ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

どんな人

最近、陽の長さが心地良い日々。

長すぎても短すぎてもなんとなくしんどくて、これもバランスだなあと思う。

 

 

最近考えていること。

 

私ってどれだろう?どんな人間だろう?

 

個として人と関わる中で言われるのは、

「優しい」「良い人」「ふわふわしている」「癒される」「落ち着いている」

なのだけれども、

 

家族と過ごす中で言われてきたことは、

「冷たい」「無口」「つまらない」「暗い」

だ。

 

 

これについて、考える。

 

1つは、

「優しい」「良い人」とは…?

私はそう言われるたびになんだか、ショックを受ける。傷ついている。

なんでだろう?

 

私と接してそう言ってくれる人のみているところは、私が「人の顔色や反応を伺って接してしまう部分」なのでは?→そんな自分は嫌だと思っているから。

 

私が本当になんの見返りもなしにしている行動は、もしかしてないのかもしれない。→偽善者な自分は嫌だと思っているから。

 

「優しい」「良い人」と言われても、別にいい人になりたい訳じゃない。そんなの上っ面な私だ。本当の私のことを知るとそんなこと言えないはず。そんな私しか見えていないんだ。って思っている気がする。取り繕ってるのは私なのに。

→本当の私を見て欲しい。分かってほしい。受け入れてほしい。と思っているから。

 

「優しい」や「良い人」は言葉自体薄っぺらく中身がなく感じる。関係性も上っ面で表面をつるつる滑っているだけかのように思える。

→そんな関係寂しいと思っているから。

 

 

これらはどうしたら解決するだろうか?

「良い人」「優しい人」を辞める…?

どうやって?

もっと根本的なところかな?

 

もう1つは、

「冷たい」について。

良い訳をさしてもらうと、私は「公平」な立場で物事を見ようとする。

だから、「~ってひどくない?」みたいにただ共感が欲しい人にも、「そうかもしれないけどその人にどんな事情があったか分からないし、なんとも...」という返し。

だから「え?いやどう考えてもあっちがおかしいてしょ。そんなこというなんて冷たいね」という流れ。

どっちつかずで、曖昧。とも思われる。

でも、本当にあの人にも何か事情があったかもしれない。と考えると100%どっちが悪いとか、身内だから肩を持つということができない。

意見を求めていない場合はただの共感が欲しいだけと分かってはいるけど、どうもそうできない。

 

 

 身内とその他の関係からの印象が違いすぎて不思議。

きっと、家族は良いことより悪いことを言うし、その他の関わりの人は悪いことより良いことしか言えないから、極端に違うのかもしれない。

家族は、表現をきつくしていえるけど、そのほかの人はそんな風にはできない。

「口数少ない」=無口

「控えめ」=暗い

「他人に興味がないよね」=冷たい

ともとれるし、意外とみんなちゃんと言ってくれてるのかもしれない。

 

 

 

ネットの中の自己紹介とかだと最初から自分のことを綴ることができる。自分目線で。

あえて、一般受けしないことを書いて牽制したりして。

生活の中で出会う人には、そんな自己紹介できやしない。私はこうで、こんなこと考えていて、こういう傾向がありますよだなんて言わない。だからとりあえず表向きの自分で。互いに感じて知っていく。

これもまた面白いなぁと思う。

どちらかというとネットでの自分は内向きなので、より、暗いし表に出してはいけないと思っていたことを出している。

だから私は、リアルのほとんどの人とSNSで繋がることを避けてきたんだ。

繋がっている人は極少数。

それを少し前から統合しようと思っている。

出してはいけないと思っていた部分は出してもいいんだ。

離れていくなら離れていけばいい。

変に思うなら思えばいい。

ようやく、張り詰めていた何かが緩み始めたのかもしれない。少しずつ。

 

 

本当は自分は他者とどんな風に接したいのだろうか。

どういう関係でありたいのだろうか。

どういう自分が私なのだろうか。

ずっとこの身と過ごしてきたはずだけど、まだまだいまいち掴めない。

今、誰といるか。

もう一度会いたい人、いますか?
それも、熱烈に。
会いたいじゃなくて、会わなきゃ。という。

もう一度会わなきゃいけない人って

『何か借りがある人、心残りがある人』

ではないかと最近は思う。

『会いたい』と『会わなきゃ』は別の話な気もする。

会いたいは、会いたいけどまぁまたそのうち。元気にしてるかな。最近連絡とってないけど、でも連絡する理由も特にない。そしてこれはいつの間にか薄まっていく。

会わなきゃは、そうしなきゃ心が鎮まらない。これだけは伝えておかなきゃ、返しておかなきゃ。でも比較的今は環境的、物理的に会えない状況にいる。
分かりにくいけど、こんな感じ。


