ordinary day

思ったことを気ままに。日々向き合って、自分や生活を心地よく。人を照らせる人間になりたい。音楽やカフェ、旅や自然。

どうしても自分の心というものが分からなくなってしまう。

 

心というのは、きっと深い深い器のようなもので、それは幾つもの層でできているように思う。

 

奥底には、ちゃんとした、自分の『人としてどうありたい』とか本質的なもの、根源みたいなのが、あると思う。

それはもう本当に奥の奥底で、色んなものが重なって重なって、押し潰されてぺっちゃんこになっている。

でも薄っぺらでも、カチカチになってちゃんとそこにある。

なかなか辿り着けないし、覗けないけど、取り出すこともできないから、きっと無くなることもない。

 

そんな『自分』というものを私は、最後の最後には信じている気がする。

もうどうでもいいや~、どうにでもなれ~、どうせ私がどうこうしたところで誰も見てないし~

となげやりになることがたまにあるし、そういう自分もたまには必要だとも思う。

だけど、最終的には帰ってくる。

なにやってんだろう、しょーもない、結局こうはなれないんだ…って。

 

その奥底にあるものをはっきりと何とはわからないけど、わからないけど、きっと私は私を信じている。

安請け合いや安売りはきっとしない。

それは多分、無意識なところで。

 

 

それでもなんで私は、どこからか人が言ってくれてきたことを素直に信じて、自分を鼓舞して邁進できなくなったんだろ。

あの時やあの時。

 

その人がそう見えてるからそう言ってる。

そう言いたいからそう言ってる。

むしろ言わせてとおこう。

 

と思えたらいいのだろうか。

 

言わせておこうはちょっと違うかな。

悲観が入ってる。

 

 

心   /  稲盛和夫

を読んで素直な沸き上がった感情を書いてみた。

こういう話だったかと言われると違うような、近しいような。いや、違うか。