ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

箱入り息子の恋 という映画を見ました。

星野源さんと夏帆さんが演じる、健太郎(仕事以外では引きこもりのサラリーマン)と奈穂子(ピアノが得意な全盲)の2人の恋のお話でした。

 

2人の親がそれぞれ一般的に見たら難ありの子供の為に、結婚相談所で結婚相手探すところから始まります。

そこからいろいろあって、お2人が会うようになり、ストーリーは進んでいきます。

ただし、奈穂子の父は健太郎を気に入ってはおらず、2人が会うことには母が協力。

そんな父や家族間でのいざこざもあり、途中、奈穂子関連で健太郎が重体になるほどの事故に2度も見舞われます。

いろいろあったけど最後は入院中のベッドで健太郎が奈穂子に手紙を送るというシーンで穏やかに終わります。

(ざっくりしすぎ)

 

思ったこと。

 

私は、目に見えるものに頼りすぎているところがあるなぁ。かといって、本質をみれていない。目に映っているだけでみえてないものが多いんだろうな。

目に映っているものは自動的にただ流れていくだけ。映そうと思わなくてもかってに入ってくる。それってちょっと勿体ないなぁと思った。ちゃんと使いたい。

 

親って、やっぱり子供の為にここまでしたくなるものなのだろうか。

子供がいい年になってきて、自分たちが歳をとってきたら、任せられるような誰かと一緒になってもらって安心したいものなのだろうか。

それが親としての幸せというものなのだろうか。

親心というのはまだ見えない世界だと思った。

 

ドラマにはありがちだけど、誰かを守るために、誰かの為に自分の身を捧げることって本当にあるのだろうか。咄嗟に体が動くみたいな。

私、思考人間だし、基本自分が1番大切だから、そんなこと今まで無いしこれからも想像がつかない。

そんな風に誰かを想えるってちょっと羨ましいな。

ドラマだけど。

 

ストーリー的には、後半が、さすがドラマだなぁと笑ってしまう場面が多々。

こんなことあります?みたいな。最後に向けて畳みかけているような展開が続く。

最後はこれで終わりなんだ。と不思議な感覚を残すような作品だった。

良く言えば、視聴者に考える余白を残したという感じ。

 

個人的に星野源さんと夏帆さんのツーショットは好きすぎて、最初辺りの出会って仲を深めていく感じはかわいらしくて見ていて微笑ましい気分になった。

 

映像は綺麗だった。背景とか景色とかシーンの撮り方は美しいというか綺麗というか清楚という感じで、みていて気持ちいいなぁと。

 

 

 

箱入り息子の恋

箱入り息子の恋

  • 発売日: 2019/04/01
  • メディア: Prime Video
 

 

 

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普段自ら映画を見ない(映画とかより本派だから)けど、いつも行っているカフェでチョイスしてもらって映画を見る。とてもいい。映画館より、自分ちより心地良い。

これは自分では取らない行動だから、ある意味こういう外からの働きかけによって享受するものも良いなと思う。

受容的だと言われても、心地の良い受容的。そういうのがあってもいいかなと思う。

私になくて、人の持っている得意な分野はありがたくいただこうと思う。

結構頻繁に行って、もう結構な作品と出会わせてもらったけど、自分の好きを発見出来たり、見つめることができたりする。

実はいつも、今日はどんな作品と出会えるのか、どんな気持ちと出会えるのかわくわくしている部分もある。

映像か字かだけで、やっぱり映画も本と同じで自分を見つめ直すツール。

記憶

夜が明けるのが早くなり、日が暮れるのが遅くなった。

この時期はちょうど出勤時間と帰宅時間に、辺りが紫色になる。
正しくは空が。
気持ちいいなぁと思う。
1日に2度もそんな瞬間に立ち会える。心が健やかになる。
あぁ、こういうことに気付いて癒される自分で良かったなぁと思う。
外を歩けば春のにおいがする。
あっ、もう主役は冬ではないんだ。
春なんだと思う。
季節がめぐる。


調子が良いときには、ついつい人と会う約束をしてしまう。
いつだって真剣勝負な私は、人の言葉をどんどん吸収して熟考してしまう。
別れたあと、自分の生活に戻ってからもしばらくはぐるぐる。
だから人と期間を空けずに会い続けるとしんどくなる。
頭がいっぱいになる。呼吸が浅くなる。
そうすると1人になりたくなる。本を読みたい。自然に癒されたい。いつもは行かないカフェで誰にも話しかけられないように過ごしたい。頭は置いときたい。


