最近、陽の長さが心地良い日々。
長すぎても短すぎてもなんとなくしんどくて、これもバランスだなあと思う。
最近考えていること。
私ってどれだろう?どんな人間だろう?
個として人と関わる中で言われるのは、
「優しい」「良い人」「ふわふわしている」「癒される」「落ち着いている」
なのだけれども、
家族と過ごす中で言われてきたことは、
「冷たい」「無口」「つまらない」「暗い」
だ。
これについて、考える。
1つは、
「優しい」「良い人」とは…?
私はそう言われるたびになんだか、ショックを受ける。傷ついている。
なんでだろう?
私と接してそう言ってくれる人のみているところは、私が「人の顔色や反応を伺って接してしまう部分」なのでは?→そんな自分は嫌だと思っているから。
私が本当になんの見返りもなしにしている行動は、もしかしてないのかもしれない。→偽善者な自分は嫌だと思っているから。
「優しい」「良い人」と言われても、別にいい人になりたい訳じゃない。そんなの上っ面な私だ。本当の私のことを知るとそんなこと言えないはず。そんな私しか見えていないんだ。って思っている気がする。取り繕ってるのは私なのに。
→本当の私を見て欲しい。分かってほしい。受け入れてほしい。と思っているから。
「優しい」や「良い人」は言葉自体薄っぺらく中身がなく感じる。関係性も上っ面で表面をつるつる滑っているだけかのように思える。
→そんな関係寂しいと思っているから。
これらはどうしたら解決するだろうか?
「良い人」「優しい人」を辞める…?
どうやって?
もっと根本的なところかな?
もう1つは、
「冷たい」について。
良い訳をさしてもらうと、私は「公平」な立場で物事を見ようとする。
だから、「~ってひどくない?」みたいにただ共感が欲しい人にも、「そうかもしれないけどその人にどんな事情があったか分からないし、なんとも...」という返し。
だから「え?いやどう考えてもあっちがおかしいてしょ。そんなこというなんて冷たいね」という流れ。
どっちつかずで、曖昧。とも思われる。
でも、本当にあの人にも何か事情があったかもしれない。と考えると100%どっちが悪いとか、身内だから肩を持つということができない。
意見を求めていない場合はただの共感が欲しいだけと分かってはいるけど、どうもそうできない。
身内とその他の関係からの印象が違いすぎて不思議。
きっと、家族は良いことより悪いことを言うし、その他の関わりの人は悪いことより良いことしか言えないから、極端に違うのかもしれない。
家族は、表現をきつくしていえるけど、そのほかの人はそんな風にはできない。
「口数少ない」=無口
「控えめ」=暗い
「他人に興味がないよね」=冷たい
ともとれるし、意外とみんなちゃんと言ってくれてるのかもしれない。
ネットの中の自己紹介とかだと最初から自分のことを綴ることができる。自分目線で。
あえて、一般受けしないことを書いて牽制したりして。
生活の中で出会う人には、そんな自己紹介できやしない。私はこうで、こんなこと考えていて、こういう傾向がありますよだなんて言わない。だからとりあえず表向きの自分で。互いに感じて知っていく。
これもまた面白いなぁと思う。
どちらかというとネットでの自分は内向きなので、より、暗いし表に出してはいけないと思っていたことを出している。
だから私は、リアルのほとんどの人とSNSで繋がることを避けてきたんだ。
繋がっている人は極少数。
それを少し前から統合しようと思っている。
出してはいけないと思っていた部分は出してもいいんだ。
離れていくなら離れていけばいい。
変に思うなら思えばいい。
ようやく、張り詰めていた何かが緩み始めたのかもしれない。少しずつ。
本当は自分は他者とどんな風に接したいのだろうか。
どういう関係でありたいのだろうか。
どういう自分が私なのだろうか。
ずっとこの身と過ごしてきたはずだけど、まだまだいまいち掴めない。