり、見つめることができたりする。

実はいつも、今日はどんな作品と出会えるのか、どんな気持ちと出会えるのかわくわくしている部分もある。

映像か字かだけで、やっぱり映画も本と同じで自分を見つめ直すツール。

記憶

夜が明けるのが早くなり、日が暮れるのが遅くなった。

この時期はちょうど出勤時間と帰宅時間に、辺りが紫色になる。
正しくは空が。
気持ちいいなぁと思う。
1日に2度もそんな瞬間に立ち会える。心が健やかになる。
あぁ、こういうことに気付いて癒される自分で良かったなぁと思う。
外を歩けば春のにおいがする。
あっ、もう主役は冬ではないんだ。
春なんだと思う。
季節がめぐる。


調子が良いときには、ついつい人と会う約束をしてしまう。
いつだって真剣勝負な私は、人の言葉をどんどん吸収して熟考してしまう。
別れたあと、自分の生活に戻ってからもしばらくはぐるぐる。
だから人と期間を空けずに会い続けるとしんどくなる。
頭がいっぱいになる。呼吸が浅くなる。
そうすると1人になりたくなる。本を読みたい。自然に癒されたい。いつもは行かないカフェで誰にも話しかけられないように過ごしたい。頭は置いときたい。


よくカフェに行って、店員さんと話をする。
思うことは、男性はよく語る。
みんながみんなそうじゃないと思うけど、確率的に。圧倒的に男性は語る。
お店の方向性とか自分の方向性とか。 別に聞いてないのになんだか語る。
いや、聞いているのかもしれない。そういう方向に持っていっているのかな。私が。
そういうの聞くのは割と好きだから。

でも、情報量が多いと疲れる。
こうだという芯がなく、ぶれているから。


ふと、思った。
私の記憶。
田舎だからってことじゃないかもしれないけど...
小学校の時、下校していたら、近所のお婆ちゃんが呼ぶ。そして、家の縁側に座って、これあげる。と時には、おかし、時には手作りの小物。そしてちょっと小話をして帰る。低学年の時は、素直に子供らしく接していれたけど、高学年になると、なんだかどう接したら良いかわからなくなった。
だけど、私は、そのおばあちゃん好きだった。

家から歩くとなると15分くらい離れたところにある商店。
私の地域でなにかを買うならそこしかなかった。なにを買うにしても割高ではあった。大抵はスーパーまで買いに出ていたけど、買い忘れがあったときや、スーパーまで出るのが面倒なときはそこによっていた。
駄菓子を買うときはいつもそこだった。自転車でよく買いに行った。夏休み、プールに行ったあとは必ず帰りに寄っていた。
そこのおばあちゃん。白髪のおばあちゃん。そろばんを弾いてお金を計算して、いつも何十円おまけしてくれた。やさしく名前で呼んでくれた。賞味期限が近いものはサービスでくれた。
私の記憶。
きっと大事なものがそこにはある。
私には私だからこそ気付けてるものがきっとある。
皆、そう。


「記憶は、過去のものではない。それは、すでに過ぎ去ったもののことではなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、自分の現在の土壌となってきたものは、記憶だ。」

長田弘さんの詩集の解説文にあることば。

分からないこと

皆さんは、自分に自信がある点、あげられますか?

これだけは人より得意。好き。秀でている。

日本人は自分を卑下するのは得意で、称賛するのは苦手だとよく聞く。

だからなのかは知らないけど、私は自信をもって自分はこうだ、と言い切ることができない。

悪い点なら言えるけれども、良い点はいまいちわからない。

これもずっと変わらないこと。

自分では思えないけど、仕事では割と

「器用」「センスがある」

と言われる。

それが全く私には落ちてこない。????という状態。

嬉しいけど、到底自分ではそんな風に思えないから届かない。

こういう仕事なので、私より器用な人はたくさんいるし、発想力とか完成度が高い人とか、センスがある人もたくさんいる。

その中でも私は人より不器用でセンスがないから人一倍やらなきゃと思ってきた。

だから余計わからない。

今は、本当にそれが好きかも分からない。

もっと自信を持つべきなんだよ。と言われる。

分からない。どこに自信を持てるのだろうか?

 

その考え方、そろそろ飽きない?

 

って思われるほどにこんな考え方しかしてこなかった。

だからさ、どれだけ人からいいように言われても、それが自分の中になかったら意味がない。届かない。分からない。

本当にあるものなのか、本当にしていくものなのか。

でも、人からここを伸ばすべきだと言われたとしても、それが自分ではよくわからない場合、どうすればいいのだろうか。

自分を分かること。自分を定義づけること。

というのが、まだ未知というか、決めたくないのか。

良い言葉を浴び続ければ、そっち側に引っ張られていくのだろうか。

私はどうありたいのか。