よくカフェに行って、店員さんと話をする。
思うことは、男性はよく語る。
みんながみんなそうじゃないと思うけど、確率的に。圧倒的に男性は語る。
お店の方向性とか自分の方向性とか。 別に聞いてないのになんだか語る。
いや、聞いているのかもしれない。そういう方向に持っていっているのかな。私が。
そういうの聞くのは割と好きだから。

でも、情報量が多いと疲れる。
こうだという芯がなく、ぶれているから。


ふと、思った。
私の記憶。
田舎だからってことじゃないかもしれないけど...
小学校の時、下校していたら、近所のお婆ちゃんが呼ぶ。そして、家の縁側に座って、これあげる。と時には、おかし、時には手作りの小物。そしてちょっと小話をして帰る。低学年の時は、素直に子供らしく接していれたけど、高学年になると、なんだかどう接したら良いかわからなくなった。
だけど、私は、そのおばあちゃん好きだった。

家から歩くとなると15分くらい離れたところにある商店。
私の地域でなにかを買うならそこしかなかった。なにを買うにしても割高ではあった。大抵はスーパーまで買いに出ていたけど、買い忘れがあったときや、スーパーまで出るのが面倒なときはそこによっていた。
駄菓子を買うときはいつもそこだった。自転車でよく買いに行った。夏休み、プールに行ったあとは必ず帰りに寄っていた。
そこのおばあちゃん。白髪のおばあちゃん。そろばんを弾いてお金を計算して、いつも何十円おまけしてくれた。やさしく名前で呼んでくれた。賞味期限が近いものはサービスでくれた。
私の記憶。
きっと大事なものがそこにはある。
私には私だからこそ気付けてるものがきっとある。
皆、そう。


「記憶は、過去のものではない。それは、すでに過ぎ去ったもののことではなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、自分の現在の土壌となってきたものは、記憶だ。」

長田弘さんの詩集の解説文にあることば。

分からないこと

皆さんは、自分に自信がある点、あげられますか?

これだけは人より得意。好き。秀でている。

日本人は自分を卑下するのは得意で、称賛するのは苦手だとよく聞く。

だからなのかは知らないけど、私は自信をもって自分はこうだ、と言い切ることができない。

悪い点なら言えるけれども、良い点はいまいちわからない。

これもずっと変わらないこと。

自分では思えないけど、仕事では割と

「器用」「センスがある」

と言われる。

それが全く私には落ちてこない。????という状態。

嬉しいけど、到底自分ではそんな風に思えないから届かない。

こういう仕事なので、私より器用な人はたくさんいるし、発想力とか完成度が高い人とか、センスがある人もたくさんいる。

その中でも私は人より不器用でセンスがないから人一倍やらなきゃと思ってきた。

だから余計わからない。

今は、本当にそれが好きかも分からない。

もっと自信を持つべきなんだよ。と言われる。

分からない。どこに自信を持てるのだろうか?

 

その考え方、そろそろ飽きない?

 

って思われるほどにこんな考え方しかしてこなかった。

だからさ、どれだけ人からいいように言われても、それが自分の中になかったら意味がない。届かない。分からない。

本当にあるものなのか、本当にしていくものなのか。

でも、人からここを伸ばすべきだと言われたとしても、それが自分ではよくわからない場合、どうすればいいのだろうか。

自分を分かること。自分を定義づけること。

というのが、まだ未知というか、決めたくないのか。

良い言葉を浴び続ければ、そっち側に引っ張られていくのだろうか。

私はどうありたいのか。

ちょこ

今年も来ました。

バレンタインの季節。

私の職場には男性がいないから、そういうチョコの準備はしなくていいので楽。

 

問題は、毎年父に送っているチョコ。

チョコを届けるということ。

私は毎年、父の日だろうと母の日だろうとこの、義務的な感じが嫌だと言ってきた。

じゃぁ、しなければいいとなるけど、それはそれで今更やめるのもなぁという気持ちもある。

とりあず、当たり障りのないチョコを配送するように購入した。

 

