ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

目の前の服を見て…

可愛いと目の惹くアウターがあった。
値段を見ると 元値3万越え。
この服がっ?!
確かにいい感じはするけど…このお店でこの値段じゃ。。売れ残るのも納得。
セールで70%off。
これは、初期値段設定を間違えましたよね??
と思った。
ようやく適正価格に戻ってきただけなのでは…??
70%offと付いていれば見ている方もかなりお得感はあるけれど、冷静に考えるとね。
でも数時間前に見た時は、 2着並んでたのに その後見たらどちらも売れてマネキンが着ているだけだった。
やっぱりこの値下げしました感の威力は凄いのだと感じた。


とはいえ、久々に気に入る服を見つけたので在庫を確認。試着して購入。
手荒い可能。撥水、防風はあるみたいだけど、特別良い素材を使っているわけではないし、ブランド品でもないのに…
この値段、なんか闇を感じる。。
私が疑り深いだけなのだろうか?

これだけ価格は商品そのものとその人の価値観に衝撃を与える。
私は一体、服に1着にいくらかけられるんだろう…と。
3万はちょっと気が引ける。
よっぽど惚れ込み、デザイン性や機能性が他にはない!とかなら考えるかもしれないけど。
根本的に服に対して、どうせ着なくなって捨てちゃうから、お金をそれほど掛けられない思っているのは確か。
所有欲が強いのか。それとも、ただケチなだけ?
何も残らないという感覚が強い。
気に入ってる服を着ると、確かに その時は嬉しいんだけど、どれだけ丁寧に扱ってもいつかは汚れちゃうし、形は崩れちゃう、趣味嗜好が変わる、時代が変わる。なんだか儚いんだよね。
これも私の、1つのものを割と大事にする、変化に鈍いところと繋がっているのかもなぁ。

と服一つ買うにも色々考えを巡らせるのでした。

備忘録

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あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いします!

 

さて、ようやく仕事も収まったので一息。

お正月はなんだか、本当に休んでいい気がして、ただしたいことをしている。

 

 

ゆっくりした時間を取れているので、昨年の振り返りを今更ながらしてみる。

 

まず、年末の時点の自分を観察してみた。

 

・『今』の自分・現象がそこにあるだけ。過去も未来も想像をしない、思い出さないことを意識的にしている。

・人とある程度の距離を保ちつつそれなりにやれている。

・自分の時間の確保を大事にしている。

・考えるより行動。

・気が向かないものはやめる

・環境的、季節的にか、あまり出かけることをしていない。

 

と、ざっくりとこんな感じ。

 波があるなら、中間くらいと言えるだろう。

 

過去の記事で1年の抱負をこんな風に綴っていた。

 

ymcvsss.hatenablog.com

 

「人として」

「人との繋がり」

 

「ストレッチ、姿勢改善は引き続き取り組んでいく。」

→ぼちぼち取り組んでいる。今はオンライングループに所属しているのみ。

少しずつ感覚が向上してきたと思う。さぼったらすぐに分かるし、やってもすぐに分かるようになった。

 

「弾き語りの精度を上げる」

→正直、弾き語りはそこまで上手くなっていない。歌うと弾くを一緒にが単純なリズムでないとまだまだできない。けど、曲を聴いてどの音かが分かるのが早くなってきた気はする。あと、声の出し方もコントロールできるようになってきた。

 

「海外にいく」

→友達と4月に行く予定を本格的に立てたころに、コロナが。結局行けず。

 

「ライブやイベントやワークショップなどに積極的にいく」

→コーヒーのワークショップ、ライブにいける範囲で何度か。

 オンラインでのイベントにもいくつか参加した。

 

「安さに飛びつかない」

→食品やインテリアなどはできるけど、やっぱり靴や服は値段をかなり気にしてしまう。私は、やっぱり今はその辺にはあまり価値を置いていないんだと思う。

 

具体的な目標についてはこんなもの。

 

ここからは、1年の自分や影響のあった出来事を回想してみる。今の自分がどう見るのか。

お付き合いしてくださる方は、最後まで見ていってください。

ただ、長いので覚悟して。

 

 

2月からジムに通い始めた。

私は身体変革に燃えていた。

 

3月は働いているお店のイベント、チケットを取ったライブの延期や中止がどんどん決まっていった。色んなものが取り上げられていった。

 

