「私は一緒にいる人の存在を消してしまうことがある」
隣にいるのに。一緒に出かけているのに。一緒に作業しているのに。
頭の中で思考が進んで自分の中で段取りを組んで相談もなしに進んでしまう。
そして、ちょっとしてようやくはっとする。
(相手の予定、意見聞かずに突っ走ってしまった)
と思った段階ですぐ「ごめん!一人で突っ走ってた」とか言えばいいのに、
(どうしよー。またやっちゃった。機嫌損ねたかな?なにって言えばいいんだろう?)
と頭でぐるぐる考えているだけで、外側では何も発しないから、ますます相手と溝ができる。
こうだ!と思ったらこう!と一直線。周りが見えなくなる。
1人でなにかをするならそれでいいけど、誰かと何かをするならそれじゃだめだ。
その場その場で今はどちらかを認識する必要がある。
今日の反省でした。
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最近仕事をしていて、私はやっぱり作ることそのものが好きなのではないのだろうと思う。
自分の大事で好きな人達を想って何かをすることが好きなのだ。プラスの気持ちを渡したい。
あるいは、誰かに何かを伝えたい。
工程(自分の働きかけ)によって出来上がりがどんなふうに左右するかを研究することも好き。
今の仕事でいうと、この料理は手作りでこんな風にしたら手間はかかるけど美味しいからぜひ食べてほしい。とか、新鮮な野菜は冷凍野菜よりおいしいんだよ。とか、生の果物は缶詰とは違うそのままのおいしさがあるんだよ。とか。
なんか、今逆転してるんだよね。
自分が伝えたい絶対的ななにかがどこかにいっちゃって、とりあえず目新しいものとか、短期的に商品を入れ替えるとか。
全部手間かけていたら、膨大な時間とお金がいるから不可能ではあるけど。
夏だ⇒夏といえば○○が食べたいなぁ⇒作る⇒売れる
が私的には理想。感覚的に移行していく感じ。
現状
月が替わったから新しいもの作らなきゃ。最近新商品出してないから商品入れ替えなきゃ。
なにも思いつかない。
とりあえず違うもの作って当たるか当たらないか。
作りたいというより作らなきゃなので、考えることに疲れる。
作らなきゃでつくったものは、どうしたいというはっきりとした主張ががないからぱっとしないし自分で正解も分からない。
商品開発や企画部の人間にはなれないな。とつくづく感じる。
ずっと同じものは飽きられるのかもしれないけど、わたしは短いスパンで入れ替え入れ替えは向いていない。
少数のものや人とじっくり向き合って育てていくような。
流行りよりも継承。
こうしたいからこうしたんだ。と自分で説明できるもの。
仕事となると気持ちは邪魔になる。
より多くの人に買ってもらうことがお店として考えたら良し。
1人のお客さんに入れ込むことは良いとは言えない。
特定の誰かを想ってするのは仕事としてはどうなのか。
だとしたらこの私の想いはなんの役にたつのだろうか?
これは仕事ではなく、個人活動では?
とぐるぐる頭が動いている。
この間、サクちゃん(@sac_ring)がツイッターで呟いていた言葉ある。
わたしは2年前にお店を閉じるまで20年以上ずっとお店をつくる仕事をしていたのだけど、「どこの誰に何をどのくらい届けるか」という設定からはじまり「何を大事にするか」を自覚して届け方や働き方を決めるやり方は、扱うものが言葉や他のものに変わっても、常に同じことをしている気がするよ。
— 桜林 直子(サクちゃん) (@sac_ring) 2022年6月7日
つくづくそうだな。と思う。
自分で選択できるんだよね。とも思う。
何を大事にするかは自覚できているから、
「どこの誰に何をどのくらい届けるか」
設定できたらなにか進むかもしれない。
私の満足する仕事のあり方ってなんだろう。