正直、一定期間会っていなければ、その人と会わなくてもなんともなくなってしまう気がする。
それは物事も一緒。
あんなに好きだった、『サーティワンバーガンディーチェリー』『スタバの抹茶フラペチーノ』今は全然口にしない。
一時期は、見かけたら必ず買っていた。

趣味嗜好の話だけじゃなくて、
これはもう、好きというより習慣や執着だったのかなぁと思う。

触れる機会が減れば、それと同時に執着も薄れていく。会いたい、欲しいという気持ちも薄れていく。

そんなこと言うと、私は「冷たい」とか「情がない」とか言われるのだろうか。

今、私は会わなきゃという人はいない。
会いたいもあまり…
こんな世の中でも、動けばすぐ会えると胡座をかいている。
きっと『会いたい』はいつでも『会わなきゃ』なんだけど。


こんなことを考えていたら、
『貸し借りを作っておくと比較的関係が続きやすい』
と本に書いてあったことを思い出す。
それは一種の方法かもしれないけど、そうでなきゃ関係が続かないのは寂しいなぁと感じたのも同時に思い出す。

けど、実際そうなのかもしれない。
そうでもしてないと、きちんと精算されている関係は、よっぽど心地好い人でない限り、もう一度会わなきゃとは思わないから。
そうやって人は近づいて遠ざかって、新たな人が近付いて遠ざかって、とうつろっていくのかもしれない。

そんな中でも結局は、

『今、誰といるか』

が1番大事なのかなと思う。

panorama

役に立たないものばかり 携えて

表立たないように やり過ごす

のぞき込む場所は それ以降はいつも見えなくて

実体はない 想像力足りない

いつも足を止めているのは これ

 

気付く人 見える人 傷つく人 別の何かにする人

いったい 誰のなんの為になれば 満足するの

 

食べたいものが 思い浮かばない

それさえ 咎める理由に十分なりうる

世界にこんなにたくさんあるのに まだまだ増え続けるメロディ

それでも自分のうたは 歌えない

 

眩しいライト やけに心臓に響く バスドラム

細く細く 消えてしまいそうな月

 

いつたいどこまで受け入れ 向き合えば?

なにから目を背けて 耳に入れなければ?

感じるほどに重症化

正しい方向なんてもんは 誰も教えてはくれない

一生かけても どうせ分かりきれないから

ゆっくり進むよ

苦手なこと

いわゆる、工場での作業が苦手。

1人1人がそれぞれの場所で言葉を発さず黙々と素早く動いて、量産する。

そういう場が苦手。

それが何故なのかを考えてみる。

 

1、人が素早く動く、と同時に物音も大きくなる

機嫌が悪いのかと思ってしまう。怖い。怯えてしまう。

 

2、言葉を発さない。作業に集中しているから、もしくは同じことの繰り返しで目がきつい。または無表情。

機嫌が悪いのかと思ってしまう。怖い。怯えてしまう。

 

3、とにかく決められた膨大な個数を決められた時間までにつくらなければならない。

目的が個数。ゴールが個数。それが終わったらお役目御免。

私じゃなくてもいい。

ノルマを時間までに達成しようと、人は焦るし、イライラしてくる人も居る。→1や2に繋がる。

 

4、量が多く1つのことをやり終えるまでずっと同じ姿勢。体力的にしんどい。

体、首や頭が痛くなる。

疲れて生活が回らない。他のことができなくなる。

 早く家に帰って休む。が目的になって、ノルマをただこなす作業となってしまう。

 

1、2は心理的な苦痛。

私の思い込みのときもある。。別に誰も怒っていない。話しかけると普通。

そうやって頭で唱えても、ドキドキしてくる。息が詰まる。手先が上手く動かない。

何度固唾を呑んでいることだろう。

最近、お腹が張って体調がよくないのはこの為なのかもしれない。呑気症かも。 

本当に機嫌が悪くなる人もいる。口調がきつくなる人も。物音が大きくなる人も。

 

4は体の苦痛。

疲れたー。何もしたくない。でもやらなきゃ。やりたいこともやれてない。やらなきゃ。でも疲れた。

気持ちだけ急いて、ゆっくり休むこともできず、何も手付かずの繰り返し。

 

3は自分自身の仕事への価値観との相違。

高校生の時にした、年末年始の郵便局のアルバイトはお金のためと割り切っていたからできたけど、私にとって仕事は、お金の為という比重はすくない。

 

 

仕事だからちんたらしてはいられないけど、心地よく健やかな気持ちでしたい。

かといって、私も集中していたり必死なときは近寄りがたい、怖い雰囲気を醸し出している気もする。

なんでそうなるかっていうと、ノルマが心地よくできるキャパを超えているから。

どうしたらいいかって、今の働き方では私に決定権はない。

あぁ、でも、自分のペースで自分の体調に合わせて仕事量を調節できて、自分が生きていくに困らないだけのお金が入るくらいの働きがしたい。一緒に働くのは自分の心地良い人とだけ。馴れ合いではなくて。

