私は病院があまり好きではない。
それは以前も書いたと思うので理由はいいとして…
今日、耳の調子が悪くてこれはどうにもならないと思い病院に行った。
その時感じたこと。
病院の1番の救いは、「何も気にせず、ここが痛い。ここも痛い。これが辛い。」と言えることじゃないかと。
私は我慢強いのか、痛みに強いのか、人に言って騒いだところでどうにもならないし、と思っているのか、痛いとか体調悪いということを周りに言えない。
根本的に、今この瞬間、自分が感じている痛みなんて人の痛みに値しないのではないかという思いがある。ということも最近分かった。
私の姉は、お腹痛いとかしんどいとかをよく言う人だった。
あんなに苦しそうに、あんなに訴えるのだから、私の痛いは取るに足らないんだろうな。と思っていたような気がする。
そうしていたら、私は健康だ。という思い込みが出来上がったのでは…?
普通にお腹は下すし、便秘でお腹が苦しくなるし、生理前からお腹が張って苦しいし、生理痛がしんどい時もある。
のに、それらを私は無視するようになっていたのだ。
人によってはそれで痛いと訴え、しんどいと休むことを、私は健康だし、そんなんじゃないと目を向けてこなかった。
本当は、私の痛いと姉の痛いを痛いレベルを計測できる機械があったとしたら同じくらいの痛みレベルなんじゃないかな。
と最近気づいた。
私も痛いなら痛いんだし、しんどいならしんどいんだ。
自分の痛みには気付けるようになった。
私はいい意味で健康じゃないと疑う目も持てるようになった。
でも、やはり人に出すことはできない。
私だけが苦しいんじゃない。みんな何かを抱えて生きている。
それを色々で繋いで生きている。
のに、痛いよ。苦しいよ。って言えない。
から、病院の出番。
病院は苦しいことを訴えることから始まる。
なんてありがたいんだろう。何も気にせずに。
慣れている先生は、流しそうめんの様に私の言葉を流していくけど、いいんだ。
心配も慰めもいらないから、とにかく、「しんどいよー痛いよー助けてー」って言いたいだけ。
体から放出したいだけなんだ。
病院ってそういう吐き出す場所のない感情を受け取る役割もしているのかも。
という発見があった今日。