ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

時代

時代の流れを感じる

その一つに、YouTube
YouTubeは、個だなぁと感じる。
同じ空間にいて、それぞれが自分の端末で自分の見たいチャンネルを視聴する。
どちらもイヤホンしなかったら、部屋の中が音声でごちゃごちゃだ。


私が保育園児くらいのときだったかな?
教育テレビの「みんなのうた」で、一時期ひたすら流れていた曲がふと頭に流れる。

「テレビが来た日テレビが来た日
それは家族が増えた日
テレビはなぜか床の間に
どんと座った」

その名も『テレビが来た日』
(今調べたら、ピンクレディーの歌だったらしい。)


テレビには役割が確かにあった。
家のチャンネル決定権をもった人が決めた番組を見る。
私の家では父か祖父だった。(だからか、最近よく亡き祖父が私の脳内映像に映り込む。)
誰かが我慢することになるのだけれども…
居間にあるテレビ一台を家族みんなが見る、あるいは聞いている状態になる。
そこで誰かが笑ったり、ぼそって何か呟いたり、意見を発したり…
それに誰かが反応する。
空間を共有していた。


今は本当に変わった。
むしろテレビは見向きもされなくなった。
テレビを誰かがつけ、それを見る。
また同じ部屋で誰かがスマホYouTubeをみて笑っている。
テレビにYouTubeを映すこともできるけど、私の身の回りにはその機能はない。
同じ場所にいるのに、違う世界にいる。

それぞれが見たいものを見れるようになった。
便利になったのだけれども。
テレビの時代は終わっているんだなぁ、と私の脳内映像が少しの淋しさを告げた。


歴史の教科書みたいに、「○年~が広まる」「○年~が開催される」 とどこかで見れば、何がどう変わったか瞬時にわかる。
だけど今私は、かわるがわる時代の真っ只中にいるので、それを記録として見れるのはもう何年後か。(元々、流行についていったり変化に気付くのが遅いので;;)
これも遅いくらい、ようやく気付いた時代の流れ。
世で一般的に成功といわれる人達は、先読み先読みなんだろうけど。


今、過ぎ去っているこの瞬間。
過ぎ去った瞬間に過去として、時代として着々と刻まれているんだなぁと最近の色々でしみじみ感じたのでした。