ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

〈レンタルなんもしない人〉というサービスをはじめます。

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最近Twitterを眺めていたら、フォローしている人のリツイートでたまたま知った。
なんか気になった。わからないけど、直感かなと思う。フォローをした。本当に数日前の話。
怪しいものとかお金で動いているような結果が全てとか意識高い系なものたちを私は無意識に敬遠している説がある。(?)
そんな私が無意識に近しいなにかを感じ取ったのかもしれない。

最近テレビで放送されたりしてちまたでは有名になっている人みたい。
本屋で過ごしているときに、たまたま目に入ってきた本。私にはタイムリーな話なので少し立ち読みして購入した。


この本を読んで考えさせられることがたくさん。
これを整理して、こうだ!と提示ができる気ができないけど、思いつくままに書いてみよう。

まず私がこの人の存在、「何にもしない人」を知ったときに素直に思ったこと。
・単純になにこれ?どういうこと?
・最初は何も知らなくてこれで収入を得ていると思っていたから(本当は時間の拘束に対してお金は発生しない)、こういう人が出てきたんだなぁ。とYutueberが出てきた時と同じような、また新たな分野が生まれたんだなという感覚。
・何にもしないでいわゆる成功っていうことができるなんて限られた人だけ。この感情は、少なからず自分には何にもしないで生きたいという願望があるんだなと感じ取ることができるなと思う。羨ましいという、瞬時に自分の中に生まれた妬みと、どこかで起こっている私とは違う世界の話という感覚。


この本をよんで思ったこと

これは、本当にいろんな感情が動いたし、自分の中でまだ落としどころがない、明確になっていないものが多いので書けるかわからない。
初めに一つ言えることは、この本は哲学だった。
そして「レンタルなんもしない人」がちょっと精神的な面で近しいものに思えた。
自分が今考えていることを再認識したり、自分の願望、自分と向き合うことをもう一度ちゃんとしていこうと思った。


そもそもレンタルなんにもしない人を使う人は、何が必要なのか。というところ。
「距離が近くない、何をしても利害が発生しない、だけど危険ではない存在。」
距離が近い相手とは、今後がある。近いからこそ、変に気を遣ったり、言えないことも多い。それはその人との今後があるから。直接自分の人生に関わるから。
本文の、このサービスは「人間関係を構築、維持するためのコストカットができる」「他人と友達のあいだにグラデーションのような境界線があるとするならどこかを漂っている存在」という表現にははっとさせられた。

「コストカット」
本文にも書かれているけど、私もこの言葉には単なるお金や時間という意味のコストではなく、精神面でのカットが大きいと思う。
人との関係を良好で維持させようとあろうとするならば、出来が良いか悪いかは別として多少なりとも気遣いや我慢や同調…様々なものが必要。
私は最近そういうのにかなり疲れている。
「金額が発生しないから貸し借りの関係がうまれない。サービスを利用しているときも変にお互い気を遣う必要がない。使う人も、無料だから期待しない。レンタルなんもしない人も無料だから、ストレスなくなんにもしないでいられる。」というような文もありなるほどと思う。
金額や好意の譲渡は人と人に貸し借りが生まれる→貸し借りの差を埋める如くまた譲渡が行われる→さらにその差を埋める如く譲渡が行われる
それによって関係が維持継続していっているのは確かに。このサービスにはそんな気兼ねは必要ないし、フラットでドライな期待のない関係でいられる。
私も恩を仇で返して生きているなぁと、勝手に苦しむことが度々ある。なんもしない人も書いていたのだけれども、与えられた好意(行為)に見合ったものやまたはそれ以上のものが私には無いと思っているし、与えられたらその分返さなきゃと思い込んでいる。生きづらさや人間関係にしんどさを感じるのはこういう部分もあり、それは私の苦手というか備わっていないものなのかもと発見と再認識した。

「他人と友達の境界線」
その辺が自分の中で確立できていない。どこからが友達なのか、そもそも友達とはなんなのか。他人ははっきり他人と言えるけれども、友達ってなんだろう。友達にも幅があって、他人から友達の間にも幅があって、それは何がどうあればそこに位置づけられるのだろう。
というのが私の中にずっとある。
一応友達と呼ぶ人は数人いるけれども、それでも少しその表現にためらいを感じるというか首をひねってしまうところがある。
だからこそ、私にも友達と他人の境界の人が必要なのかもしれない。ただ単に気を遣わずになんでも話せる相手が欲しくてそれによって心が軽くなりたいからなのか、それによって友達と呼んでいる人や今関わっている人がどこかに位置づけられる気がするのからなのかはよくわからないけど。

このサービスに多くの需要があるのは話題性というのもあるかもしれないけど、みんなそういう存在が必要だということ。
いつも忘れてしまうし自分だけかもと思ってしまうけど、生き物は「個」であり「孤」である。


