ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

一人暮らしのすすめ

以前、数人と話している時のこと。
実家暮らしの子に対して、「一人暮らしは一回はした方がいいよね」と話題になった。
咄嗟に「うん」と言った。その時は深く考えておらず、心の中で、 一通りこことは自分でするようになるし、一人は気楽で生活スタイルも自分の思うようにできるし、人はどうせ一人だし。 とか思っていたけれども…
今日ふと自分の中で納得がいくものが浮かんできた。

それは、
『一人暮らしは 自分の価値観を 自分の意思で作りやすい』
ということ。

私は早いうちから家を出たので、成人してから も実家にいるということが、どれだけ家族との関わりがあって、どれだけ生活サイクルが合うのかがよくわからない。
もうお互いに干渉しないものなのだろうか。家庭によっても違うとは思う。
そうだとしても昔からずっと その家の価値観 に囲まれているということは少し危ないと思う。

生まれてから家族の価値観や生活様式で育ってきた私たちは、外での人との関わりによって初めて自分の今までとは違う価値観に触れることができる 。
外で触れたものを家に持ち帰って「あっこれって違うなぁ」と気付くことができる。
どっちがどうなんだろうと考えることができる。

はずなのだけれども、小さい頃からずっと取り囲まれてきたということは、その家での生活様式、思考、立ち振舞い、流れ、が染み付いていることがほとんど。
更には、当たり前になっていて客観的に見ることができず、既に自分と一体化していたりする。
なので人の価値観に触れても、(なんでこうじゃないんだろう。)(なんでこうできないんだろう。)と違うことが当たり前じゃなくて、一緒じゃないことに不信感や苛立ちを感じてしまう。

せっかく違う価値観に触れたのに、家に帰るとまたがんじがらめ。
それを塗り替える、取り入れる又は私はやっぱり違うという判断をするということ自体に気付かない気がする。

というのも、私は今やっと幼い頃の価値観や刷り込みが薄れてきたように感じるから。
それは個人差があって、私だからようやくかもしれない。 長かった。しかもまだ確実ではない。
そんな私が外で触れたものを家に持ち帰り、いつもの価値観で過ごすとかなり戸惑ったのではないかと予想する。
どっちが正しい訳でもないけど、家でのことが当たり前だったのでもしかしてほかの方法があるのかも?ということにさえ気付けなかったかもしれない。

外で触れたものを家で1人ゆっくりと、何の邪魔も入らない自分だけの空間や空っぽな心で、それは自分にとってどうか というのを考えて取り入れる取り入れない という選択ができるのではないか 。
そうやって初めて、自分のものが形成され確立していくのではないかと思う。
特別、実家暮らしだからできないとは言わないけれども、何かと葛藤やしがらみ、偏りが出てきてしまうのではないかと感じる。


特に私は、がっちがちに凝り固まっていたので、一人暮らしを早くからしていて良かったと思う。
むしろそういうものが、全てとは言わないけど、窮屈だったのかもしれない。もう真相はわからないけど。

今ならそういう意味で、一人暮らしをすすめることができると思う。