ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

あのときは?

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午後9時ぐらいのことだった。
JRがなんらかの理由で止まってしまい、他の電車の振替輸送を使おうと車内で出発を待っていた。
そこに、小学生の5、6人が迷いながらも乗り込んできた。
『こっちでいいん?』『あっちは特急で停まらないないからこっちだって』『めちゃくちゃ時間かかるんじゃない?』『いやこっちだって』『駅員さんに聞いたら停まるってよ』『今向こうの(JR)きたってよ』『いやこっちの方が早いって』『⚪️⚪️、あっちいくん?こっちだって』…………
とかというやりとり5分くらいは続いていたと思う。
やり取りというか、数名いるのでそれぞれが口々に発するのでかなりの騒動。笑

それを微笑ましく見ていた。
あぁ、そうか。小さい頃は私も知らないことだらけで、なにかイレギュラーに突き当たると、そこでの決断が全てを決めると思っていて、短時間で正しい答えにたどり着かなければとどくどくと脈打っていた記憶がある。
今となれば、今回の場合だと間違えば家に帰るのが遅くなるくらいで手段は結構持っている。
スマホもあるし 本当の意味でどくどくすることは多分、ほとんどなくなった。
それはもしかしてあまりよくないことかもしれない。
スマホがあるから、わたしは1人で色んな所に出掛けたり遠出ができているのかもしれない。もしなかったら私はまた違う感じになっていたのかもしれない。
…と、今回はこういう話がしたいわけではなく。。。


その電車での光景をみて、私は自分がいつからこっち側になったのだろうと思った。
こっち側というのは、色んな出来事に心が反応しなくなった、ある意味順応に対応できるようになったこっち側。

そしてまたまた思い出した。

長田弘さんの詩集に
「あのときかもしれない」
が大きな題目で、
いつおとなになったのか、1人の子供から1人のおとなになったのはいつだったのか、『いつ』が『いつ』だったのか思い出せない、あの時だろうか、いや、あの時だろうか、でも1度しか大人になれないはずだ、はっきりとおとなだと知ったあのときは?
と1度しかといいつつ1~9まで詩が続いていく。

そこには、

遠くというのがゆくとことはできても、もどることのできないところと知ったとき、『遠くへいってはいけないよ』といわれなったとき。


好きだろうが嫌いだろうが、きみという1人の人間にしかなれなかった。そうと知ったとき。

『なぜ』と元気に考えるなわりに、『そうなっているんだ』という退屈な答えで、どんな疑問も打ち消してしまうようになったとき。

二人のちがう人間が互いの明るさを弱めることなく、同じ明るさのままで一緒にいるということがどんなに難しいことかをしったとき、人を直列的にでなく、並列的に好きになるということがどんなに難しいかをきみがほんとうにしったとき。

歩くことの楽しさを、君が自分に失くしてしまったとき。

1人の完全な人のではなく、誰とも同じ1人の不完全な姿を、遠くから君の父親のすがたにみつめていたとき。

などなどと、ちょっとしたエピソードと共に『あのとき』が描かれている。


1つ付け足せるな。
あのときだったんだ。きみが、あんな頃もあったなぁと悟った風に微笑ましく人を見るようになったとき。あのときだったんだ。きみが1人のこどもじゃなくて、1人のおとなになっていたんだ。


これを見ると、『おとな』ってなんだかつまんなくて、たくさんのものを背負っていて、苦しさ、難しさ、諦め、を知ってしまった『こども』とは全く別の生き物ではないか。
私もいわゆる『こども』らしい、元気はつらつな時期は短かった気がするけど、ちゃんとあった。
私のあのときはいつなんだろうな。



知りたくなくても知ってしまうこと、当たり前だけど長く生きれば生きるほど色んなことを通じて知ってしまう。それには抗うことはできない。

あのときも結局のところはわからない。便利な言葉を使うとすればいつの間にかだ。
1度しかないのかもしれないけど、きっと1つだけではない。色んな出来事が影響しあって今の自分になっている。


痛みも苦しみも諦めも知るときは苦しい。だけど多分、知ること自体は悪いことではないはず。
色々なものを知った今、持っているものと、そしてこれから先も知ってしまうことはたくさんあるはず。
それらと向き合ってそれさえも大事にできたらいいなぁ。
エピソードは人によって違うだろうけど、それがあるからこそ自分だと胸を張れるといいなぁ。


深呼吸の必要 (ハルキ文庫)

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