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思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

交換日記 ~勝手にお返事③~

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大分、間が空いたけど「サクちゃん蘭ちゃんのそもそも交換日記」への勝手にお返事編。

 

まず最初に書いておきたいことがあって、コロナの波が私の身近に来た頃に感じていたこと。

「はっきりとした原因が分かっているならそんなに慌てなくてもいいじゃないか。」

ということだったように思う。

目に見えないものだけど、原因はわかりやすく物質として存在している。

これほどに分かりやすいものなんてないのではないか。

それならいずれ対処法は分かる。順応していける。

そんな気がしていた。

 

 

それについて、『サクちゃん蘭ちゃんのそもそも交換日記』にうまく言語化されていた。

 

 

 時々そういうのをなぜか全部壊したくなるんです。
愚直に身につけてきたもの、切実に欲しがっているもの、全部全部、本当はいらないのかもしれないって思うことがあります。 

 

コロナウイルスの一件で、ひとつ気づいたことがあります。
それは、わたしの本当の不安はここにはないということでした。

 

なぜかと言うと、不安の理由がわかっているからだと思います。
感染するのもさせるのもこわい、医療崩壊がこわい、経済状況や人間関係の変化がこわい。どれも、とても怖いです。
でも、理由や原因がわかっている不安は、わたしにとっては本当の不安ではない。
それよりもっと怖いのは、なぜ自分がこんなに不安がっているのか、理由や原因がわからない不安です。わたしの中には、子供の頃からそんな不安が存在しています。

 

 (蘭ちゃん)

api.cakes.mu

 

 

 「把握癖がある」というふうに思っていて、「把握したい」という気持ちがつよくて、把握さえできると、それが自分にとってどんなに不利でも、状況は変わらなくても、ひとまず安心します。 

 

「こうするべきだ」というルールや「こういうものだよね」という考えを「なんでかな?」「ほんとにそうなのかな?」と疑うことで、他人の視野をそのまま自分に取り入れずに、一旦崩してから自分に見えたものだけを信じていたのだと思います。(「ほんとにそれで委員会」を自称しています)

 

わたしの場合は「わかりたい」という気持ちで考え続けて、その先でわかったら、いとも簡単にポイと捨てます。たどり着いたものを見て「へえ、これか〜」とわかったら、それで満足します。同じように複雑に考える過程は同じでも、わたしは「手に入れたい」と思っていないかもしれない。

それが理由かどうかはわからないけれど、わたしは「唯ぼんやりとした不安」を感じることはほとんどありません。

 (サクちゃん)

 

api.cakes.mu

 

サクちゃんの日記を読んで、思ったことがあります。
このふたりはよく似ている、と思っていたけれど、実は大きな違いがあるんだなということです。
「唯ぼんやりした不安」を持っていることは一緒。でも、サクちゃんは「諦めがいい」、わたしは「諦めが悪い」。サクちゃんは不安と共存しているけれど、わたしは不安と格闘している。これは大きな違いだな、と思いました。
さっき、わたしは連休までの状況を「旗色が悪い試合」というふうにたとえましたが、そんなふうに人生を闘いか何かだと思っているのかもしれないですね。
勝つか負けるか。それは他人に対してはなく、自分に対してです。
だから終わりがなくって、常に緊張していて、時々降りたくなったりして。

(蘭ちゃん) 

api.cakes.mu

 

 

当たり前で分かり切ったことだけど改めて、蘭ちゃんとサクちゃんは違う人間なんだなぁと思う。

 

私の話に戻してみる。

私にとっての不安。
元々存在している、私が人生の名目を探しさまよっている根本的な不安や悩み。

それが別枠の(しかも世界的に大規模な)不安が覆いかぶさってしまい、世界ごと大きな埋め尽くされた。
可視化された不安、誰もが一斉に同じような不安を与えられた。
それは、自分にとって外敵が増えるということを薄々感じていた。
人はストレスを感じると余裕がなくなり、他者のことまで気や頭が回らなくなる。

それを全人類同じタイミングで抱えるということになった。

その中でも、(重さなんて計るなんて本当はできないけど)状況や立場的にかなりきつい、まぁまぁやれる、それぞれあるけど、ほぼみんな自分のことで精一杯になった。

 

と自分の不安要素が、元々自分が持っているもの+コロナの件+外敵 になったのだ。

外敵という面から改めて、人からもらっているものは大きいのだと感じる。

 

「唯ぼんやりとした不安」

と書いてあるが、私もどちらかというと「唯ぼんやりとした不安」はないように思う。

サクちゃんのように、把握癖が強く、(なんでこんなに苦しいのか)(なにがこんなにしんどいのか)というのを考える癖があり、自分はこんな場面が苦手なんだなぁ。こういう時に息苦しいんだなぁとだいたいの理由は分かっている。

