久々ですが、
さくちゃん蘭ちゃんのそもそも交換日記。
「真に存在するものは過去でも未来でもなく、ただ現在だけである」|サクちゃん蘭ちゃんのそもそも交換日記|土門蘭/桜林直子|cakes(ケイクス)
今回の回で書いてあるのは、前回サクちゃんから蘭ちゃんへの質問。
「負けん気や嫉妬心はありますか?あるとしたら。それはどんなときに起こりますか?」
について。
蘭ちゃんはめちゃくちゃあるとのこと。
嫉妬心は「ほしいものを自覚するためのもの」、負けん気は「自覚したあとに『やってやらぁ!』と努力するためのガソリン」でしょうか。
思うにわたしの場合、「わたしも欲しい!」って認めてしまうと嫉妬心ってなくなるんですね。
認めた瞬間から、「そっか、じゃあそのために何ができるかな?」って建設的に考え始めるからです。目標が定まると、そこまでの道を探し始める。負けん気はその勢いをつけてくれるもの。だからわたしにとって、負けん気が起こるときは割とポジティブな状態なんですね。逆に嫉妬心が起こるときはネガティブな状態です。「わたしも欲しい!」って素直に認められないから、本当は欲しいぶどうを「あのぶどうは酸っぱい」と貶めます。
負けん気と嫉妬心について、こんな風にちゃんと考えたことがなかった私は、なんだかすごくしっくりきた。
が、私は負けん気と言うものに最近出会っていないように感じる。
逆に「羨ましい」という思いがよく生じる。
羨ましい=嫉妬心
でも蘭ちゃんのように「あのぶどうは酸っぱい」とは思わない。
「あのぶどうは自分には到底手に入れられない」と、自分と世界が違うと切り離して諦めている。
それは良くない。
『勝手に自分とあの人は違う世界だと壁を作って距離を作ってる』
いつかある人に言われた。
こんな風に絵が描けていいな。ピアノが弾けていいな。体を使えていいな。自分を表現できていいな。人の心に響くことができていいな。
私は見る側だから。なんて、相変わらずなこと。
「羨ましい」がふつふつと湧き出たとき、私もしたい!欲しい!となったとしても、それ以降に繋がらない。
最初にまず、人を見て欲しいだなんて、本当にこれは自分の意思なのかな?ただつられただけなのでは?と問いただす。
それと同時に、じゃあどうすれば?
と考えるけど大体なにも分からない。とにかくやってみる!しか出てこなくて、最初はいくらかやってみるけど、そこから広がりが出ないから結局やめてしまう。
そんなに欲しい物じゃなかったんだ。
とすり抜けていく。
で、また何かのきっかけで息を吹き返すけど、この繰り返し。
私には考えて応用していく力が足りないのかもしれない。
具体性がない。現実性がない。やってみればなんとかなるかも。
方法のレパートリーが少ない。
色んなことは、やみくもにただ数をこなせば手に入れられるかと言えばそうじゃない。
もう一つは「自分が自分の意思でそれが欲しいんだ」と言い切る気持ち。
それが決まらないからいつまでたっても地に足がついていない状態。何も決まらない。
だから、嫉妬心を覚えるたびに、「ああ、ここに、認めてないけど本当は欲しいものがあるんだな」って思うようにしています。
だからわたしがもっとも欲しいものは、「自分のために動いてくれる自分」。
自分の好きなもの・欲しいものをきちんと把握し、それを自分に与えてくれる自分なんですね。
いくつもの「羨ましい」の根元になるものはなんだろうか?
と考えたら
「人の心を動かす」
ということのように思う。
だったら手段はなんでもいいのだろうか?
でも、そうだと人の心は動かないのだと思う。
本来は、人の心を動かすためにするのではなく、自分が魂を込めることに人の心が動く。
だから私は、「羨ましい」の分類から始めようと思う。
これは、その行為自体が羨ましいのか、人の心を動かせるものを持っているその人が羨ましいのか。
そこをきちんと区別して、自分のために動いてあげないと。
この区別の時点で、自分の感情や意見やよくない思考癖が横から入ってくるので、もう一人冷静に事実だけを淡々と振り分けてくれる自分がいたらいいのになんて思う。