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思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

私とは何か 「個人」から「分人」へ

 

私とは何か「個人」から「分人」へ / 平野 啓一郎

 

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を読んだ。

 

この本はサクちゃんが(@sac_ring)そもそも交換日記に記述していたから購入してみた。

 

読み終えて、

これは私の個人という真逆にある概なのだけど、今までのもやもやがこの文書に書かれているのかもしれない。この思想を取り入れたら少し楽に生きられるかもしれない。

まだほとんどがかみ砕けていない状況で、取り入れるのにも時間がかかりそう。

 

 

たくさん「なるほど」「たしかに」「そういうこともあるか」という部分があったのだけど、それを上手くまとめられる気がしないので、まず、大事な部分について書いてみようと思う。

 

 

この本での「個人」とは…

人間をこれ以上、分けられない存在とみなすこと。

人間には絶対的な「本当の自分」という唯一つ中心の自分があり、それ以外は仮面を被ったニセモノの自分という考え方。

 

「分人」とは…

人間を分けられる存在とみなすこと。

対人関係ごとの様々な自分のこと。人やものやことから反復するコミュニケーションを通じて自分の中に形成されるパターンとしての人格で、中心となる「本当の自分」など無くどれも本当の自分という考え方。

 

つまり、個人とは絶対値1があるのに対して、分人とは分数に分けられ、それを全て合わせたら1になる。という考えかた。

 

と、冒頭に説明があるのだが、これだけで今までの私の概念が覆されたような感覚だった。

今までは、「本当の自分とは?」にフォーカスしてきたけど、これはまさに逆説で、どうやら「本当の自分なんてないよ。あの時もこの時もどれも本当の自分」ということだ。

 

前提として

・私は、本当の自分でいられる、自分らしくいられるように生きていたいと思っている。でも矛盾している自分がいて、どれが本当の自分か分からないし決めつけることもできないともやもやすることがある。

 

・人に対してもそうで、相反する性格を感じることもあるし、この人はこんな人と決めつけることが苦手である。

 

・Aさんは、私と接するときとBさんと接している時の感じが違ってなんだか気持ち悪いく感じることがしばしば。

 

・それぞれの人が1対1で話す時とは違う人になっている気がするから、大勢の人との会話が苦手。

 

というような、もやもやを感じている。

 

 

けど、これを「分人主義」に当てはめると納得もできる気がする。

 

 

・私は、本当の自分でいられる、自分らしくいられるように生きていたいと思っている。でも矛盾している自分がいて、どれが本当の自分か分からないし決めつけることもできないともやもやすることがある。

分人主義は関わる対象によって自分の反応が変わるので、自身が矛盾しているのは当たり前のこと。その時どんな自分の比率が多いか(=誰と過ごす・どんな環境で過ごす比率が多いか)で、自分はどんな人間と感じる具合も異なる。

本当の自分を決めつけることができない、自分には芯がないように感じていたけど、実は正常なことであると考えられる。

 

 

・人に対してもそうで、相反する性格を感じることもあるし、この人はこんな人と決めつけることが苦手である。

たまに、誰かが「あの人はこういう人だからこう接するといい」と言う。それを聞いて(この人はあの人のことをどれくらい知っているのだろう?よくそんな風に断言できるなぁ。私が人のことを見る目ないだけ?)と感じている。それは、人には色んな顔があるのは当たり前で、「この人はこうだ!」と1つに固めてしまって他の可能性を取り入れる余白を潰してしまうことへの嫌悪感だ。知らないところで「分人主義」を持っていたのかもしれない。

だけど生きていく上では「人を見抜く」ということが自分を守る手段になることもある気はする。人事の人は数少ない人との接点の中で採用不採用をきめるし、本能的にこの人はやばい!みたいな自分を守るために。

それとこれとはまた別の話なのかどうなのか頭が混乱してきた。

 

・Aさんは、私と接するときとBさんと接している時の感じが違ってなんだか気持ち悪いく感じることがしばしば。

Aさんは、私に影響されて私の前でのAさんになるし、Bさんに影響されてBさんの前でのAさんになる。単純に相互作用しているから。分人主義とは自然の法則なのかもしれない。

だけど、Aさんがこの人とはこう接すると決めていることはあり得ないことなのだろうか?コントロールするといったら言葉が悪いけど、「人を育てるために厳しくすると決めて接する」とか、「なんらかの事情でこれ以上距離を縮めたくないから必要以上な言葉を交わさない」だとか。

 

・それぞれの人が1対1で話す時とは違う人になっている気がするから、大勢の人との会話が苦手。

Aと私、AとB、AとC。

私とA、私とB、私とC。

BとA、Bと私、BとC。

CとA、Cと私、CとB。

それぞれの関係性がある、私とA,B,C,が同じ場にいるとそれが起こるのは当然のことだった。それぞれが誰と接するときの自分でいたらいいのかがうまく定まらないから。

だから私は、大勢の集まりでも、隅で2人でゆっくり話している方が随分と気が楽なのかも。特に私は、人によって開示している情報が違う。だから、Aの前では喋れることもBが居たらそこまで深く話せないことも多い。また、それぞれの人の前での自分が違う事が自覚があるので、Aの前の自分をBに見られるのが気恥ずかしいというのもある。これは上司の父親としての姿を見ると違いに驚く。だとか友達といる自分を家族に見られるのは気恥ずかしい。だとかそういうこと。

それが厄介なのは、それが当たり前なことと受け入れている人が少ないということ。(私も)Aの前ではあんな顔なのにBの前ではあんな顔をするんだ。Cって怖い。AがそうさせてBがそうさせて私がそうさせてCが成り立っている。そんなこと当たり前だと思うことができたらもっとそういう場が上手く回る、らしい。

 

 

分人主義というカテゴリーは、今まで感じていたことを上手く言語化してくれていると思った。

時と場合によって、どちらのスタンスでいるかが違うのだと気付いた。

1つ目と2つ目は分人主義寄りな考え方なのに、「個人」がなければならないと思っているからこそ、生じるもやもや。

3つ目と4つ目は個人主義だから生じるもやもや。

同じ人間なのにこれもまた、不思議。

因みに、「八方美人」は個人主義だそう。(この自分でと決めて誰にでも同じように接するから)

 

 

時間をかけて落とし処を探っていくようなかんじだけど、この思想、上手く取り入れられたらよさそう。