ただこれは私にとって、コロナのように物質としては存在する『目に見えないけど見える原因』ではなくて、物質的に存在しない『言語化こそできるけど見えない原因』なのだ。

私は、これかぁと満足するわけじゃなく、不安が不安を呼ぶというか、枝木のように、じゃぁ、なんでそれが苦手なんだろうと深堀してく。

そして諦められない。

「じゃぁどうしたらいいんだろう」

自分が楽であるためにはどうしたらいいんだろうと。

それについてははっきりとしたお決まりの対処法とか、原因が分かるからといってこうしたら治まるとかがない。

白黒はっきりつけたい性格のわたしは、それが嫌になる。

壊したくなる。すべて投げ出して違う世界に行きたくなる。

同じ意味ではないと思うけど、蘭ちゃんの

「時々そういうのをなぜか全部壊したくなるんです。
愚直に身につけてきたもの、切実に欲しがっているもの、全部全部、本当はいらないのかもしれないって思うことがあります。 」

という言葉がよく分かる。

 

 

そして私はどっちなのだろうか。

自分を受け入れて諦めて「じゃぁどうしようか」

なのか

自分と格闘してる「じゃぁどうしようか」

なのか

 

と考えたとき、割と受け入れて諦められるようになった。

幼少期のころは、原因を抱えたまま我慢する、頑張る、耐え抜くしかないものだと思っていた。それしか知らなかった。
けど今は、それって本当にそうなのかな?と思うようになっているのも確か。

苦しいことを持ち続けることは本当に大切?克服できない、どうしても苦しいままなら他のやり方があるんじゃない?と。

でも、自分はこうなんだね。と受け入れた諦めるではなくて、自分なんて所詮こうなんだという諦めにも思える。

それはまだ、そんな自分を変えたくて奮闘しているということなのかな。

「変えたくて」じゃなくてもしかして「変わらなければ」という外敵もあるように感じる。

そうなると、私はまだまだ自分のことを過不足なく把握してあげなきゃいけないと感じた。

人の言動や社会の状況にいちいち惑わされないよう。

 

「世界は夢組と叶え組でできている」著:桜林 直子

「自分の能力や性格、できることを過不足なく把握できていると得をするよ。

他人からどうこう言われても自分はこうだと言えるから。

自分のことを一番よく分かっているのは自分だから。」

というようなことが書いてあった。

 

さっきも書いたけど、

私は、このコロナの件で、人の言動や環境や社会の状況に心がいちいちかき乱されて左右されるのは本当に、ほんっっっとうにうんざりだと思った。

そして、まだまだその核が私には無いのだとも分かった。

じゃあ、その核をみつけるため、自分の能力や性格、できることを過不足なく把握しようとノートに書いていこうと思った。

唯、1つ問題があった。

「過不足」なく把握することはとてつもなく難しい。

どうしても「不足」する「不足させて」しまう。

それは、人と比べて自分を卑下することがしっかりと身に付いてしまっているからなんだと思う。

これは自分は持ってるなと浮かんでも、どうしても、本当にそうかな?自分よりできる人はたくさんいて、持っているうちに入らない。

あるいは、ある一定の基準(そんなの目に見えないしそもそもないんだろうけど)があるように感じていてそれを超えないと持っているとは言ってはいけない気がしていて浮かんでさえこないように思う。

完璧主義?変にプライドが高いだけ?

 

ここから改善していかなければ到底、核を見つけることは難しいと思う。

「じゃぁ、どうしたらいい?」

とそこで行き詰まっている。

 

ー・ー・ー

 

まちは少しずつ動き出したけど、それでまた外的変化に左右されてしまうという不安が私を襲っているように思います。

そんなに不安に思うことはないはずなのに。どうしてもそこに弱いのです。

人として

人を見て、みんな素直でいい子だし、笑顔で人と接することができて、人のことをよく見て気遣える。

どうして私にはできいないんだろう。

私って人を不快にさせてるのかも。

思い込みかもしれないし、本当かもしれない。

 

「どうして」

それは、昔っから今までそういう態度で過ごしてきて、それを周りも受け入れてきたからだ。

「どうして」

と過去を遡っても変えようがないから考えるだけ無駄なのだろうか。

「どうしたら」

を考えるためには、原因を探るため、過去を見つめることは必要なのだろうか。

 

昔から人に話しかけるのが苦手だった。
特に年上の人には変な緊張感があって、話しかける内容を頭の中で準備して心で唱えて、声に出すタイミングを見計らう。

自分から話しかけられる人と、自分から話しかけるのが怖い人との2極化だった。

それは、家族にでもそうだった。

父、祖母、祖父、真ん中の姉 自分からほとんど話しかけられなかった。

なんでだろう。実際、話して怖い訳じゃないし、怒っているわけじゃない。

同じ部屋にいるだけで息が詰まるというか、胸になにかつっかえているような。そわそわ落ち着かない。自然体の自分ではいられない。2人きりというのが物凄く緊張する。

普段は気軽に話し掛けられる人でさえ、相手がなんだか機嫌が悪そうだったり、泣いていたり、集中していたり、疲れているように見えた時も同じような感覚になり、話かけられなくなる。

それはもう、保育所、小学校、中学校、高校、専門学校、社会に出てから…ずっとずっと二極化だった。

そりゃぁまぁ、誰にでもあるものなのかもしれないけど、ちょっと重症すぎだなぁと思う。

どうしてなんだろうか。

何を話せばいいかわからない。何と声をかければいいかわからない。

どうせ、この人はこう思ってるんだろうな。どうせわたしなんて。私ががんばったところで。という思い込みやひねくれ?

