ordinary day

思ったことを気ままに。自分を構成するものとは。他者とは。旅や自然。

身体の言い分  内田樹 / 池上六郎

 

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「身体の言い分」

を読んで。

 

 

本屋をうろうろしていたら見つけた表紙。

どうやら私はまだまだ身体のことについては知りたいらしい。何かヒントを得たいらしい。

身体の不調からいろいろ試し、本を読み、今なんだけど、この本からも何か得られそうだ。と購入。

 

この本はこのお二方の対談になっている。

哲学者と治療家。恥ずかしながら私は無知なので初めて名前を聞く。

 

まえがきは内田先生と池上先生との「ご縁」による出会いの説明から始まる。

内田先生がひざを悪くし、どこの医者も「手術するしかないが、膝の手術は難しいからもう少し状況の進行をみて考えよう」と言われ途方に暮れているときに、いろんな状況や環境が繋がり池上先生と出会い、膝がよくなった。

かなり簡単だけど、こんな感じ.

身体論でもあり、人生論でもある。

 

 

対談では様々なことが書かれている。

以下は繋がりがなくて単発的でどれも自分なりに要約、解釈して、私の中に残ったことや感想。

 

 

・今の時代の子は話題が少ない

今の子は、自分の好きなことについては語ることもできるし人と盛り上がりのある会話をすることもできるけど、興味のないことに関しては的確な質問をしてそれで相手と盛り上がるという高度なコミュニケーション能力がない。昔はある程度の論争でコミュニケーションは成り立っていた。

その為にはそれについてある程度全体の基礎知識がないとできない。議論するにはある程度共通の暗黙のルールが必要で、それができるということは相手との間にコミュニケーションのための土台が既にできあがっている。

議論により、自分にないものへ触れることができるし新たなものに出会うきっかけになることもある。

趣味が合うことに重きを置いていて、人自体をみていない。

 

なるほど。今の時代、確かに好きなことだけをすればいい。嫌なことに時間を割くなんて勿体ないというような考えで溢れている。

今の時代はこうだ。昔はこうだったのにというのはあまり好きではないけど、この言い分は分かる。実際に自分は人と会話ができないなと思うことが多いから。

それは自分に興味や知識がない→相手の話に乗らない・踏み込んだ質問ができない→話が広がらない→そこで会話終了

となっているからというのは薄々気付いていた。

小説でも時代を感じるなぁというのは少し昔の発行のもので、友達同士での論議の場面が入っていた。ここで時代性を感じていたことにやっと気づいた。

好きなものは好き。嫌いなものは嫌い。というのはいいと思うけど、そこで終わってしまう。あまり理屈をつらつらいうのもなんか嘘っぽいし感じたそのままの気持ちでいいじゃないかとも思うけど、「こうこうこうだから良い」「こうこうこうだから悪い」と感情を抜きにした理屈を話せないと会話はそこで終わってしまうし説得力はないんだな。

それが今の私。一般論や理屈はいいからあなたはどうなの?あなたと会話がしたいというタイプ。

好みの話と良し悪しの話は同じようで全く別ものなんだな。

どっちもできたら会話が広がるんだろうな。

あと自分は、人に趣味とか聞いて、(あ、この人趣味合わないな)と話しても話が通じないと勝手に決めてたことに気付いた。話が通じないのは自分の方だった。

自分にないものに触れるチャンスを遮断していたのは自分だったなぁ。

 

 

・気持ちは伝染する

同じ空間にいる人と人はリンクする。

気分がいい人がそこにいるとそっちに引っ張られる。

治療もその空間に体調や気分の良い人を置けば、患者に伝染していく。

 

これは本当だなと思う。

最近よく感じていた。

一対一でも集団でも。

普段人と接するだけでもそれは安易に分かる。

レジでのやりとりでも、受付でのやりとりでも、すぐに伝染する。

人は鏡だというけど、本当にそうで、自分の気持ちが相手にそのまま表れている。

接客業なんだからさっきの人、もう少し笑顔で対応してくれたっていいのに。と思って思い返すと意外に自分が初めての店で緊張して顔がこわばっていたり。

ある程度空間になれて、ごちそうさまと帰るとき笑顔で言ったら、最初のやりとりが嘘のように相手も笑顔で返してくれる。

職場でも、狭い空間で2,3人で作業をしているため、1人の気分がかなりその場の雰囲気を作っていると思う。重苦しかったり、喋りにくかったり、真剣だったり、明るかったり。それは人によって違うから、自分も気を付けなきゃなとは思っているところだけどきっとできていない。

