私は、「凌ぐ」とか、「なんとなく適当に」が苦手だ。
時間が解決してくれるものの、時間が経過するまでに、自分で動いてどうにか楽なところへいきたくなる。
なんともない時間が、実は何も得てないように思えて苦手なのだ。
その傾向が強くなる時もあれば、弱くなる時もある。
その傾向が強くなる時は、生活のどの部分でも満たされないとき。
弱くなる時は、どこかで何かが満たされているとき。
待てないということは、そのこと1つに囚われてしまっていて、気になってしまって保留にできないということだ。
最近、「そもそも交換日記」を少しずつ読んでいる。
蘭ちゃんが、自分はいつもなにかと戦かっている。
「もっとがんばるべきだ」「もっと成長するべきだ」と思ってしまう。
「鬼コーチ」を飼っていると書いていた。
私もそうだ。
「どうにか凌いでて」
と言われたとしても、適当にはできない。
野放しにされればされるほど、ひらめきというか、色んな事があれこれ浮かんでくる。
身体を動かしていると、浮かんでくる。机の上でこれどうしよう…?と考えていると全く浮かんでこないし、人がいると浮かんでこないのに。
あれやるのはどうかな、これもしたいな、一人では手が足りなく収集がつかなくなる。
結局時間が足りなくて、全部できなくて、なぁなぁになる。
意味なくすることが好きじゃない。心なくすることが好きじゃないのに。
どうせするなら、よくしたい、楽しんでもらいたい、喜んでもらいたい。
そういう気持ちがでてくる。
凌げない。目の前のものに、思いきり向き合ってしまう。
でも、誰にも何も言われないと、何が良くて、何が正解なのか分からなくなって、なんのためにやっているのだろう。と気持ちがしぼんでしまう。
人の喜びや楽しさが原動力になる。
だけどそれだけだと危うい。
どこかで誰かがストップをかけないと、どんどんだれかの反応を求めてあれこれしてしまう。
自分で「これができたからいいじゃない!」と称える力が必要みたい。
1つのことに囚われないことが必要みたい。
生活って様々なことで成り立っているから、何か1つで頭をいっぱいにするのはなんか違うよね。って最近思う。
色んなところから穴をほるような、たくさんのコミュニティに顔をだすような。
ここだけに注力するんじゃなく、全部の時間が私の時間と大切にしていきた。
気が付けば、1つの方向から掘り進めて行き詰ってる、1つの物をクローズアップしてしまうのが私の性質だから、たまに立ち止まって、角度を変えたり、引いてみたり、が必要。
忘れないように、誰かがずっと囁いてくれてればいいのにね。