なんにもしない人は、私の近しい部分で自由にやっているように感じ取れ、少し自分が許された気がした。
私は多分、表ではいわゆる普通の人(?)を演じている。(いや、演じれていないかな)
普通の顔して仕事をして、ある程度の雑談をして、ある程度笑顔を作って、あまり感情をださずに、面倒なことが起こらないように。最近は前ほどちゃんとした人を演じていない気が自分でもしてるけど。
本当は、「なんにもせずにぼーっとしてたい」「家事がめんどくさい」「1か月くらい休みが欲しい」「放浪したい」「人目や時間を気にせず野原とかで眠りたい」「後輩をかわいがるいわゆるよくできた先輩はできないので職場での人間関係めんどくさい」「夢とか目標とか大層なものはない(そういうのがないとだめだというのは疲れる)」「利益や店を大きくするほうに目が行きがちな職場とは方向性が違う気がする」「人との関係や肩書に疑問をもっている」「遠慮や引け目を感じる友達関係めんどくさい」「家族でさえ何かしら気を遣うのでめんどくさい」「父の日とか還暦とかのプレゼントは気持ちじゃなくて義務感からきている気がして本当はしなくていいんじゃないか」……
そんな、欠落したような、健康的ではない感情まみれ。
本を読んでいるとレンタルなんもしない人にも、そんな部分が垣間見れるうえにたくさんの需要がある。そんな人も居ていいんだ。と思った。ということは、そんな感情だらけの自分にやっぱり嫌悪感があるということ。


「何が好きか、ではなくて何が嫌いか。それを切り捨てることで選択肢を狭めてきた。」
そうそう、思い出した。私も嫌いなことはやらないって決めたんだった。
本文には何度も「それをストレスと感じたから」という言葉がでてきた。だから断ったとか、だから途中退室したとか。
この人の基準は自分がストレスに感じるか。選択があったとき、そのストレス度合いを天秤にかけ、重い方を切り捨てる。そんな風に生きている。
あぁそうそう。私もこうしたいんだった。それを生活しているうちに、自分勝手なんじゃないかとか、人の気持ちを考えてないんじゃないかという思考にだんだん寄ってしまいその軸を忘れてしまうことが多いのだ。その葛藤がすごく生きにくさを深めている(と気付いた)のだけど、引き戻された感覚。

数十年生きてきて、自分にも、夢をもって頑張る時期とか、生活や人間関係に希望や期待をもっている時期とか、未来に託していたものとかいろいろあったと思う。
今の時期は何なのかというと、ちょっと夢とか目標とかは置いといて、自由に(というとまた自由とはなんなのかという話になってくるけど)好きなように過ごしたい時期。そして夢とか目標がないことへの嫌悪感は少なく、それを肯定するというか開き直ることができている(そういうのはちょっと今しんどいし心すり減るんだからいいじゃんという感じ)自分にも気付いている。
目標をもって何かに取り組んでいる人をみたりその作品に触れると、(なんにもしてないな自分)って少しは思ってしまうけど、「おーやってるやってる。凄い。でも私は私。同じようにはできない。タイミングもある。」と少し切り離してみることができている。人生なんて語れないけど生きていると色んな時期があると思う。

今ここまで生きて、ほんとはずっと一緒だった自分、やっと見えきた自分、分かった自分、やっと認められるようになった自分、まだちょっと受け入れられない自分、知らない自分…がある。
毎日を、歳を重ねる私は、自分を見つめて見つめて知ってあげると同時に、それを元に自分を生きやすくする方へ選択することが可能ということも経験的になんとなく分かってきた。出来具合は別として。
自分の為に生きたい。自分に正直でありたい。自分の感情をちゃんと察知してあげて気持ちのいい方を選択する。
それを日々ですり減って忘れないように、当たり前にできるようになりたい。


最後に、こう書いていると「レンタルなんもしない人」は結構ドライで感情のない感じがするかもしれないけど、そんなことはない。
本を読み終えた時点で、遠い存在の人のようで近くにいる人のような不思議な感覚があった。
ちゃんと人間味があるし、この人にもいろんな葛藤があるし、こういう部分もあるけどこっちを陰とするなら陽の部分もあるに違いない。(勝手に言ってごめんなさい。)
知らないのに分かったように人のことを言うことを嫌う自分がいる一方、自分の感じたことを信じたい自分もいる。
こういう人が私にも必要な気がする。とさっき書いたけど、かといってレンタルをしたいとは今のところは思わない。私は理由が漠然としているし、単に遠いし(交通費は支払う仕組み)、レンタルなんもしない人だと言っても無料だといっても結局は気を遣って疲れちゃいそう。
そんなもん。
気になった人はTwitterやら、本やら見てみてみてください。(もう知っている人の方が多いのかな)