ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

もやもやの正体

私は結果を急ぎすぎるところがある。

その思いが心から強くなると、その思いで体中が満杯になると、今すぐにそれをしないと気が済まない。(その気持ちが湧き出るまでがなかなかなのだが。)欲しいと思ったものは今すぐにでも手に入れたいし、ここ行きたいと思えば今すぐに家を飛び出したい、何かを作りたければ今すぐ作り始めなければ気が済まない。
それは自分で動き出せばいいことで、そんなに難しいことではない。


ただ、『人』となると少し訳が違う
この人のことをもっと知りたい(どんな世界観をもっているんだろう、何を考えているんだろう、どんな生活をしているのだろう………)と思ったとき、今すぐ自分が動いたところで知れるわけではない。今すぐに会って話したいと思ったとき、今すぐ自分が家を飛び出したところで会えるわけではない。
人の心を完全に知ることは不可能。わからないことの方が多い。圧倒的に会えないことの方が多い。それはいつも私の中にある。

だけど、もっと知りたいのだ。会って話したいのだ。

でも、そうする術が無くてとてももどかしい。

細かく言うと、友達さえも。予定分かったら教えてねといっていて、なかなかその子から連絡がこないとする。本当に予定が出ないのか、それとも忘れられているのか、それどころじゃなくて日々に追われているのか、私と本当は会いたくないのか、催促するべきなのか、待つべきなのか。その辺がわからない。考えすぎなのか。

忘れられていたら悲しいけど、日々に追われて大変ならその気持ちもわかるから相手を追い込みたくはないし、思い出してくれた時に連絡くれればいいかなとも思う。本当は会いたくないのならもう何もしようがないけれども。だけど、私は会いたい。その場合、何を優先すべきなのかたまに分からなくなる。自分の気持ちを優先してもいいのか。相手のことを考えるべきが。

でも相手のことを考えるってなんだろう?本当はそうではなくて、ただ傷つきたくないだけかもしれない。結果を急ぐけど、結果を知ったらダメージを受ける自分が容易く想像できるから、傷つかないための予防線。関係をあやふやにしたままにするのかもしれない。だけど、会いたいよー知りたいよーって気持ちとは真反対な現実に悶々とする。

多分、人間関係はタイミングだ。その時のタイミングがあるんだ。待つべきか動くべきかわからない。待っても動いても多分そのタイミングで結果は同じな気もする。でもそれなら、動いた方が得じゃないかとも思う。動いてダメならタイミングが合わなかったんだって納得すればいい。待っているばかりだと、あの時動かなかったからってタイミングのせいにさえできなくて自分への後悔となる。

だけど、人への執着はあまりよくない。知りたい・会いたい気持ちにももっと余裕を持つべきなのかな。細く(?)長く付き合っていける関係がいいのだろうか。「人」という分かりきることが不可能なものを急激に知ってしまいたい、心をのぞかせて欲しいと思うこと自体がもう違うのかもしれない。

今までも言ってきた、距離の取り方。シンプルでいいのかな。自分が思ったままに動いたらいいのかな。


人と接していくうちに、だんだんこの人はこういう人だ。と決めつけてしまう癖もある。
自分がそう感じているからそれはそれでいいと思う。でも、こういう人とは関わりたくないとか今までの経験上でその人をそこに置いてしまって、距離を置こう、これ以上は関わらないようにしようとしてしまうこともある。その人のそれがほんの一部分だとしても。それ以上知ろうとすることをやめてしまう。それはきっと良くも悪くもあるんだろうな。

自分にとってこの先付き合っていく人たち(もしくは今周りに居る人達)がどういう存在か、結果がわかるのはまだちょっと先の話で、わからないままもあるかもなぁ。
結果を急いでしまう私には少しもやもや、もどかしい。