でも、この「とりあえず」というのがなんなのだろう。

人の多い催事コーナーに行って、とくに真剣に悩むわけでもなく、これでいいやって人込みからそそくさと出てくる。

そんなんならしない方がましな気がする。

私は、なんでも「気持ちがない行為」というのに違和感がある。

気持ちがない。心からしたくてしてるわけじゃない。

寂しいなぁ。と思うし、相手に嘘をついているような気持ちになる。

それで相手が喜んでくれたほうが尚、罪悪感が湧き上がる。

私だったらそんな気持ちならいらない。

 

逆にたちが悪いなと思うのは、そういう気持ち(どうでもいいとかなんとも思ってない)人への方が何も考えずに躊躇なく届けることができるということ。

いわゆる本命チョコというものは、その人とどうにかなりたい、どうにか思われたい、という別の想いが邪魔をして、渡していい物か、渡すべきじゃないか、重くないか、とかいろいろ考えちゃうんだよね。

どうしようが、その行為の意味を決めるのも、感じ方も相手次第なんだけど。

 

私は、この前ここでも書いた、感動した板チョコを自分のご褒美としてバレンタインは終わりかな。

周りの人におすそわけしたときに、今の関係性だとバレンタインだからと言ってあげるまではできないけど少し想いが入っていた人がいたのはここだけの内緒の話。

人に広めたくなるほどいい物だったっていうのも本当の話。

様々なかたちの想いがあるし、義務感しかない人もいると思うけど、このイベントをうまく利用して、家族でも友人でも恋人でも大切な人への本物の想いが人から人へ届くとそれはそれは素敵なこと。

違和感の正体

紹介してもらった本の最初の最初。

そこで何か開けた感じがして本を閉じた。

私にあった違和感はこのことだったんだと思った。

それを忘れないうちに書いておきたくて。

 

「正常と異常、健康と病気、そういう区別がはっきりあるのだというようなものの見方では、大切な本質は見えてきません」

 

「正常と異常の境界線にあるような視点や言葉が、今の時代ではほとんど失われてしまっている」

 

「正常と異常との両方を股にかけて、往ったり来たりしながら異常の世界の言葉を正常の方へ持ってきて伝えようとしてるのが詩ではないかと思います。」

 

「私は、このように境界線上に立って生きる人を詩人と呼びたいのですが、この意味での詩人とは、必ずしも詩を書く人という意味ではなくて…………別に何をやっているのでも構わない。とにかく、この正常と異常の境界線上にいるような、物事を新鮮に見る視点を持って生きている人である。」

 

私の生活でところどこにある違和感の正体はこれだった。

このことを言いたかったと思った。

現代は色んな人との会話で、「普通だとか普通じゃない」とか「個性的」とか「病的」とか「ちょっとおかしい」とか。いろいろ区別付けられすぎている。

私はそれにずっと違和感があった。そういう視点がわからないというか。

きっと、現代病と呼ばれているこれらに関して、昔もそういう人はいたと思う。こうやって診断名をつけていなかっただけで。白黒はっきり二分化していなかっただけで。というか、ほとんどの人がそれに当てはまるのじゃないかな。

私は自分が普通だとは思わないけど、普通じゃないとも思わない。正常か異常か。その2つで判断できる問題じゃないと思う。

ある分野では、一般的な常識人みたいな私もいるけれど、ある分野では病的になる私もいる気がしている。

 

たまに、「あの人はおかしいのよ。病的ななにか」と言う人がいる。

この人は自分のこと普通だと思っていて、はっきりと「あの人はあっち側」と「自分はこっち側」と思っているんだなぁ。とそれを聞いて思うことがある。その判断基準はどこなんだろう。その線引きはどこですぱっと成されるのだろう。

 

私の姉は、うつ病と診断されて薬を飲んでいる。(自分のことを知っている人がこのブログをもし見つけたら特定されるだろうなぁというくらい、ここではいろいろ赤裸々に書いていてちょっと怖い。)

私はその姉とは最近うまくいっていない。昔から、合うときは合うのだけれども、ころっとどこかで関係が変わる。

だから姉がどんな状態で何に苦しんでいるのか。全く情報がない。

これだから冷たいと言われるのかもしれないけど、こう思うことがある。

姉は、自分のことを「薬を飲んでなんとかやってる。かわいそうでしょ」という。

そして、親は「病気で不安定なんだからちゃんと接してあげなさい」という。

なんか違うなと思う。

情報がないから、姉がどんな風に立ち上がろうとしているのか、努力をしているのかしらないから一概に言えないけど…

「自分が病気だから」で終わらせてはいけないと思う。

私だって自分が病気なのかもと思うときもあるし、変な人だなと思うときがたくさんある。それとこれって違うことなのだろうか?