 

じゃぁ、どうしたら。

と度々本を見たり人に影響されて感化され、頑張ってはみるものの、時間が経てばどうももとに戻っていって、またダメだった。ってなる。どんどん自信がなくなる。

自信がなくなると、ますます話すことが怖くなって、ますます思い込みが激しくなってしまう。すると、ますます話さなくなって、単独で突き進んでしまう。

それがわかっているのに。

何度も何度も繰り返す。ずーっと同じ場所を周回しているだけな気がする。

どうやっても抜け出せない。

 

扉が開いて、閉じて。

それを自分でも冷静に、開いてるな。あれ?この前まで開いてたのに閉じてきた。しかも何重にも重なってる。と分かるのだけれども、自分の意志でコントロールできなくて、でも、誘導してるのは明らかに自分で止められない。

 

 

オンラインヨガ

昨日、古典ヨガをYouTubeで無料配信されるということで、実際に受けてみた。

Twitterでフォローしているのだけれども、あがってくる動画とかも人間ってこんな動きできるんだ…!みたいなのがたくさん。

柔らかくてしなやかで、自由がある。けど軸はある。うん。体が上手く使える人ってこれができる人なんだよね。きっと。

普段は、ダンサーや役者さんのパーソナルトレーナーとして活躍されているそう。

@koutopo さん

 

 

 

実際のレッスンは、21時から始まり終わったのは22時40分ぐらい。

最初と最後に、話や質問タイムがあったので、実際に動いたのは1時間くらいなのかな。

聞きながら、見ながら実際に動きをしていく。

 

ヨガは、3月までしていてやめてからはしてなかった。

久々にして、少し離れただけで忘れていたことがたくさんあったなぁと思った。

呼吸とか、リラックスすることとか、程よい心地良さをみつけるところ、自分の体の声を聴くこと。

身体が緊張していたこと。

しかも、前やっていたのは大きいところだったから精神的なゆとりをというより、大人数で機械的な感じだったので、その辺の違いもかなり大きい。

自室で誰もいないリラックスできる環境というのもいいのかもしれない。

 

 

最初のお話のところで、何故こういうことをしようと思ったのか(今回が初回)とか、ヨガについてを少し話された。

そこで、これって全てに関係するなぁ。今、私が見つけたいものだなぁ。と思ったのが、

「頑張りすぎない、怠けすぎない。ちょうどいい中間。それを自分で見つけていく。」

という言葉。

ヨガのポーズを取るときの心得みたいなことで言われたのだけど。

 

私は昨年あたりから、呼吸が浅く、体を固まらせてしている仕事が、とてもしんどくなった。なんといっても体が物理的にしんどい。凝る、張る、痛い、重い、鈍い、体が動かなければ、気持ちもしんどい、ミスも出てきた。

だから、緩めよう。頑張りすぎない。と年が明けてから心に決めた。

少し体や気持ちに余裕ができた。

けど、ひたすら緩めっぱなしだったから、またミスが出てきた。

引き締め直さなきゃ。というところ。

でも、前のところには戻りたくはない。丁度いいところ。

頑張りすぎない。けど緩めすぎない。ここぞというときは頑張る。ここぞというときは緩める。どっちも大切。どっちも必要。

そのバランスが凄く難しいなぁと思う。仕事だけじゃなくて生活全てにおいて。人間関係においても。やるべきことやりたいことも。挑戦することも、留まることも。変化すること、守ること…

私、このバランスの調節を昨年から今まで練習していて、そしてこれからもし続けていくんだろうなぁ。と思った。失敗の意味が昨日の言葉で見つけられたような気がした。

 

身体が楽になりたいと、トレーニングを始めたんだけど、そこもバランスを大切にしたいなぁ。

「自由な体を手に入れる」

柔らかくしなやかに動く。でも止めるべきところ締めるべきところは締まっている。

そういう風になりたい。

身体の調子は1人1人ちがうし、なりたい像も違う。

わたしは、ただがむしゃらに追い込んで追い込んで頑張るんじゃなくて、バランスを保ちたい。頑張るところはがんばるけど、無理をしない。

それが、どこまでならそうなのか、手を抜かず頑張りすぎてない位置がまだ分かっていない。

 

昨日の配信で、ヨガも生活に取り入れていきたい。というか強さとしなやかさを持ち合わせたい私には大切な存在だと思った。

力の抜き方、呼吸の深さ、体と向き合う、今の自分を過不足なく知ること。

 

フィットネス、トレーニング、ヨガ、ティラピス、ボディワーク…

人生に大切なことも学んでる。

悪魔でも私は。

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毎日毎日、色んな人のそれぞれの考えがネットでも現実でも入ってくる。

みんな、どこかに誰かに吐き出したいんだと思う。

でも結構デリケートな問題。

なんだろう。「政治・宗教の話は禁句」みたいなそんな類のものな気がする。

コロナについては、1人1人が関わっていて、1人1人の判断で。

それぞれ、何がよくて何がだめか、どこまでなら良いか。自分は何を良しとするか。

「個」による考えが大きい。どれだけ偉い人がどうこう言おうが、何か取り決めがあったとしても、隅々までは行き届かない。

大人の判断とか、理性とか本能とか、我慢・抑圧とか爆発とか。

そんなのが1人の中でごちゃごちゃになっていると思う。

そして、何を大事にするかによっても行動は違う。

そんなのが、1人ずつあるから。多少、足並みを揃えた風ではあっても全部ちょっとずつずれてる。

 

