ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

コミュニケーションの放棄。

コンビニで2通りの店員さんがいる。

 

1つは「スプーンはご入用ですか?」と確認してくる店員さん。

1つは何も聞かずスプーンとたまにお絞りも差し出してくれる店員さん。

 

これは、どちらがいいのだろう。

わたしは、前者が親切だと思う。

後者は、親切心はみえるが、コミュニケーションを放棄しているとも見える。

もしかしたらお客はスプーンは要らないかもしれない。

そのとき、「スプーンいらないです」といえば言いのだが、差し出されるなら貰っておこうという人が多いかもしれない。

これもまたコミュニケーションの放棄だと思う。悪循環。

元々コミュニケーションに長けているひとは、言えるのだとは思うけど。

 

ということを最近よく考える。

 

それは普段の生活でも言える。

いちいち言うのは面倒だ。とか、察してよ。とか。あるけれども。

人のことは分からない。

仕事上、大体の流れがあって、この人が今これをしているから私はこれをして、次はあれをして、というのを頭で考えてする。しなければならない。

次はこれを使うからこれを準備しておこう。きっとこれは次あの人が使うから出しておこう。

そのときに、全部全部無言でするのは、意思疎通ができているともいえるかもしれないけど、少し違うなと思う。

阿吽の呼吸ともいうけれども、もしかして、その人、それはいらなかったかもしれない。別のことをしようと思っていたけど、それを出してくれているから、先にそっちをしようとペースを乱しているのかもしれない。

お互い言わないと、分からない。スムーズなようで精神上に滞りが生まれる。

いちいち、「次これしますか?」「これだしときますね」というのは、慣れない新人みたいで鬱陶しいかもしれないけど、そうやりとりが手軽にできるのも大事だ。

 

 

元々、察してよ。言わなくても分かるでしょという私だった。

今は反省。分かるわけない。

コミュニケーションは放棄してはならない。