「病気で不安定なんだから」の親の言葉も、自分と姉を切り離してみていて、どっから目線?という気持ちがしてしまう。

私たちも、多分一緒だよ?と思う。違うのかな?

 

そもそも私は病院に行って診断してもらうことが良いことなのかという疑問がある。

それが本当に信頼できる専門医なら良いけど、きっと病院ってそんなところばかりじゃない。というか、そういう専門医を見つける方が逆に難しいと感じる。

薬を飲むことが本質の改善になるのかと言えば違うし、でもそれが少しでも助けになるのならそれに頼ることもたまには必要だとは思うけど。

薬の力というより、「本当の人の力」が一番効くのじゃないかなと思う。

別にそれが専門医じゃなくても、「人として」ちゃんと接してくれる人。

そういう人って意外に周りにいる。

多分それが、この本で言う「詩人」にあたる。

と思える私は恵まれているだけなのだろうか。

だから、なんだろう。今1年くらい姉は、実家で休養するといっているけど、そう思っている親と、そう思っている姉とがずっと一緒に暮らしていて変化は訪れるのかな。なんて思ってしまう。田舎で、あるようにみえる人との繋がりが意外にない家だったから、それならもっと違う人の傍にいた方が姉は何かきっかけを掴めるのじゃないかなと思ったりもする。

それもただの戯言なのかな。

 

つい先日、カフェでいつものように本を読んでたら、女性の1組がこんな話をしていた。

「ヨガの始まる十分前とかに流れてるのがさぁ、『全てはうまくいくようにできています。ありのままを受け入れましょう』(曖昧)みたいな感じでさぁ」と笑いあっていた。

(あ、これ私が行っているヨガだ)と思った。

私はこういう言葉に救われる時もあるし、そんなわけないでしょと思うときもある。

悪魔でこの女性客にこういう精神的な話はできないと思った。

そして、それを話している彼女はともかく、それを聞いている彼女はどちら側なのだろうかとも思った。

一緒に笑っているけど、本当はそういうのを受け入れられる人かもしれない。けど、そう言われたらこの子にはもうそういう話はできない。と思う。

 

そういうことは私にもあった。

職場で「ある人が、介護とか悩みを紙にばーーーーって書くんだって。そのノートは誰にも見せられないって言ってた。ちょっと怖いよね。人に話せばいいのにっていったら、介護とかの悩みを誰に話せるのって言ってた」と。

それを聞いて、私は(え、それって普通じゃないの?と思った。私も悩みとか心の内を現にブログに書き溜めてるし、ノートにだって書いてるよーーー!)

と心の中で思いつつ、この人はこういう話は引いちゃうんだな・・と思い、「そうなんですね~。介護はそりゃ大変ですよね」と苦笑いした。

 

こういうことを考えるのは遺伝性もあると思うと、その姉が言っていた。

祖父の兄弟は宗教にのめりこんで、自殺した。私の母の兄も精神科に通っている。私の姉(もう1人の)は、大学で心理学を学んでいた。今は全く関係ない仕事をしているけど。私が物心ついたときには、母や姉の嗜好でどうぶつ占いや心理テストの本が家にはいくつかあった。

私もそれをみるのは好きだった。今もしいたけ占いはチェックするし、タロット占いもちょっと興味がある。

こんな風に、カウンセリングとか、精神的ななにかについての興味も結構強い。

多分、少し関係しているのかもしれない。そういう血が通っている。

でも私は、宗教を信仰しないし、めちゃくちゃ占いを信じるわけじゃない。楽しむ程度。良い所だけ取り入れる。

 

私は、少しだけ、正常と異常を往き来できるのかもしれない。

というか、境界付近にいて、たまにあっちが強くなったり、こっちが強くなったりしていて、どちら側の意見もある程度は受け入れることができるのかもしれない。

自意識過剰かな。

 

という、だからなんだっていう気付き。

 