割とみんな自分の考えを吐き出す。

そういう話の時は口調に荒れがあり毒がある。

無意識なのかもしれないけど、人を批判している。

あぁ、みんな疲れてるんだなぁ。と思う。

表では普通にみえる。ちょっとでもポジティブに、おうち時間を楽しくみたいにしてるけど、結局はやせ我慢にみえる。

 

私は行動についてのはっきりとした正解がいまいちわからないから、私という人間の立場からすると周りの人を見ての怒りや批判はない。

精神的にも健全であるためにみんなそれぞれ生活しているように思う。

 

私が参っているのは、自分の考えを安易に話せなくなったこと。

人から何か吐き出されても、自分の考えはぐっと胸に塊としてとどまっている。

常にそうなってしまった。触れてはいけないものみたいに。

それを含めてわたしだから、そこが話せないと普通の会話も難しい。

何かはなすとぼろが出ちゃうかもしれないから。

人の話は、「そうですよね。」「難しいですよね。」「どうしたらいいかわかんないですよね。」ってうんうんきくけど、私にもその人と同じではない考えや思想がある。大事なものだって多分違う。

大抵の人は、そうだよね?そうでしょう?あなたも私も同意見であること前提に話をしてくるのもきついのかも。

でも逆に「どうしたらいいと思う?」と聞かれても答えられない。抱えているものが違うってことはわかるけど、なにがどう違うかは分からないから。私はどうしようと何も言わないからその先はご自分で。としか言えないから。

散歩ならマスクをしてない人、ジョギングでもマスクをしている人、飲食店で自粛して休業しているお店、デリバリーやテイクアウトを増量して営業しているお店、アルコールを持ち歩く人、手を洗えばいいという人、子供の複数人で遊ぶのを見守る人、遠ざかる人…それぞれがそれぞれの立場や考えで行動してるんだから同じわけがない。

私としては、政治や宗教の話はタブーとされているのが、もっと身近に日常的なものになって、その上「私の信仰しているのはこれですよ」と聞くまでもなく行動や身に付けている物で考えが明らかに目に見えるようになった感じがする。

それで見ず知らずの人に変に仲間意識を持ったり、その逆で敵対意識をもったり。

人の考えによる種類分けが誰の意志もなくされているなぁと。

よっぽどのことをしていない限りは、それはダメでそれは良いとは言えないし、言うつもりはない。

それで、なんだと言われると…うん。話ができないなぁ。参ったなぁ。苦しいなぁ。というところ。

それが近い人であればあるほど、話ができなくてしんどいなぁというところ。

今のもやもや、心のつっかえ、言葉が出てこない、無駄に言葉を選ぶのは、そういうことだ。

 

 

私も通販とかデリバリーを利用してストレス発散(?)をしてみるけど、ここには足りないものがあるし。


現実逃避じゃないけれど、そういうものが存在しない時間ちょっとでも作れたらなぁと思う。

 

行動欲の方

毎朝、毎晩、朝起きてからと、夜寝る前、必ずトイレに行く。

それはもう当たり前すぎて、「~しなきゃ」の先にある。

こんな風に色んなことが習慣化できればいいのになぁと思う。

 

わたしたちの毎日は、こんな習慣化されたものと、思いつきによる行動で成り立っていると思う。

思いつきといいつつも、個の発想や行動パターンは大体同じだろうけど。

それは何十年も繰り返してきたことだから、想い癖や行動は変えるのって本当に難しい。

既になんなく使いこなしているものを、新たなものを取り入れて、読み込んでかみ砕いて、自分のものにしていくのは相当な時間と忍耐力が必要に思う。

それでも、止まっていることもしんどいし、変化を望む。

 

 

私のいまの行動欲の方のしたいこと

 

・ピアノ、弾き語りをレベルアップさせる

今まで、1つの曲を完璧というまで落とし込んでこなかったから、この曲だけは自信をもって一曲弾き語りできるくらいまでにしたい。

歌うことは楽しいよ。機器から出る音に合わせて歌うより、生身の人間が出した音に合わせて歌う方が何倍も気持ちがいいよ。

 

・筋トレを毎日自分でもする

3月からヨガを辞めてジムに通い始めた。

といっても、パーソナルトレーナーについてもらって、週3で1回1時間というメニュー。

目標は俄然、楽な体を手に入れる。疲れにくい体を手に入れる。

筋肉ムキムキになりたい訳ではない。(そもそも相当努力しないとムキムキになんてなれない。)

トレーナーに頼るだけではなく、自分でも取り組みたい。

 

・人の体について

前から興味はあったけど、パーソナルを色んな人に受けていたら、心と体や気の考え方、人間の体の不思議について話してくれる人もいて、呼吸や、気とかその辺にもますます知りたいと思ってきた。

というより、自分と仲良くなりたい。正しい視点で親のような目で、今、こうなんだねってわかったらいいよなぁと思う。

人間の体に絶対なんてなくて、(所詮自然のものだから)でもそれを少しでも理解していこうとするって面白いなぁと思う。

 