勉強、かな。

 

せめて、自分でできる心地よい空間にしようと、いつもより「ありがとう」を多くいったり、「あれよかったよ」と話題にしてみたり、気付いていても気付かないふりしておどけてみたりするけど、あとあと考えると、無理に取り入ろうとしてるみたいで自分に気持ち悪さを覚える。

別に好かれたくてやってるわけじゃなくて、その場その時の空気を軽くしたいだけなんだー。わかってー。って思うけどなんか上っ面な言葉だなぁと自分でも思う。

全部自分の為だからかな。もっと方法があるのかな。

 

どんな職でもプロというのは、「想い」ではなく「型」がきちんとできている人だ。

どれだけ想いを込めて作るかより、どれだけきちっとした見た目で正確に仕上げるか。

どれだけ想いを込めて演じるかより、どれだけ表情や動きで魅せれるか。

どれだけ想いを込めて歌うより、どれだけ音程が合っていて歌唱力があるか。

大多数の人に認められるのは想いより型なのだ。

感情よりも、理論や技なのだ。

その分別はとてつもなく難しい。苦手だ。

 

 

見て呉れ

年齢なんて気にしないで生きていきたい。
と思っていても、実際は頭のどこかしらに

年齢×スキル 年齢×生活スタイル 年齢×身の振り方

というように、『年齢に相応した何か』があるべきもいう考えが染み付いている。
この世の中にはそういった思考に触れる場面が多い。
目の前でも、テレビの中でも、漫画でも。。

もう◯歳なんだからこういう立場も経験しないと
もう◯歳なんだからいい相手見つけないと

みたいな感じ。
自分自身は、26歳。
みんなよく言うけど、想像していた26歳とはかなりかけ離れている。

子供の時に大人は『何でもできる存在』としてインプットされていたのが良くないんだろう。
実際、私の周りの大人って、弱いところを見せない、あまりおちゃらけることをしない、the大人みたいな人達が多かったから余計にだ。
子供の頃の私は、友達の親、従姉妹の親、一緒に住んでいない方のお祖父ちゃんが、大人なのに子供っぽい冗談とか和気あいあいとする姿をみて実は、少しだけ羨ましく思っていた。
子供と大人の距離が近いこと。
私の周りは、子供と大人の間には1本の線がひかれているような関係性だった。
少しずつ歳を取るにつれて、大人なのにこんなに我が儘(良い意味で)で良いんだ。こんな大人もいるんだという思考も入ってきて、歳なんて関係ないじゃん。只の個体差じゃん。(もしくは環境や相性。)と少し思うようになった。

でもそれでも自分のこととなると、もう◯歳なのに全然ちゃんとしてない。とか、子供の頃は何かの受け入りか、30歳までには結婚したいと思っていたようで、それが頭のどこかにあって、あと30までは4年しかないよ。今まででうだうだしてて、あと数年では普通に無理でしょ。一生独り身?とか計算している自分もいる。(現状、そこまで結婚願望があるわけではない)

あと、30までが花盛りみたいな気持ちもどこかにあったようで、このままで良いのかなぁ。とたまに思う。やりたいことはやりたい時にするのがベストタイミングとは思っているけれど、何故か焦っている自分もいる。とりあえず目の前のことに一生懸命取り組んでいるけれど、なんか自分の時間じゃ無い気もして。

「今、何がしたい?」

と問い掛けてみたものの、これといったものは浮かんでこない。
2人の自分が、アクセルとブレーキを。
それぞれが、それぞれなにかを知らせている。
私はずっとこんな風に問いを繰り返して、見てくれだけ成長していく。

抱負

今年の抱負を一応書いておこう。

 

 

抽象的なこと。

これから書くことは、昨年から心がけていたこと。まだ身に付かず、普通にしていたらそうはできないこと。だけどそっちの方が楽に過ごせると思っているので自分に事あるごとに言い聞かせてなんとか実行していること。

ただ年をまたいだのだ。

 

「やることはすぐに取り掛かる。後回しにしない。溜めない。」

→しなきゃしなきゃとタスクが頭や体に溜まっていくより、その時にさっと動いて終わらせてしまえばそのことに支配されないで身軽になれる。

1つのことに集中できて、すっきりするし捗る。

 

「今していることに集中する」

→何かをしながら考え事をするのは、一石二鳥のようで、今にいないのと同じでしていることの意味がないから時間を無駄にしている。

1つ目と被るけど、他の心配ごとを考えてもやもやするくらいなら、さくっとそれを終わらせて体から出してしまう。

ちょっと先の不安なことも、何週間も前から心配せずに、前日くらいまでは考えない。計画と、ただ不安がるのは別。

 