4月、5月はとにかく、次々飛び交う情報や規制がかかっていくものに混乱や戸惑い、行き場をなくした。

職場も様々な変化や先の見えない状況に、ぎすぎすしていた。

みんな表情が消える、とげとげしくなっていた。

人の言動や雰囲気や環境や情報にいちいち左右されることに疲れていた。

ある出来事があり、私はこのままではここではやっていけない。自分を守らなきゃと強く感じた。こんなにも負の気持ちを抱えてまでやらなければならないことなんてあるのか。それより大事なものなんてあるのか。私の大事なものはそっちではない。と思った。

自分に盾を作らなきゃと思った。とにかく本を読んだ。自分を見つめた。材料をかき集めた。

職場でなんとか業務をぎりぎりでこなして人を拒絶していたように思う。

本気で「辞めます。」というタイミングを探していた。喉まで来ていたその言葉、結局言えなかった。

 

6月に、YouTubeでヨガのライブレッスンに参加した。

 
ymcvsss.hatenablog.com

 

その方がパーソナルトレーニングをオンラインで募集しており、受けた。

そこからの繋がりでオンライングループに参加を始めた。

 

身体が良くなるオンラインスタジオ - CAMPFIRE (キャンプファイヤー) (camp-fire.jp

 

ymcvsss.hatenablog.com

 

今となれば、あの時の自分によくやった!と言いたい。見つけて勇気を出して、関われたことに感謝。

ここの方々の発信は、運動や身体のことだけじゃなくて、生活全てに通ずるというか、人としての在り方を考えさせられて自分を変えていく背中を押してくれていた。

回し者ではないけど、身体を変えたい、自分を変えたいという人へかなりおすすめ。

表面的なものではない情報がたくさんある。

この繋がりは、この年で私にかなり大切なものだったように思う。

 

 

ここまで合間を縫って、いつもいっているカフェにいったり、ジムに行ったりして職場ではない人との会話に救われていた。

 

8月は、ここでも何度かかいている、サクちゃんとオンラインで雑談という企画に参加した。

 なんだかうまく話せなかった。

 

9・10月

ジムを辞めた。

人に会えた。

友人とキャンプにいったし、ぬこさん (masato07.com)も会ってくれた。

人に会って話すと色んな自分が見えてくる。思ったこと、照らし合わせたこと、たくさんあった。

心理学や哲学や禅の書をいくつか読み始めた。

 

仕事は前ほど苦しくはなかった。

 

こちらの本は、私の意識を特に変えてくれた。

先程のオンライングループで紹介していただいた本。

この本を読んで、今の自分に必要だと思う所はノートに書き写した。

そのお陰か、グループでのヨガの哲学に触れることも影響してか、そこから自分がいい方向へ行っいる気がする。 

 

 

 

11月は、人との関係で傷つくことがあった。今の私には難しいんだ。「人との縁も準備があるからこそ」とさっきの本にも書いてあった。

人との距離はある程度あった方が楽だな。と思うようになった。

人だけじゃなくて、物事に関しても。

年明けたころは人と繋がりたい、自分を知って貰いたいと思っていたようだけど、一周回ってここへ行きついた。

寂しいことなのか、良い距離感をみつけたのか、良く分からない。自分としてはフラット。

何かに「誰かと居るからこそ得られる自由を知る必要がある」と書いてあった。

分かるような分からないような。まだ、言葉にはできない。

 

この月は、生のライブに3回行って、自分の中の何かの息が吹き返した感じだった。

灯りに火がついた。それまで気付かなかった。暗がりの中でずっと過ごしてたことに。

音楽は「生」だ。また音楽に救われた。新しい音楽にも出会えた。

 

12月は、仕事が忙しくなった。

仕事量が増えて、とにかく仕事をして家にさっさと帰って、できるだけ自分がリラックスできる時間を作る。こ

身体をリセットして次の日の為に早く寝る。

休みの日にやっと気が抜ける、けど心が休まり切らない。そんな日々。

ピアノを弾いたり、歌ったり、詩を書いたり、たまにちゃんと料理をしたり、運動をしたり、お風呂に浸かったり。そんな休日を過ごして、仕事へ行く。

時間の使い方が少し変わった。

 

今は、その時のことに集中できている。自分の時間も考慮してすぐにやるか、出来ないことは受けない、仕事の配分を自分の身体や周りとバランスを取る。人の動きもよくみる。何かあっても感情にとどまらず、事実として次に目を向ける。少しコントロールできるようになった。まだまだだけど。

 

ここ数年、周りを見てあっちかな?こっちかな?としていたけど、今この時点で本当の自分がいるような気がする。悪魔でも今は。

 

