ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

考えすぎの頭の中

最近、詩をよくよむ。その中で感じること。

私がよむ詩の作者は、「言葉」というものは「嘘」ということを分かっているのだろうと思う。決してほんものを映し出せるものでは無いと知っているのだと思う。かといってそれは言葉が悪いというわけではなくて、言葉は言葉なだけでそれ以外の何かを伝えるものに適したものではないということ。だけどそれでいて、言葉を紡いで詩をかいている。むしろそれでも何か自分の中のものを出すように言葉を使う。それが詩人というものなのかもしれない。と勝手に私は思った。

言葉がもつ無情さを知りつつ、尚、言葉を紡ぐ。

対立しているような、矛盾しているような、切ないような、美しいような。

 

最近もよく、人と話すと私にはないと感じるものがある。
それは、私には語れるものがないと言うこと。
詩をよむのが好き。歌を歌うのが好き。好きな空間。自然が好き。空が好き。星が好き。木が好き。夕暮れが好き。
だからと言って、その好きなものについて語るほどの知識も経験も持っていないこと。
詩が好きだからといって、作者についてしっているわけではない。そもそも私が好きな作者の詩しかよんでいない。歌を歌うのが好きだからといって、発声の仕方を学ぶわけでもない。星が好きだからといって、星座が言えるわけでも、星の成り立ちとかをしっているわけでもない。夕暮れもまた同じで、メカニズムとかをしっているわけでもない。

自分が好きで気持ちいいこと。ただそれだけ。それ以上深く掘り下げようとしない自分。
こういう状態で自分より語れる人と話してしまうと、それを好きということにさえ引け目を感じてしまう。それが悪いことじゃないはずなのに。「〇〇が好き。…だけどあまり詳しくないです」」ってわざわざ付け加えないといけないようなそんな感じ。
だからといって好きにも色々あって、だめなことではないとは思う。

だけどもし、アウトプットするのなら、これだけではだめだとも感じる。私の好きはたぶん、自分の中でだけ楽しむためのもの。自分の中で循環して気持ちよくなるためのもの。自己満足。

好きなことで、好きなものに囲まれて生きていきたいと思っているけれども、それだけじゃ難しいのかな。もっと知りたい、掘り下げようがないのは本当はそんなに好きじゃないからなのかな。それともそれはそれでとっておいた方がいいのかな。

 

どうも1人の時間は考えすぎてしまう。

 

 

 

「何もかも過ぎるだ」

「けど、そうなくちゃならねえことは、そのままのこるだよ」

 

長田弘詩集より)