こっちが負の状態でも相手が上手だと、笑顔で返してくれたり対応が明るい。するとこっちが笑顔になる、気持ちが明るくなる。そんな風に伝染する。

人は雰囲気を周りに放っている。というか自然に出ている。それが周りの空気を伝って、人までをそうさせるのだと思う。

だからできるだけ自分が気分の良い状態を保っていたいなと思っているところ。

 

・ルーティンライフはいいこと。変わったことをしないから何か起こったときにそれを瞬時に察知できる。

若い子たちは、刺激が欲しいといっている、自分で新しいものを掴んでいかなきゃと思っているが、そうではない。

毎日同じ時間、同じ道、を通る方がよっぽど効率的。用もないのにどこかへ行ったり、仕事帰りはまっすぐ帰る方がいい。

そういういつも同じことを繰り返してるところに、チャンスがやってきた方が気付きやすく掴める。

劇的な人生を望んでいる人にこそ何も起こらない。というか起こっても気付かない。

チャンスは向こうからやってくるもの。それが一番いいタイミングということ。日々淡々と暮らしどんと構えておけばいい。

仕事にしても、自分から掴むにいくなんておこがましい。巡ってきたものが自分の評価であり、チャンスである。

 

と。これについては分かるような分からないような。

言っている意味は分かるのだけど、私はこうは思わない。

ルーティンライフには飽きがくる。

この話を使うとするなら、この飽きが自分の中に起きて気付いたときがタイミングなのかもしれないな。何かを起こすタイミング。なんて勝手にこじつけてみる。

だけど待っていればチャンスが向こうから来るなんて思ったことあまりない。いろんなことを見ようとして気付いてこれなかっただけなのだろうか。

何もしないで日々同じように生きるのはつまらないし、自分で動かないと待っていても何も始まらないとも思う。

ここで言う「平凡に淡々と」というのはなげやりで閉鎖的な感じではなくて、丁寧に満足して淡々と生きるという意味なのだろうな。解釈の違いで随分差がでる。

どんと構えておくという気持ちの余裕はどんな生活にも必要だなとは思うけど。

心に余裕や隙間がないと全てうまくはいかない。

これに関しては色々とやりつくした人の言葉な気がする。私自身はまだ動かないとダメな気がする。

 

 

 

・さっきとは違うことをする

どの治療にも言える共通のことは、今までとは違うことをしているということ。

 

当たり前のことだけど大前提すぎて忘れていたかもしれない。

体の不調が治らない。それはずっと同じ状態でいるから。

自分で重心を変えてみたり、頭の位置を変えてみたり、呼吸を意識したり、脱力を意識したり…

違うことをしてみて変化を見る。それでもだめなら更に変えていく。その作業が繰り返し必要。すぐに答えが見えなければやめてしまいたくなるけれど、いつか辿り着けると身をもって感じている。

そうだ。それはさっきと違うことをしていたのだ。

生活のなかでも上手くいかないことがあったら同じやり方をしていたら永遠に変わらない。

やり方を変える。違うことをしてみる。

そして様子を見る。

人生はその繰り返し。

違うことをするには少しの不安はあるけれど違うことをしないとなにも変えられない。

 

 

・脳ではなくて体の声をきく

脳であれこれ考えている時点で緊張状態が生まれる。そんなものは自然な状態ではない。

余計なことは考えなくていい。

なにがどうなってこうなっているから体が良くなったという理論よりも、ただただ体が気持ちいい、解放されている状態が正しい。

 

 

 

私はこの筋肉がこれと繋がっているからこうしたら楽になる。というような理論が解った方が体がよくなると思っていたけど、実際目に見えないし、何が起きてるなんて正直よく分からない。