2020年、人と手を取り合ってなんとかこれました。と綺麗に収めることはできない。

身近な余裕ない人間同士が傷つけ傷つけ、見えてなかったり、見えないふりしたり。

それで全部「人」との関わり合いの中の話。

直接でも、媒体を通してでも、文章や芸術や音楽や情報。

影響し合った。

いつもと違うなかにみたもの

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海に向かっていく人々がいた
まだ陽が昇る前の暗がりの中
これがここの人たちのお正月の風習なのだ
瞬時にそう理解した
今までは年越しを実家で過ごしていたため
知ることがなかった
今この時 ここに居たから
ある人が言った
ヴェネツィアの お正月は
いらないものを空に投げる
路地にタンスとかが落ちているらしい
風習 昔からの文化
国により違う
国内でもそう
ちょっと距離が違うだけ
意図せぬいつもと違う年越しで
触れることができたもの
ここにあったもの

2020.12.30

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最近は 首を痛めて しんどい まだ体を自由に使うことは できないらしい
疲れたと 言える場所 どれくらいあるだろう
独り言 部屋で消えていく けど重たさは積もっていく
どれだけの人に言えるだろう それを言えるのはどんな人にだろう
と考えたとき 私は言いやすい空気を纏った人でいたい



年末年始やお正月の準備の買い物をしている人たちがたくさんいる。
よくわからないけど嬉しく思う。
どういう形かは人それぞれだろうけど、どちらかというと人々からは明るい気持ちが垣間見える・
それがなんか嬉しいんだろうな。
私は年末と正月三が日は仕事でお休みにはいるけど、帰省も見送ろうと思っている。
最近凄く忙しいからとにかくゆっくりしようと思う。
あと、本格的に(?)お雑煮を作ろうかなぁと買い物をした。
私のお雑煮の記憶は母が作る味。
家でついていたお餅は、いつからか買ったものになった。
お雑煮もいつからか昔とは入っている材料とかが変わってた。まぁそりゃそうだよね。
昔の記憶のをたどって材料をかごにいれる。
大根、ニンジン、昆布、いか、ぶり、はまぐり、ゆず、ねぎ‥‥
休みがきたらゆっくり作ってみようとおもう。

ここに無いものは記憶に頼るしかない



2020年のこの1年はどうだったとか、いろんなところであがっているのをみて、みんなそれぞれ一息つけているんだなと少し安心して、私はまだ気を張っていることに気付く。
みなさん、1年ありがとうございました。
来年もよろしくお願いします。
良いお年をお過ごしください。

交換日記 ~勝手にお返事⑧~

サクちゃんと蘭ちゃんのそもそも交換日記。

今回は蘭ちゃんこと土門さんの回。

 

サクちゃん蘭ちゃんのそもそも交換日記|土門蘭/桜林直子|cakes(ケイクス)

 

「心」は言葉に表れるからこそ、どんどん外へ|サクちゃん蘭ちゃんのそもそも交換日記|土門蘭/桜林直子|cakes(ケイクス)

 

今回の回はなんだかすごい。

自分のことを教えてもらった気がする。

 

 

最初は、「言葉」について書かれている。

 

 わたしは、人格は言葉に表れる、と思っています。
だけどそれは、どれだけ語彙が豊富かとか、どれだけ論理的かとか、そんなことは関係ありません。漢字も習っていない子供の言葉に品格を感じることもあるし、肩書きが立派な年上の方の言葉に幼稚さを感じることもあります。

 

 

言葉は心。

みんな、同じことをいっている。

私が立ち止まって見ている人たちはみんなそう言っている。

私は、私の言葉は本当に自分の言葉かが分からないけど。

誰かがいつか言っていた言葉、誰かがどこかに書いていた言葉。

それをただ、かき集めて言っているだけに過ぎないのじゃないかって、なんだか信じられないことが多い。

本当に自分の内の言葉を探そうとすると、なかなかすんなりとは出てきてくれない。

きっといつも、どこかの誰かの何かを持ち出している。すらすらでてくる言葉は借り物の言葉な気がする。

それでも選んでいるのは自分だけど。

私の言葉はどこにあるのだろうか。

土門蘭さんの言葉を借りるなら、私も「心を外へ放流」するように、自分の言葉を当たり前のように自由に出せるようになりたい。

怖がらず、遠慮せずに、素直に、取り繕わず、ありのままで、外へ、外へ…

自分の言葉を見つけるって、自分を知らないとできないことだな。とも思う。

対話というか、内省、目をそらさずに。茶化さずに、変換せずに言葉にするってほんとに難しいこと。感覚も必要になる。

 そこから出てきた言葉で人と繋がれたらな。

 

