ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

1つの言葉から広がる思想。

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『話すは離す』
という言葉をあるブログで目にした。

勝手にブログに書いていいものなのか、でも凄くしっくり来た言葉で、ものすごい言葉に出会えたと衝撃を受け、そこから考えが広がっていったので書き留めておこうと思った。


更にそこには、「孤独であることが辛いのは、自分を届ける相手がいないからだと思う」と記されていた。


あぁ、そうか。私は誰かと話したいんだ。だからなんだか寂しいのか。
この1文がすとんと心の中に落ちた。

ここのところ、私自身のことを話せるような親しい友人と会っていない。もちろん自分のことを話すこともない。
電車でたくさんの人の中にいるし、まちではたくさんの人とすれ違うし、職場では人と会う。

だけどなんだか『孤独』だ。

私は1人が決して嫌いではない。むしろ1人の時間はとても大切。
だが、時として孤独は寂しさをもたらす。
それはこう言うことだったのか。


多分、話すこと自体が重要ではなくて(もちろん人と直接あって声を聞いて表情を見て笑い合うのもとても大切だし、人と一緒に居てそれだけでいいと思えるときもある)、自分を誰かに届けたい。話して自分の思想や分身を離したい。それを求めていたのだ。
この言葉で気づいた。

そしてそういう分身を届ける存在がいることはものすごくありがたいことなのだ。

手当たり次第に誰にも自分を届けることはできない。自分のタイミングとこの人にならという相手。それが揃ったときにできること。

 

今朝、駅までの歩いていてふと、(今、私のことを知るのは私しかいないなぁ。私のことを話せる人は近くにいないし、どこから誰にも話してないだろうか。なんとなくだけど、それは誰にも話さずこれからも自分で持っていくんだろうな。今ここで私が消えてしまったら、きっと私のことを話せる人は誰1人いないだろうな。)

と考えが巡った。朝からどんな思想なんだという感じだが…

それくらいに誰にも 自分を話してないし、周りとも世間とも距離がある。

 

そもそも生き物はみんなそれぞれ1つの個体だと思う。

人もみんなそれぞれ1人、単体だ。
それが時としてくっついたり、離れたり、近づいたり、遠ざかったり。

孤独だから辛いのではなく、自分が誰の中にもいないことが虚しい。自分はここに居るはずなのだがどこにもいない気がして辛いのだ。

だからと言って、友達にLINEで報告したり、電話で話したりしようと思えない自分もいる。人の時間を取ってしまうこと、自分を中に入れてくれるとは限らないこと、拒絶されるのが怖いのかもしれない。諦めているのかもしれない。

今は、離れて、遠ざかって、そういう所に私はいるのだろうか。そういう時なのだろうか。
また時がきたら近づくのだろうか。

 

『生きているだけでいい』なんて思えない。生きていて何も感じない。自分がいないなら死んだ方がましだと思う。恵まれた環境で生きているのにそんなこと言うなとかそんなこと軽く言うなとかそういう言葉はお断りだ。それとこれとはまた別の話で、そういう次元の話をしているわけじゃない。

 

 

この曲が浮かんできたので、最後に紹介して終わる。

 

「どれだけ傷ついたって誰にも関係ないこと 

 鏡の中の人とだけ二人で持っていける

 なんでちゃんとお腹が減るの 何のために息は続くの

 明日もきっと生きてるよ だれにも関係ないままで」

BUMP OF CHICKEN ラストワン)