ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

つぶやき

人は1人の時に何かを育てているような気がする。
誰かと会った時に、発見したり、受け取ったり、渡したり…
それは入ってくる刺激物。

それを持ち帰って眺める。
あるいは、生活の中でふとしたときに言葉が追い付いてくる。
誰かの言葉が木霊する。
自分の考えや行動をアップデートする。

また人と会って1人になって

その繰り返し。




人は新たなものと出会ってそれが自分にどんどん馴染んでいく。
目新しいボコッとしていたものが、馴染んでフラットになって分厚くなって一段階上がる。
それがあるのは当たり前でよく見えなくもなる。
たまに失ってぽこっと穴が空く。

というようなことを以前のMCで渋谷龍太が言っていた。

年月を追う毎に、沢山のものが自分にひっつく。
最初はおっ!って言うものも時が経つと自分の中に溶ける。
他の何かを探す。自分のアップデートにはそれも良い。
けど、ありがたみを感じられなくなることは残念だと思う。
沢山のものと取り込むと、外側にあったものが自分になる。
見えなくなって鈍感になっているのかもしれない。



自分の駄目なところを1つだけうんと可愛がってあげるとするなら何にする?

読んだ本に、
『一病息災』
ダメなところはもちろん1つじゃない。私だって沢山ある。どれか1つ、生きるうえで不便な、生きにくいという部分を守り育てていく。これだけはどうしても出来ないことは、認めてしまう。
それ以外は努力が必要だよ。別の点でその弱点を埋めよう努力する。
平均的に意思が強くなることは難しいから、せめて自分の決め球だけはそ大切にしよう。
このコースは自分には向いてない。駄目だ、というものを消していってみるんだね。弱点の方がはっきりしてるから、努力しても無駄なコースは行かない方がいい。それよりも、ツボにはまったところて努力する。ずっと消していって、残りのコースが少なくなると、やっぱり自分でも必死になるからね。ここでなくちゃ生きられない、という思いの方が、道を開くと思うな。


これを読んで、沢山ある弱点から私がどうしても出来ないことはどれだろう?と考える。
逆に、なになら多少我慢して努力できるのか。
なかなかすぐに答えはでない。
昔々の私が、1つだけ自分で許して育ててたら良かったな。
完璧人間になろうとしていた私が、「これだけは出来ないの、えへっ(?)」と人に弱さを見せれたらもっと気楽だったかもしれない。



どういう仕事をしたいか、ではなく、どういう生き方をしたいか、で人生を考えていけないかな。
最近よく思う。
仕事は今のところ、人生の中で一番時間を費やすもの。
だから私は四六時中といっていいほどどうしたらそこの部分が満足するのか、を考えている。
でも、人生は仕事じゃない。
色んな要素がある。
そこの矛盾のようなところがすっと開けない。
今までに仕事を主軸に自分の人生を考えすぎていたのかもしれない。
1つだけ突出していた項目。少し目線を広げて色んな項目に目を向けてもいいのかな。