こだわり過ぎない、完璧を求めない、許す。
というのをここ数年、心がけてきた。
固い、偏った、頑固な心のバランスをとりたいから。
「まぁ、いっか~」
「それならこうしようよ」
「仕方ないね」
笑って終わらせてきた。
そしたら、自分が消えた。
そんな感覚になっている。
それは心から「まぁいっか」って思っていないからだろう。
本当はこうしたい。こっちが大事。ちゃんと持っている。
けれど合わせている。妥協している。
(言ったって仕方ないし)「まぁいっか」
(どうなったっていいし)「まぁいっか」
諦め、なげやり。
本当は許せてなんてない。こうしたいがある。
1つ1つに、
本当はこうしたかったのに出来なかった悔しい!
本当はこういう想いがあるのに全然伝わってない悔しい!
本当はそうじゃないのに勘違いされてもやもやする!
こだわりや想いがある。
自分が自分を無かったことにしようとしているから、そこに自分で失望している。
いつまでも自分が自分にそんな態度だから、自分がそっぽを向いて、いうことを聞いてくれないなら、もういいやって。
「こいつには何を言っても無駄だ」
一番は自分が自分に言っている。
ー私たちはいま自分たちの役割を探している。いや、というよりお、私たちはいま自分たちに何か役割を与えざるを得ない。
ーしかしそれはいったいどういうことだろう?私たちは、自分たちで自分たちにわざわざ役割を与えられなければならないほど軽い存在になってしまったのだろうか?もし私たち自身が自分たちにとって重要な存在であるのなら、わざわざ自分たちの役割を探し当てねばならないなどということにはならないだろうから。
ーどうしてそんなことになってしまったのか?なぜ私たちは自分たちの意味や可能性を見いだせないのか?これはまるで、あらゆる物が私たちに対しで無関心になって大きなアクビを吹きかけているかのようではないか。
ー何にせよ、私たちは自分たちのために一つの役割を探している。「これこそが私のなすべきことだ」と言える何かを探している。
ー言い換えれば、私たちは、自分たちを自分たちにとって再び興味あるものにしようとしている自分たちが自分たちにもっと関心をもてるようになろうとしている。
ーだが、ここには何かおかしなことがありはしないか?なぜそんなことしなければならないのだろう?
ーもしかしたら、私たち自身がいま、自分たちにとって退屈になってしまっているのではないか?だから自分たちをい自分たちにとって興味あるものにしようとしているのではないか?
ーしかし、人間が自分自身にとって退屈になってしまっているなどということがあり得るのだろうか?なぜそんなことになってしまったのだろうか?
暇と退屈の論理学/ 國分功一郎 より