だから体が楽な状態、それを感覚として覚えることのほうが大事なのはよくわかる。

しかも考えすぎてなにが正解か分からなくなってしまうことも多々あるから、体や気持ちが開放的な状態であるには、忘れることも重要だと思う。

それにやっぱりあれこれ考えて感じたことよりも、最初の最初、目にしたときに感情を言語化するまでの数秒。そこの自分の感覚を読み取ることが1番だと思う。それが直感。

じゃなきゃ、感情を言語化するのは色々な情報が入ってきてそれを総合して脳が決めるので、最初の自分が感じたものはどこかに追いやられている可能性が多い。

脳は、あれこれ考えるよりも、自分の体のこえをきちんと聞くことに使いたいな。

 

 

 

・現実を見て考える。

現実、現場、をみて体の反応に従う。

それなのに、あれこれ先のことを予測して、理想を掲げて、こうしたら幸せになれる、楽しくなると勘違いして人生設計をしている。その上、人生がつまらないと嘆いている。

そりゃ楽しくないに決まっている。いつ死ぬか分からないのに、何が起こるか分からないのに、長生きするつもりでいる、コントロールできるものと勘違いしている。

将来設計することによって、様々な情報を自分には関係ないと遮断してしまっている。未知なものとの遭遇を自ら閉じてしまっている。

起きたことが、現実なのに。

現実の方が理論よりよっぽど複雑で説明なんかできないのに。

 

 

自分は先の回りしてこうなるかもしれないと、不安要素を並べては何かをすることを躊躇することが多い。

それは自分を守るためだと他の本にかいてあった。

でもそれは空想にすぎなくて、まずはやってみてなきゃ自分がどう感じるか、それが何にどう作用するかなんてわからない。

気持ちも行動もその時の自分の反応を見ることから始めることがまず第一段階。

私は体のことを考えるようになってから、以前よりは自分が出来事に関してどう思っているか、この空間に対してどう思っているか、今日は体はどんな調子か、呼吸は浅くないか…などなど日々体に耳を傾けるようになった。

自分がそこにいて、嫌なドキドキがあるならその場から離れようと思うし、呼吸が浅いなら気持ちが落ち着かずせかせかしているとわかる。

出掛けてて気分が悪くなればよっぽど影響しなければ家に帰る。

自分が今どうか、状態を受け入れることから始めている。

今後もこれは続けていこう。

これやってみたいと思ったものがあれば、その段階で思考をストップさせてできるだけ不安要素を持ち出さないようにしてすぐにやってしまおう。

予測よりも、現実と向き合うことを優先。

 

 

 

・正しい位置とは正しい位置にすぐに戻れるのが正しい位置

この場所という、固定されたものではない。状況も環境も変わるのだからそれぞれの場面に適した位置がある。

 

私は普段からそれぞれのパーツを正しい位置にしていたら体は楽になるはずと思い、本をみて実践していった。

だけど固定していればいいわけではないんだ。生活していると当たり前に動きが出て状態も変わるから正しい位置は常々変化するのだ。正しい位置とは流動的じゃなきゃいけないんだな。

場面や場所でも自分が物理的にいるべき正しい位置というのがある。

飲み会や集まりとかでの自分の正しい位置。

そういうの苦手で面倒だなと思うけど場面ごとに正しい位置を見つける、さっと動ける人というのはやり手だと感じる。それが当たり前に体に身についている人は見ていてかっこいいもんなぁ。

 

 

長々まとまらないが、頷けることが対談となっている。

体のことも人生のことにも通じる。

考え方や信念は自分がこうだって決めておけば、色んなことに一貫して自分という生き方が出来るのだと思う。

だから全ては自分の感じたままに、自分が決めるべきなのだ。

 

心と頭は別々に考えることは違う。心と体、体と頭も同様に。

体の声も心の声も頭の忠告も聞いてあげなきゃいけない。

こんなことを書いてると、チャットモンチーの曲に『こころとあたま』という曲があったことを思い出す。

体全部のことにいえるけど、切り取ってそこの部分の心配をしても意味がない。

全ては繋がっているから。そこだけの原因って実はない。

それは現実世界も一緒。

この本の対談も見出しごとに関しての対談だけど、1個ずつ切り取れるものじゃない。すべての話は繋がっている。

対談になっているので少し面白おかしく、堅苦しく難しい話という感じはなくてどんどん読めた。

 

 

私にこんな言葉をいってくれる人は周りにいないので、本からこんな風に語りかけてくれるのはとても必要なことだった。

 

 

身体の言い分(毎日文庫)

身体の言い分(毎日文庫)