 

そして後半は、

「蘭ちゃんは、子どもの頃教室で願っていた『大人になったらこうなるといいな』ということはありますか?それは今も変わらない願いですか?よかったら教えてください」

というサクちゃんからの質問への回答。

 

「気の合う人と仲良くなれたらいいな」とずっと願っていました。

 

そして、本を本格てきに読み始め、とても感銘をうけ

 

それを読んだとき、「この人に会いたい」と思いました。「この人」というのが、江國さん(作者)だったのか登場人物だったのか。

…とにかく「この人たちのことが大好きだ」と思いました。目の前にいたら絶対に友達になるのにな、と。

となると、だんだんこっちのことも好きになってほしくなるわけです。

…どうしたら彼らや彼らみたいな人に「わたしはここにいるんだ」と伝えられ、友達になれるのだろう。

 

それから、土門さんは図書室で出会った人たちおよび、まだ見ぬ大好きな人へ向けて、私はここにいて、こう思っていると、文を書き続けていると綴っている。

だれかが拾ってくれることを願いながら。

 

私もそういう気持ち、持っている。

というか、土門さんは私の気持ちを説明してくれている。と思った。

 

心が動く、音楽、詩、言葉、絵、空間……に出会うとこれをつくり出した人はどんな人なんだろう。と人に興味をもち、この人に会いたい、知りたいと思うのだった。

話をしてみたい。共鳴する人同士話してみたい。

 

最初の話に繋がるけど、言葉だけにとどまらず、その人から出てくるものはその人の集合体、すなわち、人格を表している。

そしてそれを私はきっと子供の頃から感覚的に知っていたのだ。

作品=その人 に惹かれているのだ。

 

実際は会えることの方がすくない。

もうこの世にいない詩人だったり、大勢の人の前で歌う音楽家だったり、著者として名前がのって表には出ていない作家だったり、多忙で私なんかに時間を割くことができない人。

物理的にも立場的にも環境的にもその人たちに私はここだよと。こんな名前でこんな生活をしていて、こんな歴史を持っていてこんな想いをもっている私があなたと共鳴している。と伝えて繋がることは、これだけネットやSNSの世界が広がった今でさえ、なかなかできない。

 

分かってくれる人が居る。同じようなことを想っている人が居る。どうにもならないこの気持ちをうまく言語がしてくれる人が居る。

わたしはここだよ。

私もそうだったんだ。知ってほしかったんだ。

みんなそうなのかもしれない。

 

例えば、好きなアーティストのライブに行って、できることなら最前列でみたい、移動の時にハイタッチをしたい。というのは好きならきっと思うはずだ。それはあなたの音楽に何かしら影響されて私があって、そんな私があなたに会いに来た。知ってほしい。という想いの表れで、そ当たり前のことなのかもしれない。

それを、凄い熱だな、迷惑に思われると、みるのはちょっと違ったんだ。

私の中には、どちらともいる。そしてどちらかと言えば、そう思ってはいけないという自分が強い。違う世界の人。その他大勢の自分が1人いてもいなくても変わらない。そんな私が知ってほしいなんて、おこがましいと。

アーティストの名前を呼ぶ人、MCに反応する人、手をぶんぶん振る人。

私はここだよの意思表明。

そんな人が羨ましかったんだ。

これを読んで、その気持ちはあって当然のことだから、恥ずかしがらなくてもいいよ、みっともないことじゃないよ、冷静を取り繕う必要はないんだよ。と誰かに許されたような気がした。

 

 

思い返してみると、好きだなあと思ったものには、なんらかの形で私でも会えるチャンスがあるなら、応募したり、声をかけたり、足を運んでみたり、近くで見ていられる環境に踏み込んでみるということを最近はしていたように思う。

全部、がちっと繋がらなくとも、何か広がり次に繋がっていく。

まだ自分を出すというのは苦手だ。

自分の言葉を探しにいってみつけるのが苦手だ。

言葉は人格を表しますが、沈黙はそれを隠してしまいます」

うん、ほんとに。

言葉を出す練習をしようと思う。

借り物でもいいから、まずは出す。

そしたらいつか自分の言葉がさくさくと発見でき出せるようになるかもしれない。

土門さんが放ち続けている心、言葉は、こうして私のところにも届いた。

 

 

 

最後に、この記事を読んで浮かんだ曲、SUPER BEAVERの「ことば」も良ければ聴いてほしい


SUPER BEAVER「ことば」MV (Full)

「営み」と検索しようとしたら


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スマホで、

「営み」と検索しようとしたら、検索候補にでてきた。

 

「営みの 街が暮れたら色めき

 風たちは 運ぶわ カラスと人々の群れ

 意味なんか ないさ 暮らしがあるだけ

 ただ腹を空かせて 君の元へ帰るんだ」

 

長々と。

 

皆さん、ぱっと思い浮かぶのかな?