・コーヒーの美味しい入れ方を研究する

とりあえず自分が持っている器具でどうやったら自分好みに淹れられるか。

なんか、今、いまいち。

本やコーヒーショップの人に聞いて試行錯誤していこう。

 

・日記を毎日つける

何年か前までは自分で1日事に出来事と思ったことを日記に書いていた。

けど、感情や反省に向き合いすぎてしんどくなってやめてしまった。書くと、そこに刻まれてしまって、何度も思い出してしまうから。

今こうしてブログにばーっと書いたり、手帳になにか書きたいときにばーっと書いている。大体のことは忘れる。それでも忘れられないことが私の根本的な悩み。

それはもう分かっている。

今なら日々思っていること、感じたことを小出ししていってもライトに書けるかもしれないとなんだか思ったので、様子を見て始めようと思う。

 

・人との関わり方、観察眼、を養う。哲学的なことを掘り下げて知っていく

これも元々興味があるというか、自分が昔から生きにくいのはこの辺を考えていくこと自分に落とし込んでいくことが大切だと自然とやってきたことだと思う。

理論的にではなく、体験的にやっていきたい。

 

・人と出会う

こんな時に、本当に難しいことだけど。

私は直接会うことを大事にしている人間。だからこうなった時に、人に会うことが許されないことが結構ダメージだった。全く会うなってことじゃないけど、会ったら悪いことをしているような気分になるのがとても嫌だ。

媒体であまり人と繋がっていない私は、1人の世界にいるみたい。

この辺を自分にとってプラスになるような変化を起こさなきゃ。

 

あぁ、良かった。自分がしたいこと、まだまだあるじゃん。

全部一気にやるとするのは無理だけど、色んなことに振り回されずにやれたらと思う。

世界は夢組と叶え組でできている / 桜林直子

以前「サクちゃんと蘭ちゃんのそもそも交換日記」をここで紹介した。

そのサクちゃんこと桜林直子さん著作されている本。

 

最初を読んでの自分の記録。

 

題名にある、「夢組」と「叶え組」

 

本書で「夢組」とは…

好きなことややりたいことがはっきり見えていて、それに夢中になることができる人たち。

これなら時間を忘れていくらでもしたいというような内側からどうしようもなくわいて溢れる行動の欲の持ち主。やりたいことをやりながら、お金や時間の問題がでてきたらその都度工夫をしながらする。

 

「叶え組」とは…

やりたいことがない。夢中になれることがない。

「お金と時間をつくりたい」「人が笑顔になれる居場所をつくりたい」などという状態の欲の持ち主。そこから逆算してするべきことを決める。

 

ということで、「仕事でもパートナーでも役割が違うだけだからチームで組み合わせるといいよ。」とある。

 

私はどっちだろう。

小さい頃は「夢組」だったのかもしれない。

だけど、今は「叶え組」?「夢組」になりたかった「叶え組」?

よくわからない。本当の私はどっちなのだろう。

過去を辿ってみる。

この変のことは多分前にも書いたと思うけど、きっと大切なこと。

 

小さい頃から、人は「大きくなったらなにになりたい?」と聞かれる。

私は、女の子ならお花屋さんなのかなぁと、一般論で答えていたように思う。別にしっくりは来てなかったし、花が特別好きでもなかったけど、ちゃんとした答えを言わなきゃいけない、書かなきゃいけない、空白は許されない。答えられないのはよくないこと。そう思っていた。小さい時には言える選択肢も少ない。知らないことばかりだから。

小学校6年生の卒業文集での「将来の夢」の欄。

その時点で少し責任を感じた。ちゃんとしたことを書かなきゃいけないんじゃないかという、私の真面目さがあった。

書いたらそれに向かわなきゃいけない。だって小学6年生ってもう色んなことを知ってある程度の判断はできる。子供だけど、何を言っても許されるほどの子供の期間はもう過ぎたと思っていた。

そこに私が書いたのは「パティシエ」だった。

お菓子作りは、姉や母とよくしていた。お菓子を作ることは好きだった。というより、レシピを見て作ったことが無いものを形にするのは、単純に、知らないものと出会ったらわくわくする私にとって(これは最近自覚したこと)それはそれはわくわくした。

食べることは好きだったし、なにしろ作ったものを食べることができるという特典がついてくる。

なにより、作ったものを家族や友達が褒めてくれたり、器用だねと言ってくれるのが嬉しかったし、その頃は単純だったので、「あ、私って器用なんだ。」「私の得意なことってこれなんだ」なんて感じていた。