「完璧な出来じゃなくとも提示、公表、発言してみる」

→私の場合…

 ・発する前に相手の反応を予想してだんまりしてしまうので、思ったことは口に出してみる。大体が勝手な思い込み。勝手に沈んでいくより、会話をして理解するように努める。

 ・自分がどう思われてもいいやという多少の開き直りもある。

 ・自分が絶対的な自信があるものしか人に見せない、公表しなかったけど、失敗したものや、自分より上手い人はたくさんいると思っていたとしても、人に見てもらうことで、新たな視点をもらえたり、そこからいい方向へ繋げることができる。(できない自分をさらけだす)

  

 

「心が動かなくなったものは潔く手放す。自分からいつもと違うことをしてみる。」

→・なんとなく惰性で続けている物、身に付けている物、行っている場所があることが多いので、ただ習慣だけで、もう必要性を感じていないならやめる。慣れすぎてその判断をするということさえも忘れていて、続けていること割と多いから、自分にとって必要かジャッジをする。ワクワクしてるか、逆にそれをすることが気重になってないかを判断材料にする。

 ・変化を不安に思ったり、古き良きという性質が強いのに、変わらない日々を退屈に思うことがある。けど、自分がいつもと同じ事をしているから当たり前。自ら違うことをしてみる。

 

「物、事、人との距離感を上手く保つ」

・人とはある程度一定の距離があった方が過ごしやすいと気付いた。

・1つに執着するのではなく、色んな物・事・人に触れる。

 

 

「自分の生活を優先する」

・自分を犠牲にしない。でも、余裕があるときは差し出す。

・仕事とはまだわからないけど、なにか1つだけに熱中というより、今は色んな興味があることをそのときそのときに集中してやってみようと思う。

 

 

 

具体的にしたいことも昨年に引き続き。

 

「ピアノや歌」

・曲つくってみたい

・↓と繋がるけど体の使い方を向上させて、ピアノや歌へ繋げたい

 

「体の動きや体性感覚を研ぎ澄ます」

昨年も取り組んできたけど、変化は少しずつ感じているので更に変わっていきたい。

 

「詩や文章を書く」

→最近は人の文章をみて自分は…?と考えることが増えていて、自分発信が減っている気がする。

自分がなにを感じたかを俯瞰することは大事。

そういえば、はてなブログをしようと思ったのは「 想いは言葉に」その一言に惹かれたからということを思い出した。

 

 

全部、自分のペースで負担にならない程度に楽しみながら。

 

具体的な熱い目標はないけれど…

全てにおいてバランスをうまくとれるようになりたい。

いつでも、どんな時も、きっちりバランスをとって息苦しく過ごすというより、何かに偏ったら何かで補ってバランスを取り戻す。というような感じ。

 

今の時点では以上。

 

究極の選択(?)

「カレー味のする う◯こ」か「う◯この味のするカレー」を食べのどっちがいい?(汚くてすみません)
というのを一度は耳にしたことはありませんか?
今となって考えると、これは、う◯この形をしたカレー、 カレーの形をしたう◯こ。ただそれだけの話な気もするけど。

…そんなことは置いといて

歳を重ねた今、たまに 「性格が悪くて仕事ができる人」と「性格が良くて仕事ができない人」仕事するなら どっち?
と聞かれる。
皆さんはどっちでしょうか?

これまた様々な条件付けをすると変わってくると思う。
性格が悪いってどのくらい? 相性の話?はたまた仕事ができないってどのぐらい?
みたいに設定によりけり。

言葉のそのままだけの意味と捉えると、私は今は 「性格が良くて仕事ができない人」 を選ぶ。
論理的に考えると、仕事の場だから仕事が出来ないと価値がないと言えば終わってしまう話なのだけれども。
性格の悪い人と場を共有して、殺伐とした或いは恐怖や不安を抱えて仕事をするのはごめんだ。
そこまでしてその空間で仕事をしたいとは思わないだろう。
よっぽどその仕事で生きていきたい、仕事だけは守るという人なら別だろうけど。
今の私は人や心地よさを重視しているらしい。
何をするか、どこでするかというより、誰と居るか。


これも最初の質問くらい考えるだけ無駄な究極な質問なんだけど。

その場では性格が悪くても、誰かにとって良い人になると思う。その仕事が出来ないとしても、他にできることがあると思うし。
どちらかといえば、その人が出きることをやればいいじゃない!性格、というか人格が悪い方が救いようがないよ…と思うのですが。
まぁ、性格が悪い方は人格を向上させる努力をして、仕事ができない方は仕事を覚える努力をしていけばいい話。もちろん本人の気持ち次第だけど。

そんなことを考える出すと違うフィールドでの話になり、一生意見はまとまらなくなるからここまでにしとこう。

皆さんは、この質問をされたら瞬時に決めれますか?それはどういう思いからですか?