ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

ここに見つけた

どうも、私は私の気持ちがわからない。

というより、自分の気持ちにさえも責任が持てないのか。

人の言葉に、あぁ、そういうことだ。

そうそう。そういうことだよ。

と思うことはできるのに。何も道しるべがなかったらぼんやりとただただなにも浮かんでこないところをぼーっと眺めているだけ。

何一つ言葉が浮かび上がってこない。

想いがないわけではない。むしろ想いは強い方なのに。

自分の想いを翻訳する力がない。

 

 

SUPERBEAVERの軌跡をボーカルの渋谷龍太が綴った小説。

彼らは1度メジャーから降格して再びメジャーに上がってきたバンド。

メジャーだろうとインディーズだろうといいものは良い。

この小説で、「あー、なるほど。私の突っかかりはここなのかな」と思えたところがあったので。

 

渋谷龍太 書き下ろし小説「都会のラクダ」 (sonymusic.co.jp)

 柳沢と上杉と藤原さんと私でスタジオに入ったからライブが楽しかった、とか。自分たちで決めたセットリストがうまくはまらなかったから悔しかった、とか。自分で描いて自分で刷ったフライヤーだから貰ってもらえて嬉しかった、とか。その結果と、行き着くまでの過程がわかっていたから心が動いたのだ。しかし、インタビューの主旨を理解していない、紹介された偉そうなところが鼻につくおじさんが誰だかわからない、テレビで歌唱させてもらえたきっかけを知らない、が殆どになった。
 ここにいる自分が、ここまでどうやって来たのかわからない状況は、やっぱりリアルじゃなかった。ただ違和感はあれど、危機感までは持てなかった。
 その時に抱いていた感覚が、今現在の私が一番畏怖する感覚〈まア、こんなもんか〉である。
 最も味気なく、最もつまらないと思う感覚だ。

 

 

「自分はそこにいるのに、現状を把握出来ないまま、ただ運ばれるように時間が流れていった。
 わからなかった、知らなかった、は言い訳にならない。正直わかろうとしなかったし、知るために動かなかったのだから。
 やりたいなら何故やりたいのか。嫌ならば何故嫌なのか。確固たる意志をぶつけなければディスカッションするためのテーブルにも載せられない。言われたことが、体裁だけ整えられたそのテーブルの上で、合意したという形で決定事項となり、一つ一つ実現されてゆく。
 どうもまずいな、と思いながらも、それらに対して我々が唯一とった行動は、苦笑いを浮かべることだった。」

 


「 人数は関係ない、一人でも聴いてくれる人がいれば良い。と、いうのはマインドの話であって、ご飯が食える食えないの話とは別室で行われる話であったりする。
 往々にして同室しづらいこの二つに気を遣い、それぞれの部屋を交互にノックしながら日々を過ごすと、あれ、それぞれの部屋で意外と同じこと言ってね? みたいなことがある。部屋の往復の手土産に、互いの部屋にそういった共通点を持参すると、双方の機嫌を取れるので便利だ。妥協のないバランスの取り方を覚えることは、一つの道を走り続けるにあたり重要である気がしている。」

 

業種は違えど、こういうことかなと。

お店が大きくなり、人が増え、業務がそれぞれに分かれ、なぜ、この企画がでてきたか、なぜここに卸すことになったのか、今の来客は誰なのか、この取材はどこから話がきてどういう気持ちからなのか。

自分は指示された商品をとりあえず作る。

会社の意向、企画に沿ってつくる。

メディアに取り上げられて、注目された時の一時的な爆発的な売れ行きに左右されてスケジュールを組む。

なぜその商品?なぜその企画?今運ばれてきたこれはなに?

自分の目の前にあるものが何か分からない。

自分事のような他人事。

最早、そんなこと気にしている場合ではない。

自分には自分のやるべきことがある。

何もかも受け入れていたらキャパが一杯になる。

意味が分からないものを嫌って邪険にする必要はない。

全て全てを知る必要もない。

たまには流れに乗ることも必要だと思う。

だけど。なんかちょっとひっかかる。

このひっかかりをこのまま無視していいのだろうか。


そして、最後のかたまりの言葉だ。

1人でも食べてくれれば、身近な人が食べてくれれば。顔が分かる範囲の人たちが。それで喜んでもらえるならそれだけで十分。

本当に気持ち的には私もそう。というかそれで生きていけるならそれでいい。

そっちの方が私には向いている。

でも、なのだ。

それで食べていくなら、会社を存続させるなら、お給料を従業員にきちんと払うなら。は違うベクトルの話。

この業界も食べてくれる人がいないと成り立たない。

それがたくさんいればいるほどお金は回る。

「純粋な沢山の人に食べてもらいたい」という想いだけではない。

生活があるから。

 

その2つの部屋の行き来がうまくまだ行われない。そもそも私には沢山の人に食べてもらいたいという気持ちがあまりないのだと思う。

その先は、手の届かない、目に見えない、すべてを把握できないから。

私は、人の反応が見たいのだろうか。

見たいというと、喜んで貰うこと前提だけど、本当のところ人の反応を見ることは怖いこと。

自分が作ったものを自分の目の前で誰かがたべる。なにか反応があるはず。

いや、ないのが1番怖い。

良いの悪いの?もはやスルーするレベルのものってこと?

となるから。

良い反応ばかりじゃないのは当たり前…

少し話しはそれたけど、沢山の人にということになると、どうしても作業量、回転率、素早さ…とそっちの方に重きをおかなきゃ行けないのが苦手。

機械的な心ないものになってしまう。

私は、いちいち心を込めたいのだ。

でも、いちいち心を込めている暇はないのだ。

心を込めていようとなかろうと、ちゃんとした商品ができていればそれでいいのだ。

誰がつくろうと誰が考えようと。

レシピができて、機械がつくろうとも。

そこに愛がないなんて要らない想いだろうか。


まだ、その辺の同居ができない 。

落としどころが見つからない。

妥協のないバランスの取り方を覚えられるだろうか。

まずは見つけるところからだけど…