だから今の自分で書けるとしたら、周りもそういってくれることだし、これかな。というので書いたように思う。

周りは、ピアニストとか理学療法士とかバスケット選手とかって書いてるのに私だけ書けないなんて…というプライドもあったのかもしれない。

それを書いてしまったからには、嘘をついてはならないといけない。というよくわからない責任感が生まれた。

多分、それを見た祖母に凄く喜ばれたと思う。祖母はよく私のことを自慢のように親戚やご近所に話をしていた。それがどう思われていたかはよくわからないけど。

「お菓子作りをいつもしていて、将来の夢はパティシエって書いとるんよ。」

と電話で嬉しそうに話していたのを覚えている。

それをきくたび、圧がかかっているようなきがした。期待されていて、それに応えなきゃいけないんだという。

私は小さい頃、割と運動はできた。球技や水泳以外。小学生の時、陸上大会で1位を何種目かで取った。県大会で何位かになった。

それも祖母は親戚などに自慢していた。

だけど別に私は走ることが特別好きなわけじゃなくて、走れたというか、両親がそういう体に生んでくれたからそういう能力が備わっていただけで、別にそれ自体が特別好きではなかった。誰かと遊ぶ鬼ごっことかは楽しかったけど、50m走とか、シャトルランとか、マラソンとかしんどかった。それも、大体学年で1、2位を争う位置に居たので、変にプレッシャーだった。負けたくない、1位を取ったら取り続けなきゃいけない。そんな感覚だった。しんどかった。

好きではなくできただけ。それが、備わっている才能と言うのかもしれない。

それを努力で伸ばしてやるべきなのかもしれない。

でも、だれかの期待に応えるためや、そんなプレッシャーを感じるのはしんどかった。

走りたくてたまらないわけじゃなかった。人と遊ぶためのツールだっただけ。

中学では運動部には入らなかった。

祖母はそんな私に、オリンピックとかを見ながら言っていた。「もし陸上続けとったら、こんな風になっとったかも。おしいことをしたね」と。

何度か言われたことがある。それはしんどかった。いつも苦笑いをしていた。

私の選択は間違っていたのか、期待を裏切って悲しませてしまったのか、私は努力やしんどさから逃げたダメなやつなのか。そういう想いが積もっていったようにおもう。

 

私は、家族から「我慢強い」「芯が通っている」って言われてきた。

けど、本当にそうなのかな?と感じる。

そういわれるからそうならなきゃって頑張ってたのもあるのかもしれない。

だって、ここまで、どう見たって、メンタル弱いし、自分に甘いじゃん。プレッシャーは背負えない。逃げてばっかだ。

何をするにしても、勝ち抜けるような人はそんな芯の強さがあるのだろう。

でも別に私はトップになりたい訳じゃない。一流、二流、三流…あなたはどこで生きる?なんて言う人もいるけど、私、そんなことに興味がない。 

 

中学は吹奏楽部で、部活が土日もほとんどあり学校生活で忙しかった。

部活は真剣にしたし、柄にもなく、生徒会にも入った。

ほんと、今思うとあの頃は果敢だったし、自分に厳しかったと思う。

生徒会は本当に苦痛だった。人前で喋るのが好きでもない、人を仕切るのが得意でもない。むしろ苦手。生徒会メンバーもあまり仲良くない。というか、1人1人とは喋れるけど、メンバー全員でいるときは居心地悪く、早く抜け出したかった。先生とも打ち解けるようなタイプではなかった。

なのに、何故立候補したか。

周りの人が、部長、副部長、委員長…次々なっていくのを見て、私も負けてられない。なにかやらなきゃって思ったから。ただそれだけ。

負けず嫌いもいいとこだ。

 

中学生活では、勉強、部活、生徒会、友達関係に必死だった。音楽に興味が強くなったのはそのころで、ギターを買って練習をした。お菓子作りはというと、あまりしていなくて、バレンタインや友達の誕生日に作るくらい。だけど、その時は張り切って作っていた。

 

中学3年生で進路を考えるとき。

やっぱりどうやって決めたらいいか分からなかった。普段から成績はよくしていたし、内申点もよかった。けど、それがその先を決める何かの役には立たなかった。別に、良い高校に入りたいから勉強していたわけじゃなかった。やっぱり、そこも期待に応えるためだった。中学1年生の学年末の通知表で酷い評価を貰った私は、中学2年生からは改心しようと決心。努力が実り良い通知表を貰った私は、クラスの皆から凄いといわれ、両親はそんなに気にするタイプじゃなかったのが、やはり祖母だ。祖母に褒められ、お決まりの親戚に自慢。一度取ったら、下がるわけにはいかない。と、中学3年までその位置をキープし続けただけなのだ。

期待やレッテルを維持するためだった。だから、こうなりたいから勉強するわけではないし、勉強がすきなわけじゃなかった。テストの為に頑張って、忘れる。興味があるから勉強していたわけじゃない。進学校に行きたいわけじゃない。今みたいな状況が続くのは嫌だとも思っていた。

そこで、再び、私はしたいこと(お菓子や料理)があるのになんで高校に行かなきゃならないんだ。と思った。のか現状を変えたくて思い込んだのかわしらないけど、高校へ行くということに疑問をもった。

私の中で、高校に行かずに働くという考えも頭をよぎったくらい。

それは、滅多に口出ししない両親が止めた。高校卒業資格は持っていた方がいい。と。

それで私はしぶしぶ調理科のある高校に決めた。私の中学からは前例のない受験先で、家からも通えない。そんなところを受験して合格した。

また祖母は喜んだ。そして自慢した。

私も素直に嬉しかったし、人と違うことをして成功したことに満足感を得ていたのかもしれない。

 