そう、星野源の恋。

一時かなり流行っていた。

その頃はまだテレビを時々はみていたけど、ドラマは見ていなかった。

そんな私でも口ずさむことができるくらいに。

 

歌詞はまじまじと見たことなかったので、こんなこと歌っていたんだと。

「営み」と「暮らし」は違う。

この間、ある歌う人がステージ言ってた。

「コロナが流行って、家に籠もって。だけど、その分、花に水をやったり、布団を干したりできて気持ち良くて。暮らしが好きなんです」

と。振り返ると割とそういうことをこうなってから耳にすることは多かった。

みんな、「暮らし」と「営み」が違うことに気付いていて、みんな「暮らし」が好きで安心があるという。

じゃあ「営み」ってなんだろう。

自分も含め、その上で「営み」に励む私たちは、不思議な生き物。

 

「意味がない時間」というのが苦手なのかな。

目的や成果を駒にして車輪を回しているのだろうか。

とにかく、今年はそういうことを考える人は多かったんじゃないかな。

 

偶然にその歌詞が出てきただけなんだけど、私にはタイムリーで、何か意味があるような気がして思わず書いてしまった。 

なんで「営み」を検索しようとしたのかは忘れちゃったけど。

 

そうそう、今日、CUTという音楽雑誌でBUMPの藤くんのインタビューを見た。

そこで、「その人が必要としている時に必要な曲が届くと思っているし、そういう音楽をつくりたいと思ってやってきた。」的なことを言っていた。

藤君に対して込み上げてきた想いはここでは割愛するけど、その言葉が今日目に入ったのもなんだか不思議なタイミングで、全ては繋がっているなぁ。と感じた。

人による人との接し方

人によって、人との接し方は違う。

当たり前の話だ。

人それぞれのそれを見ていると面白い。

その人が今まで人との距離をどう決めてきたか。他人をどう見ているか。自分と他人の立ち位置。

みたいなのがなんとなくわかる気がする。

無意識のところから、意識的な所。

それによってパターンが出来上がっていたり、タイプよって反応が違ったり。

 

例えば…

それほど親しくない人と話すとき、

年下でも年上でも態度変わらず敬語で話す人。

堅苦しく、距離が見える。

だけど、年齢で物事を決めない、人を公平に見ている。

 

年下ならくだけて軽くなり、年上になると気を張る人。

親しみやすく、距離が近い。年下からは慕われ、年上からは可愛がられる。

だけど、馴れ馴れしく不快に思われるときもある。

違いがありすぎて信用を失うこともある。

 

人に取り込もうと思って、やたら口だけが上手く、褒めちちぎる人。

その場を明るくしようと、とりあえず話題を出す人。

用件だけ言って、適度な距離を保つ人。

大人しそうな人には自分から話を振るけど、おしゃべりな人の前では口をつぐむ人。

初対面の人には溶け込みやすいけど、慣れてきたら素っ気なくなる人。

人見知りするけど、慣れてくると仲間意識になる人。

自己開示が多い人、少ない人。

 

人それぞれだけど、みんな自分で人との距離を決めた上でのそれなんだよなぁ。

今までこんな風に人と接してきたんだな。と色んな人を観察して思う。

それは大体最初に会った時に、どこらへんか分かる。

直線状で言うと、この人は50センチの距離とか、1メートルの距離とか。

それが縮むか遠ざかるか変わらないか切れるかは、その人同士やタイミングや環境の問題。

 

私は?というと…こんな内容のことばかり書いているのでお察しいただけるかと。

だから、なんというか、仕事仲間とか業者とか友人とか家族とか恋人とか・・・何がどうこうという話の前に、人として1人と1人との距離や繋がりがあるなぁと思って。だから組織とか会社とか家族とか会社の塊で見るのはなにか違うよなぁ。

と漠然と感じた今日。