共有や共感とは一緒にその場にいる人がぎりぎりできる。

そんなことを思った。
私の感動を同じ熱量で伝えるのは不可能だ。
言葉に変換して口に出して伝えるのが苦手だというのも1つの理由だけど、それだけじゃないはず。

カカオと砂糖のみで工房で作られているチョコレートを食べた。
それは、私にとっては驚きであり、感動だった。
こんなに香りが広がるチョコを食べたことがなかった。
チョコってこんなにいろんな方向から味が来るものだったんだ。甘い、苦い。だけじゃない。
そして、食べたあとの余韻。
口のなかに暫く香りが残る。舌に甘ったるさが残るんじゃなくて、口の空間に香りが残るの。
あぁ、そうか。コーヒーみたいだと思った。
コーヒーも苦い、酸っぱいだけじゃない。いろんな方向から香りが来る。
チョコってこんなに深い味だったんだ。
深いで表すのさえも表面的すぎるくらいに。
この感動、誰かに伝えたかった。誰かと共有したかった。
私は1枚1000円の板チョコ(70g)を買って帰った。
そしてそれを周りの人に少しずつお裾分けした。
でも思ったような反応は返ってこなかった。
私がただ一人興奮していた。
でもこれ以上言っても伝わらないと思い、諦めた。悲しかった。
2人目からはちょっと冷静に説明するようにした。
でも、仕方がないことなんだよね。

まず興味の違いや差。私の今までの経験(私にとってのチョコの概念、コーヒーの概念)があり、あの場所でのやり取りや雰囲気含めこの感動なんだ。
これを分かってもらおうだなんて無理なんだ。
それでも伝えようとするべきなのか諦めるべきなのか。
だからもしそこに一緒に誰か行ってたら、その場のやり取りは共有できるからぎりぎり共有。
興味や経験はどうしても同じじゃないから、一緒に居てぎりぎり。

あるカフェの人が言っていたのを思い出した。
旅で立ち寄ったカフェのキャロットケーキがすっごい美味しくて感動したから作ってみた!と。
そういうことなんだと思う。
言い方、表情からはものすごく感動したことが伝わったのだけれども、私にはそもそもキャロットケーキへの執着はそこまでないし、どんなところでどんなそれを食べたのかが全く想像つかない。でもなんだか刺激を受けていることは伝わる。
ここまでは私と同じ。
でも、その刺激を今度は自分がというのが違うところ。
その刺激を自分の何かに投資する。
そういうことだと思う。
共感や共有こそはできないけど、その刺激を自分のものにして自分の何かで表現する。
そういうことなんだと思う。

流行

この間までは道行く人がロングコートを着ていたのに、そんな人は少なくなり、今期はショート丈のダウンとかジャケットを道行く人は着ている。

 

お店を周ると、欲しいものがないなぁと思う。

単にそこまでファッションにこだわりがなくお金をかけたくないという私だからかもしれない。

でも、私くらいの庶民からしたら、流行のものを手に取るしかない。

というくらい、お店には流行のものしか置いていない。

どのお店も大体似たような形のものを置いている。

あぁ、これが今のはやりなんだなぁ。次はこれがくるんだなぁ。とすぐわかる。

 

 

「流行」

 

は、勝手に落とし込まれて戦略的に成されている。

テレビ、広告、雑誌、お店。自ら探しに行かなくても、勝手に情報が入ってくる。

私たちはそれに影響を受けて、なんだか着せ替え人形みたいだなぁ。と面白く思う。

 

正直、似た物ばかりなのに選択肢が多すぎる。
あっちのお店でも、こっちのお店でもこの形。

ここでいつも買うと決まっていない私からするとじゃぁ、どっちがどうなんだ。という感覚。

こんなに似たようなものばかりなら、着ていてストレスにならなければ、よっぽどダサくなければ、安い物でいいなぁ。なんて思ってしまう。

安物は、毛玉になりやすい、ほつれやすい、生地が薄い、形が崩れやすい。というのがある。

でもどうせ、流行りものはワンシーズンになっちゃうんだから。

それって、状態が悪くなったから捨てるのと、流行りが過ぎ去ったから着れなくなったから奥に眠るのと…

どちらもそう変わらないよなぁ。

それならやっぱり私は、特に形に特徴がある流行り物は所持しないのが良い。

だから、自分が気に入って長年使えるような、そんなものを所持したい。

シンプルで、これならどこでもいつでも使える!っていう。個が無いと思われるかもしれないけど。それがいい。

そっち寄りの、信頼のおけるお店どこかないかな。