高校生活は楽しかった。

新たな土地で、新たな住まい、新たな人。

知らない料理を教えてもらえる。それをたまに帰った実家で作るとみんな褒めてくれる。美味しいと食べてくれる。

切磋琢磨するクラスメイト。

高校でも私は成績はクラスで1位2位を争う所を3年間キープした。

料理が好きで、好きで、実技の点は良いし、楽しそうに実習をするけど、座学はダメというクラスメイトがいた。

そっちの方がいい。と今になって思う。好きなものは好きで、嫌いなものは嫌い。自分に正直だ。

私はいつのまにか、楽しいがプレッシャーや期待に変わり、全部完璧にしなきゃと重くて苦しくて、耐えがたいものになる。

料理は好きだったし、できないことをできるようになる努力はする。例えば、オムレツが綺麗にできるように。とか、桂剥きが薄く長くできるようにシャトー切りが綺麗にできるように…

けど、私は、その先がない。用意されたものをそこのレベルに達するまでの努力はできるけど、新たな発想がない。

周りより上手くなりたいという負けず嫌いは発揮できても、そこが到達点で、それがなんだというのだろう。

高校3年生の時、進路を決める。ここでもよく分からなかった。

私はどこに向かうべきなのか。周りは就職が多かった。レストランや学校給食やパン屋やホテル…どれもしっくりこなかった。

専門学校か就職の2択だった。調理は3年間したけど、製菓はしていないから、このまま就職だと考えると怖くなったのだと思う。

高校はかなり校則があった。前髪の長さ、スカートの長さ、眉毛、身だしなみ。5分前行動。挨拶。

社会は厳しい。遅刻は厳禁。服装身だしなみはちゃんとしろ。高校生ができることなんてたかが知れてる、お金をもらって学ばさせていただいていると思え。

正しいことばかりなのだけど、随分脅かされていたようにも思う。

結局専門学校を選んだ。

このあたりからだ。なんだか今までのようにはいかないと思ったのは。

専門学校に入っても成績はキープするのだけどそれでなにになる。と思っていた。

厳しいと評判のフランス人の先生にも目をかけられていた。

だけど「夢中になる」とは違っていた。

やっぱりできる自分、真面目な自分を演じていたように思う。

やりたくてやっているはずなんだけど、期待に応えるために真剣なふりをしている。

期待に応えなければならない。そっちの方を重視してしまい、張り詰めていた。

それなら、夕方から夜中まで飲食店で働いて、授業中は寝ているような人の方がよっぽど健全なように思う。まぁ、何のために大金払って専門学校にきているんだとも思ってはいたけど。

就職を考えるときにもまた分からなかった。

就職しても、今でもまだ分からない。

今私のしたいことは、

「私がもらったように温かさを受け取れる居場所をつくること」

「人に何かを渡すこと」

これは状態の欲。

行動の欲は、あまり思い浮かばない。

カフェ製造を3年し、パン屋に務めて3年目になる。

正直なところ、作っていて楽しいがあまりない。作っていても誰の顔も浮かばない。

状態の欲を叶えるために、逆算して私ができることさえ思い浮かばない。

自分に自信がない。これが得意と言えることがない。私は、諦めて諦めてきた。上には上がいる。到底及ばない。プレッシャーがかかるのが耐えきれない。

いつもなにか違う。でもなにが正解か分からない。

いつも誰かの期待や周りの反応を気にしていた?かといって期待に応えられてもいない。そもそもその考えが間違いだ。

自分にとって幸せとはなんだろうか。

過去は過去なのできちんと向き合うのってわりとできる。

だけど現状と向き合うのはかなり難しい。

 

ここまで書いてきて、自分で感じた私の特徴。

 

昔から、人の言動を勝手にプレッシャーや期待と重く受け取りすぎるところがある。

そっちに焦点がいってしまい、自分を苦しめたり、抑制したりする。

幼少期からの祖母の発言の影響はかなり大きなものだと思う。

 

負けず嫌い、生真面目。

人の目、人のエネルギーによって突き動かされることも多い。自発的にはなかなか動けない。

あの人が頑張っているから私も頑張らなきゃ。とたまにこれもあの人は頑張ってるのに私はまだまだだ…となるときもある。

 

状態の欲はかなりある。というより、今まで心が落ち着かなかったから、張り詰めた状態でいたから解放されたいと思っているのかもしれない。

上記に書いた状態の欲に追加で

「体や呼吸が気持ちいい空間で過ごす(働く)」

「時間や心に余裕がある空間で過ごす(働く)」

「人と影響しながら過ごす(働く)」

があればいいと思う。

働く時間も自分の時間なのでありのままの自分でいられたらそれはどんなに良いことだろうかと思う。

とにかく、自分の心地よさ、精神的な心地よさを優先したいだけなのかもしれない。

とはいえ、「働く」とは、きっちりしないといけない。それはどんな仕事もだろう。

ふわっとなんかしていたら、お客さんに失礼だ。

その辺のメリハリのつけかた、切り替え方がまだわかっていない。

 

 

