1人でどこかに行って寂しさを感じるときがあれば、人と出かけて自分の思い通りに、自分の意見を主張できなくてしんどいときもある。
人に与えられて手取り足取り教えられて嬉しくありがたいこともあるが、与えられて綺麗に準備されたものだけでは物足りない思う。
なにごとも傍観者になってしまってはつまらない。
ずっと探している色んなものの答えは、人を探しても、場所を探しても、遠くに行っても、田舎に帰っても、自然の中にも、誰かの中にも、私の部屋の中にも、お気に入りのカフェの中にも、本の中にも、あそこにも、こっちにも、あの人にも、存在しない。そこから答えは得られない。
ただ1人、私の中にしかないのだとはなんとなく分かる。
だけど今は自分のしていることが、無理をしているのか挑戦しているのか、どきどきしているのか居心地が悪いのか、安心しているのかつまらないのか、わからない。
色んなものの答えが全然わからない。
「誰の世界のなかにも私は存在できない」最近よくそう思う。電車に乗るとき、同じ車両の人、箱から出てみな改札に向かう大勢の集団の中。私はこの中の誰1人残らずその中に存在することはできない。
「ひとりきりなんだと、わたしは思った。もうずいぶん長いあいだ、わたしはいつもひとりきりだったのだから、これ以上はひとりきりになんてなれないことを知っているつもりでいたのに、わたしはそこで、ほんとうにひとりきりだった。こんなにもたくさんの人がいて、こんなにもたくさんの場所があって、こんなにも無数の音や色がひしめきあっているのに、わたしが手を伸ばせるものはここにはただひとつもなかった。わたしを呼び止めるものはただのひとつもなかった。過去にも未来にも、それはどこにも存在しないのだった。そして世界のどこに行ったとしても、それはきっと変わらないのだ。」
最近読んだ本で、ある場面で主人公が巡らせた想い。
すごくリンクするのだった。
「感情とか気持ちとか気分とかーそういったもの全部が、どこからが自分のものでどこからが誰かのものなのか、わからなくなるときがよくあるの」
「うれしいとか悲しいとか、不安とか、色々あるじゃない。テレビでみて面白いなあとか、エビ食べておいしいなあとか、なんでも。でもね、そんなのっていつか仕事で読んだり触れたりした文章の引用じゃないのかって思えるの。何かに対して感情が動いたような気がしても、それってほんとうに自分が思っていることなのかどうかが、自分でもよくわからないのよ。いつか誰かが書き記した、それが文章じゃなくてもね、映画の台詞でも表情でもなんでもいいんだけど、とにかく他人のものを引用しているような気持になるの」
と言う場面もあった。
とてつもなくよくわかる。
さっきリンクしたといったのは、この本からの引用なのだろうか。
私も、どこかで誰かが発信した言葉を覚えてそれを使っている。それは本当に自分から出た言葉なのだろうか。
自分の面白いは果たして自分で見つけたものなのだろうか。誰かの面白いを受け入りしているだけなのかもしれない。
これもまた、そうなのかな。疑いだしたらきりがない。
誰の世界にも存在できないはずの自分が、誰かの言葉や誰かの台詞や誰かのものを引用して日々過ごしている(ようなきがする)。
1人で立っているような顔して自分の言葉で話しているようなふりして、人のものばかりで取り繕っている(ようなきがする)。
なんだかすっきりしない。