ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

メグルキオク

とある日話の流れで、
小さい頃はカプセルとかが飲めなかったから、粉薬を飲んでたけど美味しくなかったよね~。
という会話になった。

「私はお薬飲めたねで飲んでました」

という一言で、思いが蘇ってきた。

…あ、私、お薬飲めたねで薬を飲んでみたかったんだった。コマーシャルを見て、これで楽に粉薬飲めるんならいいなぁ~。と思っていた。
けど、それを親に言うことはなかった。
そのまま錠剤が飲めるようになったから、過ぎ去った。

どういう経緯でその人がそれで飲むようになったかは知らないけれど、それを使うまでには親と子のやり取りが何かしらあったはず。
子が親に言ったのか、嫌がる子をみかねて親が飲みにくいだろうと用意したのか…
それは分からない。


我慢するのではなく、自分が心地よいやりやすい用に状況を変えていくこと。
子供が親に意見をいえるのは、意見が通るか通らないかは置いといて、とりあえずは聞いて貰えるという安心感はもっていること。
親が子供のことをきちんと見てくれているということ。
子供が親に我慢しない、嫌がる自分を見せれること。

今更ながら、その関係性が羨ましいなと思った。
それは今の私がか、子供の頃の私の記憶かは分からない。


逆を言えば、その時の私は、
どうせ言ったって受け入れて貰えない、それで傷付くのが嫌だった。
というのはわたしの家系は全体的に諦めモードというか、忍耐強く我慢が美徳という風潮だったのだと思う。
無駄なもの、余計なものは取り入れない。
あったら便利だけど無くても困らないものは買わない家だったので、言って買って貰えないことが多かった。
この「お薬飲めたね」もあったら便利だけど無くても困らないものに私の中で仕分けされ、主張するまでに至らなかったのだと思う。
(今思えば、買ってくれていた物も多かった気がするけど、1回の断りで深く傷付いていたのかも)


そして周りの人が自分をちゃんと見てくれているということに気付いていなかったし、嫌がる姿を見せてはいけないと思っていた。だから粉薬は1人の時に飲むふりして、ほとんど吐き出していたと思う。笑


やっぱり私は甘えたのくせに甘えられなかったんだなぁと思う。
それはきっと今も変わらずなのだけど。
親にもっとわがまま言いたかったし、もう少し甘えたかったんだ。
今からじゃ遅いなぁ…


ほんの些細な会話からの記憶の断片。