こうしてみると、私は「叶え組」なのかもしれない。

幼少期は「夢型」だったようにも思える。

なのでちょっとやっかいでややこしい「叶え組」

 私の状態の欲に多少は寄り添ってくれる夢組じゃないとタッグは組めないと思う。

違和感が出てきてしまうと思う。

それも大事にしたい。でもそれを伝えるより作業に没頭したいという人がいたならば、私がそれを気に入ることができて、それからその想いが感じられるなら、それを伝えることは割と得意なようにも思う。

私、営業の為に嘘を付くことや思ってもないことを言うことができないから。

本当に思ったことは大事にできるし想いを強く込めることができると思う。

それが経済的にとか、社会的にやっていくのは、効率的ではないというのが一般的であろうと、そういうものを大事にしたい。

だけどたまにそれを忘れてしまう自分にうんざりする。それをたまに忘れてしまうのは、時間と量を重視しなければいけない環境のせいだと思う自分にもうんざりする。

忘れてしまうのはなんでなんだろう。忘れるってことは本当は 違うのかなと自分を疑ってもしまう。


ここに自信を持つということや、なんで忘れてしまうのかの原因を探ることが私にとって大切な気がする。

 

現状、私は仕事であまりこうしたい!やこれがしたい!でやってることはあまりない。

経営者のこういう方針でいきたい。に、それならこうすることが良いだろうな。お店に入って目に付くものはなんだろう。私がお客さんだったらどうされたいか。という考えで動いていると思う。

だから、やりたいようにやってと言われたら、動けないと思う。私が入る領域じゃないとも思っている。経営者は私じゃないから。

指針がないというか、「経営者」と「私」ベースがまったく別のものだと思う。

途中で経営者と私を混ぜるのは無理だと思っていて、これは感情的にも。

こっちならこっちで最初から割りっていかないとやっていけないという感覚。

 

 

私にとって幸せとはなんだろう。

私の中に誰からの発言にも揺らがない何かを見つけることはできるだろうか。

 

どんな状況にあっても、自分の在り方や自分の人生が根本的な悩みの種だなぁと思う。

何も影響しない、(仕事だったらやめられたら困るからとかの感情も入るかもしれないから)嘘を付かない客観的な人の視点も聞けたらいいのになぁと思う。

 

 

2日ぶりの綺麗な晴天

坂の下から見上げても、坂の上から見下ろしても青だった

 

このまちは、急な坂が多い

海と空を見下ろしたり見上げたりできるんだ

やっぱり好きだなぁと思う

このまちが作る風景が

私の部屋から見える風景が

輝く西日が差す頃の、家々がつくりだす影と光が

ここへ来て3年目

ここじゃなきゃダメなのかな

似たような景色なら探せばあるのかな

自然があるからこその景色だ

だけど人間が作った景色でもある

 

 

日々、色んな事を考えてしまう。

この状況でも…いや、「だからこそ」やっぱり私は仕事と生活のことについて考えてしまう。

この状況にも疲労はあるんだけど、私、多分この状況によって変わった自分の環境から引き出される内省で疲労している。

仕事=生活? 仕事≠生活? 仕事=好きなこと? 仕事≠好きなこと?

仕事=人? 仕事≠人?   仕事=お金? 仕事≠お金?

仕事=???

これは私の人生で一生かけて取り組む課題だな。

どれも=でも≠でもない感じ。

思えば、初めて就職するとなった時から、え?無理じゃない?って思って就職活動が全く進まなかった。

お店について、そこの商品について、そこの人について1度や2度行ったくらいでわからないし、そこで働きたいだなんて正直思わない。何も知らない学生がそんな格付けみたいなことするものじゃないって言われた。(覚えがある。)

そうかもしれないけど、でも、それが凄い自分に嘘をついてるみたいで嫌で動けなかったんだ。

それが今となっては、こういうことだったんだってなんとなく分かってきた。

私の中で、「働く」というのは、その「場」というか一定の「時間」の自分の「居場所」になるわけで、それなら本当に心動かされる「もの」「人」「こと」じゃないとだめなんだ。それを1番に守らないとダメなんだ。そんな気がする。全部揃うなんてことはあり得ないと思うけど。

それが私の場合、とりあえずやってみれば好きになるとかじゃない気がしている。今までもそうだった。好きになるんじゃなくて、好きなものはもう私の中にあるような感じ。多分、好きなものや人やことは、接したらすぐに心は分かってるんだと思う。

私が気付けてるか。見て見ぬふりをしているのかも。

恋愛のアドバイス?とかでよく言われるけど、「付き合ってみたら好きになるかもしれない。」が多分私にはない。

何事も、「嫌いではないけど、特別好きでもない」「しろって言われたらするけど、自分からすすんでするほどではない」止まり。

ああ、やっぱり。目的や目標も大事だけど、それ以上に、そんなものなくてもなんでか知らないけどやりたいこと、良くわからないけど惹かれるものや人の方を大切にしたいんだな。

そう考えると、私も、ちゃんと選んできたんだなって思えてきた。自分の感覚を頼りに自分のペースでゆっくりだけど決めてきたんだと思う。もしくはそういう縁だけ残してきた。自分が自分を導いてきたのかもしれない。無意識ながらにも。

だからこれからも、しんどいけど、もやもやしながらゆっくりゆっくり自分と向き合って、目を背けるときもあるけど、そうやって決めていけるのかもしれない。